去年の春に死んだ人
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
1.世紀末恐竜研究会の人
去年の春に神社の階段から転がり落ちた三宅さんは、去年の春に突然僕の部屋に現れて、
「荘ちゃん」
と僕のことを呼んだ。それから、
「いまねー、俺、死んだみたい」
と平坦な声で言ったのだ。
「神社の階段、踏み外した」
そして、そのまま僕の部屋に居着いてしまった。
三宅さんのことは、世紀末恐竜研究会のひとだという認識しかなかった。生前の三宅さんとは一言二言、言葉を交わしたことがあるばかりだ。学食で世紀末恐竜研究会の勧誘を受けて断ったのだ。それだけの接点だったので、特に仲が良かったわけではない。もちろん、「荘ちゃん」なんて親しげに呼ばれるような覚えもない。なので、三宅さんがどうやら神社の階段から落ちて亡くなったらしいということは理解したのだが、三宅さんの葬儀に出ようという発想自体がわいてこなかった。
三宅さんは、自分の葬儀が行われているらしい日にも僕の部屋にいて、そして、自分の葬儀に行こうともしない僕に、なにも言うことはなかった。切り揃えられたやわらかそうな前髪の下の意外と大きな二重の目で、僕の様子を眠たそうに、ただ眺めていた。
2.あなたがいてもいなくても
あれから一年が経ったけど、僕の生活はなにも変わらない。スクリーンに映った映像のように、三宅さんには実体がなかったし、三宅さんは去年のあの日以来なにも喋らないものだから、ただ僕のそばに三宅さんの映像があるというだけのような状態だ。
三宅さんがいてもいなくても、いつもと同じように時間は流れるし、地球は回っている。三宅さんがいてもいなくても、世界はなにも変わらない。三宅さんがいてもいなくても、僕のお腹は変わらず減るのだ。
そんな風景を一年間、ただ眺めていた三宅さんは、なにを思っているのだろう。最近ふと、そんなことを考えた。
レトルトカレーのパウチを鍋で温めながら、僕の左隣に立っている三宅さんを見る。三宅さんの視線は、沸騰する湯の中の銀色のパウチに注がれている。僕は、じっと三宅さんを見る。三宅さんが、一年間僕にしていたように、僕も三宅さんをただ観察してみる。耳が隠れるくらいのやわらかそうな黒髪と、意外と長い睫毛が、なんだか女の子みたいだ。かわいいというわけではなく、単に中性的な顔立ちという意味で。こういう女の子、普通にいそう。そう思っていたら、三宅さんの視線がパウチから僕に移動した。目が合ったことが意外だったのか、三宅さんは眠たそうに細めていた目を一瞬だけ見開いた。
僕は、三宅さんのやわらかそうな髪の毛にさわってみようと、手を伸ばす。あたりまえ、なのかどうかはわからないけれど、その手は実体のない映像を通り抜けるみたいに空振った。やっぱりさわれないのか。そう思いながら、コンロの火を止め、パウチを破る。温めておいた白飯にカレーをかけて、僕はテーブルへ移動した。いつものように、三宅さんもついてくる。僕が座ると、僕の向かいに三宅さんも胡座をかいて座る。そしていつものように、僕が食べるのをただじっと観察するのだ。
見られているという状況に最初は戸惑ったけど、しばらくすると慣れてしまった。たまに三宅さんがそこにいるということを忘れてしまい、うっかり自慰をしてしまうことさえある。そんな時も三宅さんは、僕のことをただじっと観察しているのだ。なにが楽しいのだろうと思う。そもそも、なぜ三宅さんは僕の部屋に居着いているのだろう。カレーを食べながら考える。本人に聞くのがいちばん早いのだろうけど、うっかり口を開くと会話が始まってしまう。喋るのは面倒くさいな、と思う。だから、僕は一年間も三宅さんを放置してきたのだ。
スプーンでカレーを掬い、そのスプーンを目の前にいる三宅さんに差し出してみた。三宅さんは身体を前方に倒し、「あ」の形に口をまるく開いた。そして、スプーンのカレーをぱくりと食べるふりをしたのだ。カレーは、当然のように、僕が差し出したそのままの状態で残っている。結局、そのカレーを僕は自分で食べた。そんな僕を、三宅さんはじっと見ている。
3.プロトケラトプス・アンドリューシ
朝、目を覚ますと、胸の上を跨ぐようにして三宅さんが乗っかっていて、僕の顔を覗き込んでいた。形だけは乗っかっているように見えるけど、よくよく見ると、実際は僕の上ぎりぎりのところで浮いている状態だ。実体がないのだから、こういうふうに「ふり」をするしかないのかもしれない。
三宅さんはとうとう、ゆうれいらしいことをすることにでもしたのだろうか。金縛りとか。そう思って、両手をにぎにぎと動かしてみた。普通に動く。身体を起こしてみると、僕の身体は三宅さんを通り抜け、やはりそのまま普通に起き上がってしまう。金縛りとかそういうことではなかったらしい。
なにがしたいのだろう。思いながら、僕は身支度をして、部屋を出る。大学へ行くのだ。閉まるドアの向こう、三宅さんが眠たそうな目で、こちらをじっと見ている。
三宅さんは、この一年間、ずっと僕の部屋からは出てこない。出られないのかもしれない。
学食で、三宅さんに声をかけられた時のことを思い出した。
「一回生ですか? 世紀末恐竜研究会に入りませんか?」
その時、三宅さんの視線は、僕の傍らに置かれたリュックサックにぶら下がっている、プロトケラトプス・アンドリューシのキーホルダーに注がれていた。大学に入学する際に、お祝いといっしょに祖父がくれたものだ。唐突な勧誘に驚いたが、三宅さんの視線の先のキーホルダーを見て、恐竜好きだと思われたのか、と納得した。
このプロトケラトプス・アンドリューシは、祖父がくれたものだから付けているだけで、僕は恐竜がものすごく大好きなわけでも特別詳しいわけでもなかった。だから、
「すみません。サークルには入らないことにしてるんです」
と答えた。その時、三宅さんは、はっとしたように目を見開いて僕を見た。
「声がいい」
三宅さんは呟き、
「ええと、名前、教えてくれる?」
のんびりとした口調で言った。名前くらいいいかと思い、
「片山荘司です」
僕は素直に答えた。
「わかりました。ありがとう。俺は三宅義実です」
三宅さんは自分も名乗り、そして、
「またね」
と、そのまま行ってしまった。
三宅さんがゆうれいになって僕の部屋に現れたのは、その三日後のことだった。三宅さんは、あの時の「またね」を実行したことになるのかもしれない。
そんなことを思い出したからか、僕は気まぐれを起こしてしまった。帰り道にあるパン屋のウィンドウに恐竜クッキーを見かけて、それを衝動的に購入してしまったのだ。リュックサックから財布を取り出しながら、え、五百円もするの? と早速後悔した。
部屋に戻り、この部屋にある皿の中では比較的大きいだろうものをテーブルに置いた。三宅さんは僕の左隣に座って、その様子をじっと見ている。
僕は、皿の上に、恐竜クッキーを一枚一枚並べていった。三宅さんの眠たそうな目が、きらりと輝く。三宅さんは僕を見て、ふにゃりと表情を弛緩させた。笑ったのだ。
僕は、皿の上のクッキーをひとつつまみ、三宅さんの口もとに持っていく。三宅さんは口を開け、ぱくりと食べるふりをした。そのクッキーを、今度は僕が本当に食べる。
それを、クッキーの数だけ、一枚一枚繰り返した。三宅さんは、クッキーをつまんだ僕の手にさわろうとして、度々空振りをしていた。その度に、三宅さんは泣き笑いのような顔をする。
4.三世紀にわたる数学の歴史
夜、本を読んでいると、三宅さんが覗き込んできた。
「読んでみて」
と三宅さんが言った。僕はぎょっとして三宅さんを見る。三宅さんの声を聞くのは、一年ぶりなのだ。
この本を朗読しろってことですか? と尋ねようとしたのだが、やっぱり会話をするのが面倒くさいので、とりあえず、今読んでいるところを朗読してみることにする。違うなら違うと、三宅さんが言ってくれるだろう。
三宅さんは、ただ本の文章を声でなぞるだけの僕を見て、ふにゃりと笑った。三宅さんの笑い方は独特で、表情がとてもゆっくりと動くのだ。ゆっくりゆっくり口角が上がり、ゆっくりゆっくり目尻が下がる。
おもしろいのかな、と思う。三宅さんの学部は知らないけれど、なんとなく文系のような気がする。十七世紀にフェルマーが残した数学界最大の超難問がどのように解かれたか、などということに興味があるとは思えない。
ピュタゴラスに始まる数論から数学者ワイルズが完全証明するまでの、三世紀に亘る数学の歴史を結構な量読まされたところで、
「荘ちゃん、ありがとう」
三宅さんが言った。僕は朗読をやめて、本を閉じる。小腹が空いたので、ファストフード店にでも行こうと立ち上がって、三宅さんを振り返る。そして、ふと思った。僕が店で夕飯を取ると、三宅さんは僕が食べているところを見られないんだな。だって、部屋から出られないんだもの。
僕がスニーカーを履いているところを、三宅さんはじっと見ている。
ファストフード店で、僕はハンバーガーとポテトを持ち帰りで注文した。部屋に戻ってドアを開けると、三宅さんが僕が出かけた時のままの状態で立っていた。僕が持っている紙袋を見て、三宅さんはふにゃりと笑った。つられて、僕も笑ってしまう。三宅さんが驚いたように、僕を見た。そして、
「それ、初めて見た。もっかいやってみて」
と言う。どれ? と思ったが、よくわからないのでスルーすることにした。
テーブルに紙袋を置き、中身を取り出す。ハンバーガーを三宅さんのほうに差し出す。三宅さんは、ぱくりと食べるふりをする。ポテトでも同じことをする。
僕は、三宅さんの「食べるふり」を見るのが結構好きなのだ。とポテトを食べながら気が付いた。
三宅さんの唇が動くのを、飽きもせず、じっくりと見つめていると、三宅さんが、ふいに僕の顔に自分の顔を近付けてきた。三宅さんの唇から少しだけ覗いた舌が、僕の唇にふれそうになる。しかし、なんの感触もなく、三宅さんの舌は僕の唇をすり抜けた。自分で唇にさわってみると、ソースが付いている。それを舌で舐め取って、僕は前半分が僕に重なってしまっている三宅さんからじりじりと離れてみた。三宅さんは、目を伏せて、「ごめん」と言った。
床に置かれた三宅さんの手に、自分の手を重ねてみる。すり抜けた僕の手は、そのまま床に落ちた。
三宅さんの手と僕の手は、同じ場所で重なったまま、しかし、なんの感触もないものだから、なんだかほんのりと寂しい気がした。
5.もういない人
僕が自慰をしているところを、三宅さんはじっと見ている。こんなことに慣れてしまっているというのは、おかしいのかもしれない。だけど、一年間ずっと見られてきたのだから、今更隠れてするというのもなんだか変な気もするのだ。
握り込むようにしている両手に、三宅さんの両手が重なった。ぎょっとした。こんなことをされたのは初めてだ。もちろん感触はない。それなのに、僕はそのまま達してしまう。
「声、出さないの?」
三宅さんが言った。僕はゆるゆると首を横に振る。
「荘ちゃんの声、好きなんだ。初めて聞いた時から、ずっと」
三宅さんは言って、僕の顔に、自分の顔を近付けた。感触が全くないものだから、近付けただけだと思った。でも、もしかしたらキスだったのかもしれない。ハンバーガーの時の、あれも。感触がないだけで、そうだったのかもしれない。
三宅さんの肩にさわろうと、手を伸ばす。やっぱり空振った僕の手は、そのまま自分の膝に落ちた。
三宅さんは硬度をなくした僕の股間を、じっと見ている。それに気付いた途端、そこがむくりと頭をもたげた。カッと顔が熱くなる。
「三宅さん」
僕は初めて、三宅さんを呼んだ。
「見ないでください。恥ずかしい」
泣きそうになりながらそう言った僕に、
「ごめん。見たいんだ。全部」
三宅さんは言った。抱きしめられたような気がしたのだけど、三宅さんの身体が、僕の身体に重なっただけで、やっぱりなにも感じない。
「荘ちゃん、覚えてたんだね。一回話しただけの俺のこと。名前も、ちゃんと」
三宅さんは僕から離れて、ふにゃりと笑った。
「ずっと忘れてると思ってた。荘ちゃん、なにも言わないし。だから、恐竜のクッキーを買ってきてくれた時はびっくりした。うれしかった。ありがとう」
僕はパンツを穿いて、キッチンで手を洗う。三宅さんのほうを見られない。シンクに、ぽとんと水滴が落ちた。蛇口をぎゅうぎゅうと締める。しかし水滴は、次から次へ、ぽとんぽとんと落ちてくる。
ああ、これ、涙だ。僕の。手の甲でごしごしと拭う。
三宅さんは、もう死んでいる。もういないのだ。もういないひとを、好きになっても仕方がないじゃないか。気まぐれなんて起こすんじゃなかった。ずっと、スルーしていれば良かった。もういないくせに、突然現れて、ずっといるなんて、ひどい。あんだけずっといられたら、情が移ってしまうに決まってる。僕が、三宅さんのことを好きになっても、三宅さんには責任が取れないじゃないか。僕にさわれもしないくせに。ずるい。ひどい。
「三宅さんのばか」
呟いて、僕はトイレに閉じこもる。ドアをすり抜けて来られたら意味がないのだけど、三宅さんはトイレまではついて来ない。
僕は、声を押し殺して、しばらく泣いた。わかっていたのに関わった、自分がいちばん馬鹿だった。
6.最低で最悪のごめんね
朝、目が覚めると、三宅さんが僕の胸の上に乗っかっていた。身体を動かそうとしたのだけど、動かない。金縛りだ。三宅さんは、僕をじっと見ている。
「ごめんね」
三宅さんは言った。
「どっかから、引っ張られてるみたいな感じがする。きっと、もう時間がないんだ」
三宅さんは僕の顔に自分の顔を近付けて、感触のないキスをした。そして言った。
「荘ちゃんの中に、入ろうと思う」
わけがわからない上に、身体も動かないので、僕は三宅さんをただ見上げることしかできない。
「ごめんね」
三宅さんは、もう一度言って、僕の身体に自分の身体をぴったりと重ねた。
その途端、身体が動いた。しかし、それは僕の意思によってではなかった。視覚や聴覚はそのままで、身体だけが勝手に動く。
三宅さんの姿がどこにも見えない。
「三宅さん」
呼んでみたけれど、声は出なかった。
「ここにいるよ」
そう言ったのは、僕だった。僕の中に入るというのは、こういうことらしい。今、僕の身体を操縦しているのは三宅さんなのだ。
「ごめんね。これしか思いつかない」
三宅さんは言って、なにを思ったのか、いきなりパンツを下げてゆっくりと自慰を始めた。驚いた僕は、勝手に動く自分の手を止めようとした。だけど、身体は完全に三宅さんの支配下にあるようで、僕の意思では全く動いてくれない。泣きたくなる。
「やめて、三宅さん」
僕は三宅さんに訴える。
「三宅さん、三宅さん、三宅さん!」
「そのまま、もっと呼んでて」
三宅さんは言う。
「三宅さんのばか!」
僕がそう叫んだところで、僕の身体は解放されたようだった。手が、出したもので汚れている。
「三宅さんのばか」
もう一度言う。三宅さんは、どこにもいなかった。僕の中にも、もういなかった。
僕はパンツを上げて、キッチンで手を洗う。蛇口を締めて、思った。もしかしたら、さっきのあれはセックスだったのかもしれない。三宅さんが考えた、最低で最悪の。
あんなことしか思いつかないなんて。
「三宅さんのばか」
更にもう一度言って、僕は子どもみたいに声を上げて泣いた。
それから、一週間が経った。
三宅さんがいなくなっても、いつもと同じように時間は流れるし、地球は回っている。だけど、僕のお腹だけはなかなか減らない。それでも、なにか食べないといけない。僕は生きているのだから。
夜、レトルトカレーのパウチを鍋で温めていると、ドアチャイムが鳴った。スコープを覗くと、そこにいたのが三宅さんだったものだから、驚いた。
「みっ」
思わず声を上げて、急いでドアを開ける。僕の顔を見た三宅さんは、照れたようにふにゃりと笑った。
「なんかねー、俺、生きてたみたい」
なにがなんだかわからず、とりあえず僕は三宅さんを部屋に上げる。三宅さんの手にふれてみた。ぬくい。ちょっと湿っている。ちゃんとさわれる。
三宅さんが、僕を強く抱きしめた。
「一年間、意識不明だったみたいだよ」
僕の耳元で、まるで他人事みたいに三宅さんは言った。息がかかる。くすぐったい。
僕は三宅さんの背中に腕を回して、ぐっと力を入れる。ちゃんと身体がある。すり抜けない。
「あれから、すぐに目が覚めたんだけど、検査とかリハビリとかで、今日やっと退院した」
言いたいことがいっぱいあった気がしたのに、言葉がなにひとつ出てこない。なので、三宅さんのやわらかそうな髪の毛にさわってみる。想像していたとおりにやわらかくて、うれしくなった。ついでに、キスもしてみた。少しかさついた感触が、すぐに湿ったものに変わった。ちゃんとさわれる。
三宅さん、生きてた。生きてた。生きてた。生きてた。
視界がにじむ。
「三宅さんのばか」
僕は言う。キッチンの鍋が噴きこぼれた。僕は慌てて、コンロの火を止め、パウチを取り出す。温めた白飯にパウチのカレーをかけ、テーブルに移動する。三宅さんは、僕の向かいに胡坐をかいて座っていた。
僕は、スプーンで掬ったカレーを、三宅さんのほうへ差し出す。三宅さんは口を開けて、ぱくりと食べた。
それを見て笑った僕に、三宅さんが言う。
「それ、かわいい。もっかいやってみて」
了
ありがとうございました。