曼荼羅(まんだら)
高校、大学とも私立で両親には負担を掛けた俺だが、なんとか正社員採用を勝ち取りその時の両親が喜ぶ姿は今でも目に焼き付いている。
だが、現実はそう甘くはない。
週に3日の夜勤があり、30を超えたばかりなのに疲れが半端ない。
特に人間関係がある訳でもなく、ただひたすら流れてくる商品の点検や発注ミスなどの確認。
ライン仕事やはり人間関係が無くって楽勝。
だが、真夜中一人での時もあり、俺らしくもなく、人恋しくなってもくるから、人間って勝手だな。
つくづく考える。
幼いころからお世辞にもクラスの人気者だったなんて言えない。
友達も幾人かはいたが、はたして本当の自分自身が出せていただろうか?
甚だ疑問だ。
恋人と呼べる人もいたが、何故か、半年もすると自然消滅してしまう。
どちらかから別れを切り出したかなんて記憶もない。
おそらくこんな感じで一生独身を通すんだろうな。
結婚して子供までもうけるなんて今の俺にとっては夢のようなお話。
正社員採用と行っても地方の中小企業。
とてもじゃないが、家族を養える給料なんてもらってない。
両親は「共働きで良いじゃないか?」なんていい加減な事行ってるが、実際結婚するとなると女は皆、家庭に入りたがる。
前の彼女との別れの原因もそれだったし。
男女平等とか言われているが、そんなもの誰も望んじゃいない。
出来れば、家庭に入り家事子育てに専念したいのが女たちの本音だ。
ようは、高給取りと一緒になり、楽したいのだ。
誰も自分から望んで苦労なんてしたくはない。
なんとなく、同じ毎日を過ごしていると生きている感がなくなってくる。
それに、なんといっても近頃、俺を悩ませているのは隣りの部屋の住人の存在。
なぞが多すぎる。
やたら人の出入りがあるのに生活音が一切しない。
よく世間では騒音問題で殺人事件にまで発展するが、それとは反対で静かすぎるのも気持ち悪い。
無人らしき部屋の玄関まで続く足音は聞こえる。
住人の姿も見たことはあるが、見かける度に違う人物に思える。
ある時は男だったり、女だった、白髪まじりだったり、キレイな黒髪だったり、さっぱり訳が分からない。
視力はよくは無いが、男女の違いくらいは見間違えない。
驚くのはそれだけじゃない。
ある夜、夜勤明け近くのコンビニから帰ってくると、いつもついている薄明りの部屋から5、6人の男女が出てきた。
あんな暗がりの部屋でいったい何していたんだ。
その人物達はよく見たら同じブローチを胸に着けて、急いで俺の脇を通って行った。
恐ろしほどの速さで。
俺の中に核心的な何かを感じその場から急いで部屋に戻り、鍵穴から外をのぞくと、彼らは怪しそうな動きを見せている。
全員で天を見上げ何か叫んでいるようにも見える。
言葉にならない恐怖が襲ってくる。
やがて、空が開けてきて。
いつもの風景に戻った様に感じる。
いつの間にか俺はその場で倒れこむように眠っていたようだ。
シャワーを浴び、一息つくと昨日のことが嘘のように思え腹が減って、コンビニで買った弁当をペットボトルのお茶で流し込む。
「いったいあれは何の為の集団か?」
独り言をつぶやく。
今日は夜勤明けで休みだ。
たっぷりと寝て十分に休息を取り、気が付くと夕方。
また、腹が減って来ている。
コンビニでも行くか。
ドアを開け外に出ようとすると、珍しく隣りの壁から何やら話し声がする。
「みだぶつにょらいこんごうなんちゃら?」
お題目…。
そんな言葉が頭を掠める。
途端、隣りからの声が消えた。
また、いつもの静けさが戻る。
吐き気がしてきた。
こんな薄気味悪いアパート引っ越すしかない。
不動産屋に電話しよう。
早急に…。
そんな思いに駆られながら、コンビニへ行こうとして、思い切ってドアを開けると同時に隣りから昨夜と同じメンバーらしい男女が出てきた。
「こんばんわ、キレイなお月様ですね。」
若いキレイな女性が声を掛けてきた。
俺は踵を返し急いで走ってその場から逃げた。
「はあ、はあ、」息切れが激しい。
なんとか落ち着き、買い物を済ませたついでに不動産屋に寄って、世間話を装って店主と話す。
「お隣の方ですが、何人お住まいなのでしょうか?この前5人くらいの方々が出てきたんですが、いえ、問題がある訳ではないのです。ただ、ちょっと気になったもんで。」
「そのような個人情報に関するお話は当方としてはできません。」
想像した通りの回答が帰ってくる。
後ろ髪を引かれる思いとはまさにこういう事か。
妙に納得している自分に気が付く。
帰り道で缶ビールを自販機で買い、アパート近くの公園で一杯ひっかけて度胸をつけなくては、家に戻れない。
公園のベンチに腰かけて「ぐびぐび」っとやっていると、自然と勇気が湧いてくるから不思議だな人間って。
その時ふっと後ろを振り返るとなんと彼女(さっき俺に挨拶した女性)がいた。
思わず悲鳴を上げそうになったが、なんとかこらえる。
「今晩は、先ほどは失礼しました。挨拶されるなんてこれまでに無かったもんで。」
俺は驚くほど素直に彼女に話しかけた。
「いえ、私こそすいません。突然お声がけしてしまって。」
キレイな女性だな。
あらためて思った。
「じゃ、また。」
彼女は去って行った。
あまりのそっけない態度に俺は少し腹がたった。
見上げると月がキレイで自然と彼女の瞳とだぶる。
もしかして、これは?
翌朝は身体も軽く朝食のパンを食べて久しぶりで散歩に出てみると、明らかにいつもと様子が違う。
外では大勢の近所の住人らしき人々が集まって来て何やら騒々しい。
「なにかあったんですか?」
俺は、70代くらいのおばあちゃんに思い切って声を掛けると「知らなかったの、
昨日と言っても今日になるかな、2時過ぎ頃この通りにある佐藤さん家から出火して一軒まるまる燃えたのよ。幸い隣りまで火は燃え移らなかったけど。消防車とか救急車がきてサイレンうるさかったのに気が付かなかったんですね?」不思議そうに俺を眺めている。
「すんません。夜勤明けで飲んでしまって熟睡していたようです。」
「そう、貴方も大変ね。お仕事頑張ってね。」
越してきてから、初めて(正確には彼女以外と)ご近所さんと話した。
そういえば、彼女と出会ってきてから俺の様子に少し変化が出てきたような?
明るくなったような気がする。
言葉ではうまく言えないが張り合いのようなものを感じる。
きっと慣れたんだな。
このアパートで一人暮らしをしてからまる5年正直慣れるには時間がかかりすぎてるような。
まだ、ここまで煙と焦げ臭い匂いがしているが、いつものコンビニに行き、弁当やお気に入りのビールや日用品やら買い物を済ませ帰宅すると…。
またまた、隣りの壁越しに何やら人の声らしきものが聞こえてくる。
「あみだぶつにょらいこんごうまんだらさまあああ」
明らかに、お題目らしき言葉を述べている。
それも大勢で、まるで隣りに住んでいる俺に聞かれても良いようにさえ感じる。
前回聞いた時よりも大きな声でヒートアップしているように、まるで俺に聞かせるように、その声はやがて地響きの様に部屋全体を揺らす。
身体全体に沁みる。
自然と頬に涙が伝わる。
と同時にまた、突然声が消え無音になる。
まるで俺が聞き入っていたのを知っているように。
その静けさの中で俺はしゃくり上げて泣いていた。
周りの様相が一変した。
と、「ピンポーン!」
チャイムがなった。
流れる涙を隠すようにドアを開けたら、案の定彼女の姿がそこにあり「ごめんなさい。うるさかったかしら。実は私こういうもので、人々に安らぎを与える事に使命を持ち、優秀な方をリクルートしています。正直言って貴方は私達曼荼羅教の信者にとって特別な方に思えたもので、貴方様の純粋なお気持ち、一度お顔を拝顔したおり、ひしひしと感じました。貴方はこの曼荼羅教の信者になる資格を持って生まれて来たのです。どうぞ、私達とご一緒に曼荼羅教の普及に御尽力お願いいたします。」っと名刺を差し出す。
そこには「曼荼羅教代表湯元あゆみ」と書いてあった。
自然と、あまりに自然に俺は彼女が差し出した名刺を受け取っていた。
思い返すと、俺の31年間ってなんだったんだろう。
可もなく不可もなく、成績もいつも中間くらいで出来が良くもなく悪くもなく。
学生時代から今の仕事を通して一度も本気だした記憶さえない。
あまりになんとなく過ごしていたようで。
なにか、人の役に立った事もない。
しかし、彼女の言葉に嘘がある様に思えない。
「一度私共の所に来ませんか?幸い隣りですし。」
断る理由がなかった。
あの日の空の色は今だに忘れない。
最初に声を掛けて来たのはまたも彼女の方からだった。
「こんにちは、とっても良いお天気ですね。先日私共の代表に貴方様のことをお話させて頂いたら、大変興味を持たれたようで…。是非とも会いたいとおっしぃました。今日これから私とご一緒しませんか?」
驚いた、てっきり前回に渡された名刺で彼女が代表だと思っていたのに…。
その上に人がいたなんて、何か嫌な予感がする。
そんな思いに駆られていると、察したように彼女は「大丈夫です。貴方様の純粋なお気持ちは一目見ればわかること。代表はかなり貴方様に感心がお有りなようで。いっぺん会っていただけませんか?」
キレイな瞳にまっすぐに見つめられて俺の気持ちはあっさりと決まった。
「お会いしてみます。よろしくお願いします。」
彼女の頬に一筋の涙が光っている。
人生には自分の力では抗えない出来ごとがある。
まるで、パズルのパーツの一つになった様に運命は狂い始める。
その時が今なのか、後々思い知らせれるとは。
彼女の後をついていくと、やはり俺の住んでいるアパートの部屋、隣室に入って行った。
中には、驚くほど大きな掛け軸がかかっていて、複雑な模様が書いてあり、彼女はそれに向かって叫んでいる。
「曼荼羅様、ようやく、お連れできました。小武海忠司様です。新しい家族が出来ました。」
「か、家族ってなに?なんで俺の名前知っているの?それに代表ってこの掛け軸か?」
俺は案外と用心深く、ドアに表札は掛けていないのに。
「私共曼荼羅教同士はかねてから貴方様を信じておりました。貴方様は家族になる為に生まれてきたです。さあ、この曼荼羅様にお題目をお挙げくださいませ!ああ、ようやくこの時がやってまいりました。どれほど貴方様をお待ち申し上げていたか。さあ、さあ、遠慮なく。両手を合わせて曼荼羅様にお題目を。」
無理やり、両手を合わせられ、一緒にお題目を唱える。
「なみだぶつにょらいこんごうまんだーらーさーま、まんだーらーさーま、まんだーらーさーまー」
そうお題目らしき言葉を発していると白髪の女性や体格の良い中年の男性、30代だいたい俺くらいの年齢の男性、腰の曲がった老婆が学生服を着た女の子と一緒に入って来て俺の周りに集まる。
恐怖以外の何ものでもない。
「さあ、家族と一緒に曼荼羅様にお題目を。この方は佐藤様とは違います。必ずや家族になってくれるはず。佐藤様は私共の家族にならなかった。拒否さえしなければあんなことしなかったのに。」
佐藤さんとは先日大火で亡くなった近くの住民に違いない。
「もし、貴方様が家族になって頂けないなら、偽のご家族様もいらっしゃいますよね。」
完全な脅しだ。
「本当の家族とは私ども曼荼羅教が家族なのです。偽家族に悲劇が起こりますよ。残念ながらそれは避けて通れません。または、佐藤様のように、ご自身に不幸が降りかかる場合もあります。さあ、仲間の証にこれを受け取って。」
俺以外の6人全員が彼女が持ってきたナイフで親指を切りその血を金色の小さなカップに入れて無理やり俺の口に流し込む。
口の端から血が流れ落ちた。
「これで家族です。抗わないでください。これが貴方様の運命です。」
気が付くと、部屋にいた。
どうやら夢を見ていたようだ。
恐ろしい夢だったが、疲れ切っていたようで俺はやっと立ち上がり、顔を洗う為鏡に映った姿を見て…。
口の周辺が真っ赤になっていた。
後ろから声がする。
「に・が・さ・な・い!」
彼女の姿が俺と重なっている。
どうやら逃げられないようだ。
人生は自分の力では抗えない出来事がある。
もう、おしまいだ。
「まんだーらーさーま、まんだーらーさーま、まんだーらーさーま。」
「それでいいのです。曼荼羅様は家族ですからね!」
微笑む彼女の目が光った。
ナイフのように光った目が。
おわり。