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漆黒は夜に紛れて

作者: 須谷

「やっと着いたー!」

 私は長旅の疲れから思わず母国語で大声を出してしまった。周りにいた人達から怪訝そうな視線が飛んでくる。

 ここは日本ではない。ヨーロッパの地、ドイツ。長年その地に立つことを夢見てきた土地だ。小さいころにテレビ番組でその風景を見た時からドイツという国に恋をして、英語よりも早くドイツ語を覚えた。おかげで英語の発音が余計に馴染みにくくなってしまったのだが。

 中学生のときからずっと留学がしたいと言い続けたものの、親は大反対。旅行だけでもと頼んでも、お金がかかるからと断固拒否されてしまった。

毎日のようにうるさい説得をした成果なのか、大学2年生になり、やっと一年間の留学を認めてもらった。

 募った想いのせいで気持ちがはやりつつも、まずはホームステイ先のホストマザーを探して合流することが先だ。

 目は冷静に目的の人物を探していた。

 

 ホストマザーと無事合流し、ホームステイをさせてもらうことになる家に向かう。

 車に乗せてもらい、異国の道を走る。

 私が想いを馳せ続けていた街並みが私の目の前を通り過ぎていく。妙に感動してしまって、子供のように窓に引っ付いて外の景色を眺めていた。

「こっちの町並みは珍しい?」

 私の行動が気になったのか、ホストマザーが私に聞いてきた。

「珍しいというか、写真でしか見たことがなかったので、本当に存在しているんだと感動してしまって。」

 車を運転していた彼女の笑顔がバックミラー越しに見えた。

「ドイツが好きなのね。住んでいるとありがたみを感じないものだけど、有紗にとっては輝いて見えているのかしら。」

「そうですね、とてもきれいに見えます。」

 自分の目で見られることが嬉しくてたまらなかった。目的地であるホームステイをさせてもらう家に着くまで、私はずっと窓の外を見つめていた。


 家に着き、荷物を部屋に置いてひと段落するとこちらの地の母が私のもとにやってきた。 

「そうそう有紗。少し言っておきたいことがあるのよ。」

「なんですか?」

「私の家の近くね、夜になると近所で見ない顔の男の人がうろうろしているらしいのよ。遅い時間だから私は見たことないんだけど、夜には気を付けてね。そもそも、日本に比べたらこの辺は治安も悪いだろうから外には出ない方がいいわ。」

「ありがとうございます。分かりました。」

 夜中に徘徊か。少し怖いけど、深夜の話なら私にはほとんど関係ないことだろう。

深夜に外に出たりなんかするはずがない。留学する前から、なるべく日が落ちる前に家に戻れと言われているし。

 私が気にすることではなさそうだ。


 

 数日たてば身体はすぐに外国の土地にだって慣れてしまうらしい。

わたしは水にあたることもなく、すぐにドイツの空気に慣れることができた。外国の水が体に合わないことがあるという話は結構聞いていたから、警戒はしていたがそういうこともなくて安心した。

 強い身体に産んでくれた母親に感謝しなくてはならない。こういうところで日本の家族のことを思い出してしまうんだなと思う。

 やっぱりずっと一緒に生活していた家族と一年間も会えないのは少し寂しいものだ。いくら自分の好きな土地だからと言って、寂しさがないわけではない。不安はもちろんたくさんあるし、甘えたくもなってしまう。

 しかし、せっかく長い説得の上でこっちに来たのだから両親に甘えたくはない。

 自分の力で留学を終えないといけない。

 まず一番不安なのは学校のことだ。もうすぐ始まる新しい環境での学校生活のことを考えてみる。

 発音は大丈夫だと言われてきたが、やはり本場となると不安は募るばかりである。言葉もそうだが、授業についていけるかなとか友達出来るかなとか。

考え出すと不安しかなくなってしまいそうだ。

 たぶん、なるようになるだろう。

 大丈夫だと言い聞かせ、眠ってしまおうと目を瞑る。こういうときすぐに眠れてしまうのは便利だけど、可愛くないと思う。


 ぐっすりと眠っていたはずなのに、目が覚めた時外はまだ暗かった。

 眠りが浅かったのかと考えもしたが、目が覚めた理由を私はすぐに知ることができた。

 満月が、不気味なほど青白く光り輝いていたのである。

 気持ち悪いほど明るい月明かりが、丁度有紗の顔にかかっていた。

「寝るときはこんなに明るくなかったのに。」

 すっかり目が冴えてしまった。今からもう一度寝るには、もう少し時間がかかりそう。

 なんとなく、外に出てみたくなった。もっと近くで月を見てみたいと思った。

 何故そんなことを思ったのか自分でもわからない。

 ただ月明りが、自分が外に出てくることを誘っているように思えて仕方がなかったのである。

外に出たって月が近くならないのはわかっている。真夜中に女一人で外に出ることが危険だということもわかっている。

ホストマザーが言っていた、深夜に外を徘徊する男がいるという話がふと脳裏をよぎった。しかし、それもすぐ意識の外に出されてしまう。

理屈じゃ説明できない。ただ、外で空に浮かぶ満月が見たかった。もっと近くで、まん丸の月を見たかった。

 私は血の繋がらない家族たちを起こさないように、静かに外へ飛び出した。

 暗い道を、月明かりだけを頼りに進んでいく。何故か、街灯は全て明かりが消えていた。

 明らかに奇妙な状況が私の周りには広がっていた。

 開けた道に出た時、月の前には真っ黒のシルエット。

漆黒の衣をまとった、男性の姿。

私の存在に気付いたのか、男はゆっくりと振り返った。逆光だったが、その容姿がひどく美しいことはわかった。

この世にこんなにもきれいな人間がいるのかとさえ思ってしまうような、整った輪郭。

突然月明かりが消えた。先ほどまでは雲なんてなかったはずなのに、月はすっぽりと分厚い雲に覆われている。

男性の姿は闇に紛れる。

直後、街灯が道を照らし始めた。男性の姿はすっかり消え去っている。

まるで、彼が仕組まれたように闇に隠されたようだ。

周辺を探してみても、彼の姿は全く見当たらない。

再び姿を現した月は淡く光っていた。



私の真新しい学校生活が始まった。

不安なんてものは初日ですぐに吹き飛んでしまった。ホストファミリー含め、周りの人たちはフレンドリーな人が多かったからである。

もちろん、どこの国でも偏見というものはあるし、有紗をそういう目で見る人も少なからずはいる。しかしそれ以上に温かい人が多かった。

 友人もたくさんとは言えなくともすぐにできて、授業も一番仲良くなった友人のソフィがサポートしてくれたおかげで円滑に進めることができている。

 しかし、そういった生活をしている中でも心の端には、あの満月の夜の光景が常々浮かんでいた。

「有紗って時々すごい考え込んだような顔しているよね。」

 もはや親友と呼べるほど仲良くなった、ソフィが言った。

「そうかな?」

「そうだよ。周りなんか全然見えてないみたいに、真剣な顔をしてる。何か気がかりなことでもあるの?」

 あの夜のことを考えているときのことを言っているということはわかったが、変に彼女に心配を掛けたくなかった。

 あの時の奇妙な光景の話をほかの人が信じてくれるとは思わない。自分の中でとどめておけばいいと思っている。

「まだこっちに慣れないから、少し考え込んじゃうことがあるみたい。それでぼーっとしちゃって。」

「そう?それならいいんだけど。何かあったら相談してね。」

「ありがとうソフィ。何かあったら、頼らせてもらうね。」



 何気なく日常を過ごしていると、ドイツでの二回目の満月の日はすぐにやってきた。

 やっぱりずっと頭から離れなかったあの日の彼の姿。

 綺麗なのに真っ黒で、不思議な姿だった。

 私の身を心配して夜には外に出るなと言ってくれた人々に心の中で懺悔しながら、日付の変わるころこっそりと夜の街に飛び出した。

 月はあの日のように青白くは輝いておらず、極々普通にふんわりと輝いている。

 あの人は違って普通の夜だ。あの人が出てくるような状況ではない。でも、どうしてもあの人が気になる。あともう一度だけでも、一目だけでも彼のことを見てみたい。

 彼に関しては好奇心が妙に働いてしまう。

 街頭と月や星の明かりでぼんやりと照らされた街で、漆黒の姿を探し回る。しかし、彼の姿は見当たらない。それどころか人の姿さえも見えない。

 真っ黒な街が私を囲んでいる。

 今日は諦めてもう帰ろうかと思ったその時、服の襟を後ろからつかまれた。そのまま引っ張られ首が閉まる。私は細い路地に連れ込まれてしまった。

 警戒しつつも振り返ると、顔に刺青が入ったようなガラの悪そうな人たちがこちらをみてにやにやと笑っていた。

 一人だと思っていたが、一人じゃない。結構な大人数が私のことを見ている。

「アジア系の女の子がこんな時間にこんなところをうろうろしてていいのかぁ?」

 逃げるには相手が多すぎるし、場所も狭い。体格のいい外国の男とアジアの女子大学生の力差は目に見えている。逃げられない。

「可愛いお嬢ちゃんだし、殴るには可哀想だ。もっとイイことをしようぜ。な?」

 気持ちが悪い。あからさまに嫌悪の感情が見える表情を向けると、一気に相手の機嫌が悪くなった。

「なんだ?痛い方がお好みか、可愛い顔して。それなら望み通りそうしてやるよ。」

 大きな手が私の服の方に伸びてくる、やめてと叫ぼうとしたその時、目の前の男が視界から消えた。

「え…何が…?」

「少し、目を瞑っていろ。十数えたら、目を開けるんだ。」

 耳元でささやかれた言葉、とっさに目を瞑って自分の国の言葉で数字を数え始める。慌てた時には、慣れ親しんだ言葉が出てしまう。

「いち、に、さん…」

 周りから物騒な音が聞こえてくる。人を殴るような音や、男のうめき声。

 目を開けるのは怖い。ぎゅっと目を瞑る。

「…はち、きゅう、じゅう。」

 十数え終わると同時に音がぴたりとやんだ。ゆっくり目を開けると、野蛮な男たちは皆地面に横たわり、その真ん中に、漆黒の男が。

 あの日の、満月の日の、男が立っている。

 その顔がゆっくりとこっちを向いた。薄暗い路地裏なのに、真っ黒な彼は他より少し明るく見える気がした。

 澄んだ青い目と、目が合う。吸い込まれそうになる。

「あの、助けてもらってありがとうございます。」

「…俺に関わらない方がいい。」

 彼は私の言葉には返答せず、関わるなと、警告の言葉だけを私に向けた。

 そして、突然に闇の中に消えてしまったのである。

「関わるな、か。」

 彼の姿をあと一目見れば満足するだろうと思っていたけど、私の中には更なる好奇心が芽生えていた。

 もっとあの人に関わりたい。もっとあの人のことを知りたい。

 自分が危険な目に遭いそうになったにも関わらず、意識は闇に好かれた男の方に向いている。

 関わるなと言われたら、関わりたくなってしまうのが人間というものだ。

 私は細い路地を埋める男たちを避けながら、広い道に出た。男を跨ぐときに呻き声がしたが、起きてはいなかったようで再び絡まれることはなかった。

空には満月が浮かんでいる。

闇は私の味方はしてくれないのだろうか。私をあの人のいるところに、連れて行ってはくれないだろうか。


 

 次の日から、彼のことを知るために情報収集を始めた。

 といっても本当に適当。勘頼りである。

 彼の情報なんてほとんど持っていないから、

 なんとなく、彼は普通の人間じゃないような気がしてならなかったから、今いる土地に伝わる昔話なんかを調べてみることにした。

 まずはドイツの地での家族たちに。

「お母さん、この辺の昔話とかってあるんですか?」

「昔話?童話とかかしら。そうね…この辺はグリム童話がなじみ深いけど。日本でも読めるでしょう?」

 グリム童話は昔夢中になって読んだけれど、彼に当てはまるような話を読んだ覚えはない。

「昔日本語翻訳で読みました。教えてくれてありがとう。」

「いいのよ。何かあったら聞いてね。」

 もっと土地に根付いたような話があったらと思ったのだけど、彼女の口ぶりからするとあまりなさそうだ。

 次がお父さん。

「お父さん、この辺に伝わるお話とかってありますか?」

「そうだな…オオカミの話は昔に聞いたことがあるよ。」

 私が首を傾げると、お父さんは続きを話してくれた。

「オオカミが女の子を食べちゃう話だったと思うよ。」

 私が求めているものとは違うみたいだ。もしかしてお父さんが言っているのは赤ずきんのことではなかろうか。

「それっておばあちゃんにオオカミが入れ替わる話?」

「そう!それだ!昔親から聞いたよ。」

「それ赤ずきんだよ。有名な話。」

 お父さんは結構抜けているところがある気がする。

 赤ずきんはドイツの話ではなかったはずだ。

 次は友人のソフィに聞いてみることにした。

 学校で朝のホームルームが始まる前に、本を読んでいたソフィのもとへ。

「ねぇソフィ。この辺の昔話とか伝説みたいなのとか教えてほしいんだけど何か知ってる?」

「そうね…私はグリム童話しか知らないな。それぐらいなら有紗も知ってるよね?役に立てなくてごめんね…。」

 ソフィは申し訳なさそうな顔をした。気に負わせてしまったようだ。こちらも申し訳ない気持ちになる。

「いいのいいの。ありがとう。」

「ごめんね。役に立つかわからないけど、古書がたくさんある図書館なら知ってるよ。」

 図書館はあとで行こうかと思っていたけれど、古書がたくさんあるというのはとても魅力的だ。何か有力な情報が得られるかもしれない。

「どこ!教えて!」

「どうしたの有紗。突然積極的になっちゃって。ホームルームの間に場所書いておくから。」

「ありがとう、ソフィ。」

 ソフィは頼れる女性である。


 放課後、ソフィが教えてくれた図書館に、インターネットで調べた地図を頼りに向かうことにした。

 電車を乗り継がなくてはならず、初めて行くところだったので緊張したけれど迷うこともなく無事たどり着くことができた。

 その図書館は建物自体が歴史を持つようなところで、中にあるたくさんの古い書物にも期待が高まった。

 中に入ると綺麗に整頓された洋書が私を出迎えてくれた。

 図書館だから本が並んでいるのは当たり前なのだけど、外国の昔の本というのはおしゃれな外観からして雰囲気が違う。

 深みのある背表紙が並んでいる光景は圧巻である。 

 思わずすごいとつぶやいてしまったが、周囲に人がいなかったのでつぶやきは空間に消えていった。

 司書らしき人が私の方を見て手招きをした。

「ここに来るのは初めてですか?」

 私は縦にうなずく。よく見ると彼女は司書と書かれた名札をしていた。

「アジア圏の方でしょう。ここは現地人でも目的の本を探すのが難しいんですよ。背表紙の字がつぶれていることも多くてね。場所の説明を致します。」

 アジア人である私のことを気遣ってくれたようだ。その心遣いがとてもありがたい。こっちで図書館に来るのは初めてだったから勝手もわからなかったし。

 ありがたく説明を聞かせてもらうことにしよう。


 司書は手短にわかりやすく説明を済ませてくれた。いくらドイツが好きだからとはいえ現地人独特の言い回しはあまり詳しくわからない。

 しかし彼女はそういう言葉を避けて、比較的簡単な文章で説明をしてくれた。

「ありがとうございます。これで目的の本がすぐに見つけられそうです。」

「良かったです。借りたいときは声をかけてくださいね。」

 私は自分が滞在している地域の昔の情報がつづられている本を探すべく、大きな本棚に向かった。

 しらみつぶしに気になる本をぱらぱらと捲っていくが、それらしい本は見つからない。

 捲っても捲っても関係なさそうな言葉が広がるだけだ。

 あの日の彼に関わりそうな情報はそう簡単には出てきてくれないようだ。そもそも、そんな情報があるのかさえも知れないが。

 日が暮れるのが近い。

 日が落ちた後どれぐらい治安が悪くなるのかはこの前身に染みて知った。あと一冊ぐらい手に取ったら終わりにしよう。

 そう思って本棚から取り出した本は今までのものとは全くもって雰囲気の違う、分厚い本だった。

 タイトルは地下宮殿。

 重い表紙を捲ると、小さな挿絵があった。

 月の前に立つ、真っ黒な男。私にはそう見えた。

 それは私が初めて彼を見た時の光景にそっくりだったのである。

 これは私が求めていた本かもしれない。あの人のことを知ることができそうな本。この本だけ借りて帰ろう。

 私はまたあの心優しい司書と会話を交わすことになった。


 家の最寄り駅についたころには日は落ちかけていた。私は速足で家に向かう。

 すっかり夜が怖くなってしまった。それでも、あの人に対する好奇心よりは小さいのだけど。

 無事家に着き、食事をとってから私は持ち帰った重い本を開いた。

 挿絵だけを見て借りることを決めたので、中の内容は知らなかったがフィクションの物語のようだ。

 わからない単語を調べながらゆっくりと読み進めていく。

 主人公は地下宮殿を管理する男。彼は宮殿に隠された大量の財宝を守っていると、そういう話らしい。

 本の中の彼は、夜闇に隠されているみたいだった。そしてたびたび入る挿絵の彼の姿は、私が満月の日に見た彼と酷似していた。

 私は物語の光景を見てしまっているのだろうか。

 読めば読むほど、あの日の彼が本の中の男と同一人物に思えて仕方がなくなっていった。

 

 私はその本を何日かに分けて読み切った。そして読み終えると同時に、次の満月の日にも彼を探しに行こうと、そう決意した。

 

 本を返しに行ったその日、満月だと聞いていたので私は夜が深まるころ外に飛び出した。外には雨が降っていた。雨が降る街は、月明りなんてもちろんなくぽつぽつ光る街頭だけが頼りである。

 だから彼は来てくれないんじゃないかと思った。

 彼は光があるところからすっと闇の中に消えるような人だから。

 私は野蛮な男たちを避けるため広い道から彼を探し回ったが、その姿はどこにもなかった。家の周辺を歩き回ったが人の気配はない。

 私は諦めて帰宅することにした。もう彼には会えないのだろうか。あの小説の話をしたいのに。

 彼はもう私の前に姿を現してくれない?


 その後も満月と予報された日には必ず深夜に彼を探しに行った。危険を顧みず、月の前に立つ彼を探し続けた。

 それでも彼は一向に現れない。私がまた襲われそうになったら彼は来てくれるのではないか?そんなことも考えはしたが、もし来てくれなかったら私の命が危ない。そんな考えはすぐに頭から振り払った。

 

 前に会ってからもう数か月。月が丸い夜を何度も過ごした。

 それなのに彼の姿を見ることはできない。おかげでせっかくドイツに来て勉強できる環境にいるのに、学習に本腰が入らない。もちろん頑張っていないわけではないけれどふとした瞬間にあの男の姿が頭に浮かんでくるのだ。

 麻薬のように私の中に駆け巡る記憶。

 日がたっても鮮明に浮かびあがるあの日の光景。

 収拾がつかない気持ちを、私はどう対処したらいいのだろう。



 その日は満月だったが、夜が深まれば深まるほど雲行きが怪しくなり、いつも家を出る時間になるとぽつぽつと雨が降り始めていた。

 私は傘をさして、外にまた彼を探しに行く。長らく見ていない。来る兆しなんてないけど、やっぱり諦められなくて満月の日には必ず外に出てきてしまう。

 ウロウロと探し回っているとどんどん雨脚が強まっていく。

 彼は、私が帰ろうとした時に現れるのが好きなのだろうか。

 家の方向にくるりと足を動かしたとき、彼は私の前にいた。

 結構な雨にもかかわらず傘もささずに、漆黒の塊はまっすぐ立っていた。

「俺に関わるなと言わなかったか。」

 私の方をじっと見て、冷たい声を向けた。

 その声は私の心に突き刺さる。私はただ彼のことが知りたいだけなのだ。

「言いました、でもそんなことを言われたら気になってしまいますよ。」

「…馬鹿な女だ。」

 彼はため息をついたけど、私には彼が怒っているようには見えなかった。

 ずっと一人なんじゃないかと、思う。

 勝手に寂しいんじゃないかと思っている。

「あの、貴方は一体何者なんですか?」

「俺は普通の人間だ。それ以上それ以外の何者でもない。」

 普通の人間なら、こんな風に満月の日にだけ私の前に現れたりしないだろう。私には到底普通の人とは思えない。

「…地下宮殿の話を読みました。お話だって分かってるけど、貴方の特徴にとてもよく似ている気がして。」

 彼の表情が変わった。今まで無表情を崩さなかったのに。それは肯定を意味するのか。否か

「もう、関わるな。お前のためだ。」

 まばたきの間に彼は闇に消えてしまった。

 彼は本当に、お話の人だったりするのかもしれない。


 関わるなと言われれば言われるほど好奇心が沸いてしまうのは自分だけではないと信じたい。

 私は彼とあった後、前に地下宮殿の本を借りた図書館に行って関連書籍を探した。

 結局それはなかったんだけど。しかし、興味深い話は聞けた。

 私が借りたあの本が、図書館のリストに書いてなかったということだ。

 ただの見落としではないかと思ったが、それはないと司書は言う。あの図書館が歴史的な書物もあるらしく、何重にもわたってチェックが行われていようなのだ。

 だからリストから漏れるなんてことは考えられないと。

 外から持ち込まれたものだとしても、持ち込む理由が考えられないと。

 不思議なことだらけだ。あの人の周りを不思議が囲っているみたい。

 また次の満月の日に少しでも話ができればいいと思っていた。

 しかし、次に彼と会う機会は自分が思っているよりもだいぶん早く訪れた。

 

 三日月の日の夜中、家のそばで大きな物音が聞こえた。

 私はとっさに外に出た。

 そこには血だらけの男が家の壁にもたれていた。その男は、私が次に会う機会をじっと待っていた人だった。

「どうしたんですか!?」

「気にするな…夜が明けるまでにどこかに行くから。」

「ダメですよ。手当てしないと…。」

 彼を手当てしようと説得していると、家の中から家族みんなが出てきた。私が外に出たのに気付いて、こぞって出てきたようだ。

「あら!どうしたの、この人。すごいケガじゃない…。」

 母は、彼と深夜に徘徊している男の人をすぐに結び付けたようだ。はっとした顔になったが、すぐにいつも通りの顔に戻る。

「何か事情があるのよね。怪我人を放っておくような悪魔じゃないわ。家に上がりなさい。」

 堂々たる母の態度に彼は断ることは諦めたようだ。しかし、やはり見知らぬ人の家に上がることを渋っている。

「ホームステイが一人から二人に増えたってそんなに変わりはしないわ。はやく、血を止めるわよ。」

 父と母が彼を支えながら家に上げる。本当に優しい人だなと、改めて思う。


 彼の名はギードというらしい。

 彼を家に上げて傷口を確認すると、傷はさほど深いものではなかったようですぐに手当てが済んだ。

 母は彼に言いたくないことは言わなくていいといって質問したが、帰ってきたのは名前だけだったのである。

「有紗、部屋はないから彼と同じ部屋になるけどいいかしら…。お父さんのところにあげるのが一番いいのはわかっているんだけど何せ汚い部屋だから。」

「いいですよ。特に人が増えて困ることもないので。」

「ごめんね、有紗。」

 彼女は私が彼と面識があることを知らない。面識といっても数回会話した程度だけど、知っているのと知らないのじゃ対応が違ってくるだろう。

 むしろ彼に興味があるから大歓迎と言っても過言ではないぐらいだ。

 母が去って、私はギードと部屋に二人きりになった。

「ギードっていうんですね。」

「ああ。」

 もう夜中だ。怪我人を話し相手に突き合わせるのは申し訳ない。

「…寝ましょう。傷の回復には寝るのが一番です。」

 ギードが少し、笑った気がした。気がしただけかもしれない。返事はなかった。

「おやすみなさい。」

 自分に言うように囁くと、おやすみと小さな声が返ってきた。

 彼は悪い人ではない。前も私を助けてくれたし。

 人との付き合いに慣れていないんじゃないかと、思う。全部私の勝手な想像だけど。

 彼のことを考えていると先ほど突然妨げられた眠りが私を包み込んだ。

 

 怪我がある程度治るまではこの家にいなさいと母がギードにうるさく言ったので、彼はしばらく一緒の家で過ごすことになった。

 私が学校に行っている間、彼は家の手伝いを少しずつやってはいるは安静にさせられているようだ。

 初めは本当に必要最低限の会話しかしてくれないような雰囲気があったが、日がたつにつれて彼と私たちは打ち解けていった。

 子供に嫌いなものを慣らすように、少しずつ少しずつ、会話に慣れていったような気がする。

 彼は不愛想なわけではなく、人とのかかわり方があまりわからなかっただけのようだ。慣れるにつれ、笑顔を見せることも増えて口数も増えた。

 彼はどんな風に育ったんだろう。


「なあ、有紗。」

 珍しくギードから私に話しかけてきた。

 依然として彼が血だらけになっていた理由はわかっていないが、こんなことは初めてだ。

「なんでしょうか?」

「お前、前に地下宮殿の話を読んだといったな。」

「はい。まだあまりドイツ語に慣れているわけではないので、上手く読めなくて曖昧な部分もありますが。」

「そうか、アジア系の顔だが発音がきれいだからここに長くいるのかと思っていた。」

「いえ、語学留学なんですよ。一年間の。もうじき半年ぐらいになります。」

 ギードに自分のことを話すのは初めてかもしれない。私がギードに聞くばかりで、自分のことはあまり言っていなかったみたいだ。ギードからの答えはあまりなかったけれど。

「そうだったのか。…それで、お前が読んだ話がどんなものだったのか教えてくれるか。」

 私は読んだのは結構前になる本の内容に思考を巡らせる。ゆっくりと読んだ本の内容は結構覚えているもので、細部は微妙だったが大筋は頭に浮かんできた。

「地下宮殿の支配者が宮殿の入り口を隠して、悪党から逃げ惑う話です。最後は…何だったかな。愛する女性と地下宮殿に二人で入って、中から入り口を完全にふさいでしまう。そして食糧無く、二人より添って餓えて死んでしまう…。そんな話です。」

 私が大まかなあらすじを言うとギードは私の目をしっかりと見つめた。目が合う。

「その話は、俺の先祖が書いたものだ。少しフィクションも含むが、ほとんどが事実だ。なぜおまえがそれを手にできたのかはわからないが。」

 それじゃあ彼は…。

「俺は、今その地下宮殿を守っている。そしてその話と同じように、金を欲した奴らに追われている。…地下宮殿には大量の財宝が長い歴史とともに眠っているんだ。」

 じゃああの時の怪我は、歴史の深い財宝を手に入れたかった人たちにやられたということか。ひどい。拷問みたいに、けがを負わせて入り口を開けろって言われたのかな。

「あれは、絶対に守らなくてはいけない。そうやってずっと続いてきた。俺は、あれをあいつらに渡すわけにはいかない。今、あれを守れるのは俺しかいない。」

彼は自分に言い聞かせるように言った。ギードだって普通の家に生まれていればこんな使命を背負うことなんてなかったはずだ。

彼は苦しいのではないか。

私がずっと思っていたことは強ち間違っていなくて、彼はずっと一人で、不器用に生きてきたのではなかろうか。

「ギードは、たくさん背負ってきたんですね。」

「ああ。身寄りもないからな。俺が守らないと…。」

 彼は本当に一人。

 どんな方法でもいいから、彼の支えになりたいと思った。

 一人で全部こなさないといけないと思っている彼を、少しでも楽にしてあげたいなと思った。

 でもそれは、まだ社会にも出ていないひよっこの留学生ができることではないのかもしれない。

 それでも、帰るまでは彼のそばに。


 ギードの怪我は順調に回復し、傷跡が完全にふさがったのを確認した母はギードに帰ってよしの判決を下した。

 ギードが普段どんな暮らしをしているのか見当もつかないが、帰るところはちゃんとあるようで丁寧にお礼をした後、ギードのいる生活は終わりを迎えた。

 そして私がドイツに居ることができる期間も5か月になっていた。

 その間に、私にできることをしないといけない。


 ギードが家から去ったあとの初めの満月の夜、私は習慣のように外に出た。

 ギードは必ず来てくれる気がしたから、治安もほぼ警戒していない。

 こういうところ、ダメだと思うけど彼が助けてに来てくれるんじゃないかと思っている。

 家から少し歩いたところに彼はいた。

「やっぱり出てきたな。一度襲われたというのに、懲りないやつだ。」

「あの時ギードが助けてくれたから、いつでもそうなると思ってしまっているみたいです。」

「…馬鹿だな。」

 彼は優しく笑った。彼の表情はどんどん柔らかくなっている。


 私はギードに度々会いに行った。会うのは必ず満月の日の夜。

 その日がひどい天候じゃない限りは必ず行った。

 同じ家で過ごしてから、彼は家の近くまで私を迎えに来てくれるようになった。

 そして少し移動して座れるところに、というのがいつも通りになった。

 月に二回しか来ない満月の日。会った回数が増えるたび、私が日本に帰らなければいけない日が近づいているのはちゃんとわかっていた。

 でも、ギードに会っているときは何も考えられなくなった。

 頭の中がギードのことでいっぱいになる。

 私は初めから彼のことが気になって仕方がなかったが、近づいた今、もっと知りたいという欲求が私の中にはあった。

 彼のことをもっと知りたくて、彼を支えたくて。

 私は、ギードのことが好きなのだろう。


「ねぇ、ギード。一人は寂しくないですか。」

 彼に合えるのは今日を合わせてあと二回。

 帰国の日が近づいていた。

 私はこの半年ぐらいの間に、少しでもギードの役に立てただろうか。

「たまに、な。お前と会うようになってから、一人を痛感するよ。」

 初めに比べてだいぶん人間らしくなった彼が笑う。

 物語の中の人だと思ったこともあったが、彼はちゃんとここにいる。一人の人間である。

「私を閉じ込めてはくれませんか。」

 彼が寂しいのなら、お話と同じように私を地下宮殿に閉じこめて、そのまま死んでもいいと思う。

 それぐらい、もう、日本に帰りたくないと、このまま彼といたいと考えてしまっている自分がいる。

「駄目だ。」

 ギードはまっすぐ私の方を見ていった。迷いのない言葉。

「なぜ、ですか?」

「そんなことをしたら、俺は死ぬ間際まで後悔するだろうから。」

「好きじゃないからではないんですよね。」

 半ば祈りのように言った。彼に興味を持たれないのは少し寂しかったから。

「…誘導尋問みたいだな。」

「ごめんなさい、私はあなたのことが好きですから。」

 ギードも自分と同じ気持ちを持っていたらいいのになと、期待してしまっただけだ。それだけ。

「俺はお前に何も与えていない。お前が、俺に興味を持つ理由がわからない。」

「初めて見た時から目を奪われていたんですよ。少しずつお話しできるようになって、ギードが人と話すことが嫌いなわけではなく慣れて異なことに気付きました。あなたは人と話すときとっても優しい目をしますから。…好きにならない理由なんてないですよ。」

 そこまで言って、やってしまったと思った。

 母国語でならともかく、異国の言葉だとどうしても直接的な表現になってしまう。言い回しなんてできないから、気持ちそのままだ。

 恥ずかしいことをしてしまった。

 私はうつむいて、膝の上にのった、こぶしを握り締める手をじっと見つめた。

「俺はお前が好きだ。」

「え?」

 聞き間違いかと思ったけど、彼ははっきりとそう言った。私のことが好きだと。

「俺もお前と同じ、初めて見たときからだ。…だから絶対に巻き込みたくないと思った。危険な目には合わせたくないと思った。」

 それなのに私は何も知らずに近づいた。好奇心と興味で、彼に。

 かかわるなというギードの言葉を無視して。

「すみません、私…何も知らずに。」

「構わない。きっとこうしていた方が幸せだ。」


 帰国の日がすぐそこまで迫っていた。

 学校の人たちにはすでに別れを告げて、あとは数日、帰る時まで待つのみとなった。

 あと一日あると思っていた満月の日が、帰国の日だった。

 もうギードとは会えないかもしれない。

 私はギードがどこにいるのかを知らない。だから、別れも言えずにこの地を去ることになってしまう。

 帰らなければいけないことはわかっている。でも、帰りたくない。

 あの人のそばにいたい。

 ここまで関わってしまったのに、途中で投げ出すなんて嫌だ。

 私は、どうしたらいいのだろうか。

 もう一度、ここに。


「有紗、一年間ありがとね。子供がいないから、本当の娘みたいで本当に楽しかったわ。またこっちに来るときは連絡頂戴ね。」

「もちろんです。私こそ、本当にありがとうございました。すごくお世話になって、感謝の気持ちしかないです。」

 私が泣いてしまったから、異国の母も涙を流して見送ってくれた。

 私は日本に帰る。

 私は、今晩あの家の前に現れるだろうギードに申し訳ない気持ちになりながら、飛行機に乗り込んだ。

 しばらく涙が止まらなかった。

 家族との別れも、ギードとの別れも悲しかった。 

 

 

 日本に帰ってきた私は一年間休学していた大学に通い始めた。しかし、それは就職するためではない。

「お母さん、お父さん。話があるの。」

 日本に帰ってきて家に着くなり私は両親に話を切り出した。

 父と母は顔を見合わせ、うなずいた。

「ドイツに、行くんでしょ。」

「なんでわかったの?」

「初めからそんなこと想定内。そう言うだろうってわかってたから、高校の間は留学しちゃだめだって言ってたの。」

「そうだったの…。」

 やはり血のつながった親はすごい。娘の行動なんてお見通しのようだ。

 私は説得しようとしていた力が抜けて、椅子に座り込んだ。

「飛行機の中で色々考えたのに…。」

「残念だったね、有紗。」

「お父さんうるさい!」

 飛行機の中でたくさん考えた。私はどうしたいのか、どうするべきなのか。

 長い飛行時間の中で私はもう一度ドイツに戻ってこようと決めた。

 好きな男のため母国を捨てる、か。私も自分のことを馬鹿な女だと思う。重いし。

「でも、大学はちゃんと卒業しなさい。あと向こうに行っても時々顔を見せに帰ってきなさい。それが条件よ。」

「ありがとう、お母さん。」

 私は母に寄っていって抱き着いた。母はぽんぽんと頭をなでる。小さいころと何ら変わってはいない。

 親は親である。

「ねぇパパは?」

「はいはい。なんでお父さんもなの?」

「パパだって寂しいから。」

 そうだよね。そりゃ家族だもの。そりゃ寂しい。私も寂しい。

「ちゃんと帰ってくるから。あと、まだ時間はある。」


 大学には通ってはいるもののギードのことが気になって仕方がない。

 授業は聞いてはいるものの、ほかのことはほとんど上の空だ。

 恋をすると周りが見えなくなるというが、嘘ではないようだ。身にしみて感じている。ポエムではない。

「有紗は、ドイツで就職するんだよね?」

 友人が突然私に聞いてきた。やはり上の空だった私は一瞬慌てながらも答える。

「そのつもりだけど、まだ何も決まってない。」

「大胆になったもんだね。留学行く前はもっと慎重だった気がするんだけど?」

「そんなことないよ。ただ少し、思うところがあるだけ。」

 ギードにもしもう一度会えたら…私は会えると信じているけれど、ギードが一人で背負ってきたものを私も一緒に背負いたいと思っている。

 彼がそれを許してくれるのかはわからないけれど、私はずっとそのつもりでいる。

「すごいね有紗。なんか目が輝いてる。無垢な感じに。」

「そうかな?」

 目標があるのとないのじゃ気持ちの持ちようが違うのはわかる。




「やっと着いた!」

 人生で二度目。ドイツへの入国である。

 大学での履修を終え、またここに来ることを許された私は小さな荷物を持ちドイツにやってきた。

 というのも、ホームステイでお世話になったあの家族が、私をあの家に住まわしてくれるというのだ。

 ちゃんと家を探すとは言ったけれど、彼女たちも譲りはしない。

 可愛い娘がいたら生活が潤うとかなんとか。

 お金を稼ぐこともまだできそうになかった私は、大人しくドイツの両親の厚意に甘えることにした。

 部屋はあの時のままで、帰ってきた、そんな気がした。

「有紗。あなたが帰った日の夜、ギードがうちに来たわ。」

「やっぱり…。」

 彼にはあと一日あると伝えたままだったから、やっぱり家に来ていたようだ。

 私が出てこないと思っていたら、家から出てきたのは家の母。彼女は私が日本に帰ったことを彼に伝えてくれたらしい。

「もしかして、お母さん。」

「あなたが満月の日の夜にこっそり外に出かけていることは知っていたわ。でも相手がギードだから止めずにいたの。」

 いつから気付いていたのかはわからないけど、止めずにいてくれたことはありがたかった。あの時間は私にとってとても大事だったと思う。

「今日は満月よ、有紗。」

「うん。行きます。あの人のところに。」

「ギードが好きなのよね。有紗は。」

「そうです。だから戻ってきました。」

 母はもしかしたらこの家も必要ないかもしれないわねと言って、笑った。

 

 夜になると私は家を飛び出した。ギードを探しに。

 私がここに帰ってきたことを彼が知っているかはわからない。彼がどこにいるのかもわからない。とりあえず探す。

 人の気配がした。

 彼かと思って振り向く。

 そこには知らない人がいた。怪しい顔でにやりと笑う。

 やってしまった。悪い人に目をつけられてしまったらしい。

「お嬢ちゃん、こんな時間に一人で何してるんだい?」

 細い路地に引きずり込まれ、がタイの良い男たちに囲まれる。もう駄目だと思ったとき、聞きなれた声が耳のそばで聞こえた。

「少し、目を瞑っていろ。」

「10秒数えますね。」

 ギードだ。

「そうだ。ゆっくり数えろ。」

「いち、に、さん…」

 周りで禍々しい音が聞こえる。目はつぶったままだ。

「はち、きゅう、じゅう…。」

 ゆっくり目を開けると、倒れた大男たちの真ん中に立っている彼。

「本当に懲りないやつだな。」

「あなたがいる限りはね。」

 私は思わず顔に笑みを浮かべた。

 しかし目の前の彼は黒い姿ではなく、ひどく疲れた顔をしていた。

 

「久しぶりですね、ギード。何か、あったんですか?」

 ギードは少し黙ってからため息をついて、話を始めた。

「入り口がひとつ、バレてしまった。」

「それは…!!!」

 彼は守り切れなかったということ?

 私がのこのこと大学生活を送っている間に彼は…。

「地下宮殿の中にも鍵が必要な扉がある。奥まで入られたわけではない、しかし俺たちが守ってきたものの一部が持っていかれてしまった。」

「その入り口は…。」

「埋めてある。もう使い物にならない。」

 彼は淡々と話しているが、とてもつらかったんだと思う。やつれ具合を見るとほんの最近の出来事のようだ。

「ずっと守ってきたものが…奪われた。」

 ギードは一粒、もう一粒と涙をこぼし始めた。ずっと泣いてなかったんだろうと思った。

 ずっと一人で重いものを背負ってつらかったんじゃないかと、思った。

 私は、とっさに彼のほうに手を伸ばして抱きしめた。

 人のぬくもりは人を安心させる。彼はそれを知らないかもしれない。力強く抱きしめる。

「まだ全部じゃないんでしょ。…残りは、私も一緒に守ります。二人ならもっとちゃんと守れるはずです。駄目、ですか?」

 私は彼の支えになりたいのだ。彼の背負うものを少しでも肩代わりしたいという気持ちは変わっていない。

「お前は、それでいいのか。本当にそれで…。」

 彼の声はどんどん弱弱しくなっている。固まっていたような顔も、抑揚がなかった声も今の彼には存在しない。

 今の彼は見るに堪えない姿だ。愛しい人が泣いている。

 辛くなって、思わず口づけた。

 自分でもなんでそんな行動をとったのかわからない。ただ、それで相手が安心してくれるんじゃないかと思った。

「なぁ、有紗。」

「なんですか?」

「お前は、誰かに取られて消えてしまったりしないか。」

「しませんよ、貴方のそばにいます。」

 ギードが望むならば死ぬつもりでこっちに来た。日本とドイツの両親には悪いけれど、私はもうこの身を彼に捧げる気でいたのだ。

「日本はいいのか。」

「時々顔を見せるとは言ったけど、私が帰ってこないことも両親は想定していると思います。私のことよくわかっているから。だから、大丈夫です。あなたとどこに行くことになっても、それは私の意志です。」

 ごめんね、お父さんお母さん。甲斐甲斐しく育ててくれたのに、あんまり一緒に入れなくてごめん。

「俺で、いいか。」

「ギードじゃないと駄目です。ねぇ、早くいつも通りに戻ってください。悲しそうな姿を見るのはつらい…。」

「ごめんな、有紗。俺と一緒に、宮殿を守ってくれ。」



「ごめんなさい…せっかく部屋を残してもらっていたのに…。」

「私も一年一緒に過ごしてたのよ。有紗のことは大体わかるわ。そうなる気がしてた。」

 私はギードが住んでいる、誰も知らないという山の中の小さなお屋敷に行くことになった。実家でもドイツの家でもなく、ギードの家に。

「ギード、有紗を奪ったからには幸せにしなさいよ?」

「わかっています。」

 いつか日本の両親にもちゃんとしたことを伝えないといけない。

 ほとんど何も言わないままじゃいけないだろう。

 私は元々少ない荷物を抱え、ギードとともに新しい我が家へと向かった。



 ほとんどの食料を自給自足し、時々街に出て食料や衣服を調達するような生活は私にとってなかなか慣れないものだったけど困るということはなかった。それ以上に自分を幸福感が包んでいたのである。

 ギードがそばにいて、あの地下宮殿も守られている。幸せな生活。

 ギードと私が住む屋敷には隠し扉があり、そこが一番大きな地下宮殿への出入り口だった。

 この家の存在すら知られていないのに、この扉が悪い人たちにバレてしまうことはなかった。

 そしてそれ以外の扉は塞いでしまった。

 もう本当にここだけだ。

「ギード、こんな重要な鍵私が持っていてもいいんですか?」

「お前のことは信頼しているし、ほとんど一緒にいるんだからいいだろう。」

 最後の扉の鍵は私の首にかかっている。ギードがネックレスのようにしてくれたのだ。

 ギードと一緒に暮らし始めて以来、ほとんど肌身離さず持っている。

 時々この鍵を使うこともある。

 本当に時々、ギードが地下宮殿を案内してくれる時があるのだ。

 中は迷路みたいになっていて、レンガで固められた不思議な空間。大昔にひっそりと作られたようだが、その規模は一目じゃ計り知れないほど。

 数回行っても知らないところだらけだ。

 大きな地下の宮殿を二人占めしているようで、いつも不思議な気持ちになる。

 あの空間にいる時がとても好きだ。


「ねぇギード。私が初めてあなたに会ったとき、光と闇があなたに味方したようにみえたいのは何故でしょうか。ギードは魔法使いだったりしないんですか?」

「何度も言うが俺は普通の人間だ。きっとたまたまだろう。」

 たまたまだというなら、彼は闇に好かれているのかもしれない。


 私はずっとギードのそばにいるだろう。夜の闇に身を隠して。


お読みいただきありがとうございました。

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