第一〇話「子供は親の奴隷じゃない」Aパート
県庁に登庁した雁也は、
「昨日はどこに行っていたのかしら」
朝一番から笠間みねこの襲来を受けた。
場所は県庁舎の廊下、時刻は朝八時を回ったところ。廊下には登庁してきた職員が行き来している。その廊下の片隅で雁也はみねこと対峙をしていた。
「……いや、昨日は親父の仕事の都合で、色々と」
「中学生の女の子とドライブを?」
みねこは満面の笑みを湛えつつ雁也を威圧。雁也は雑巾が絞られるかのように大量の汗を流した。
「申し訳ありません」
言い訳を断念した雁也は男らしくその場に土下座した。教科書に載りそうなくらいに完璧なフォームの土下座である。
「親父の命令で接待をしただけです。みねこさんに対してやましいことは何一つしていません」
みねこは「ふーん。そう」と言いながら雁也の後頭部にハイヒールの片足を乗せた。そんな雁也達の横を職員が「おはようございます」「おはよう」と挨拶を交わして普通に通り過ぎていく。どうやらこの光景は県庁においては特別珍しいものではないようだった。
「旧家の素敵なお嬢さんなんですってね。ドライブは楽しかった?」
「あくまで親父や家の都合での接待であって、決して望んでのことではありません」
「それで、どうするつもり? その子と結婚してわたしは愛人扱い?」
みねこがハイヒールに体重をかけ、雁也は痛そうにうめく。
「あ、あれは向こうから断ってもらうために出した条件なんだ、本気にしないでくれ」
しばらく両者はそのままの姿勢でいたが、やがてみねこが雁也の後頭部から足をどかす。雁也は土下座の姿勢のまま上方のみねこの顔色をうかがった。
「それじゃその子と結婚するつもりはないのね」
雁也は「当然だ」と即答。みねこはそれに満足げに頷く。
「……ただ、形だけの婚約をしばらく続けないといけないかも」
ハイヒールのかかとが雁也の後頭部に突き刺さる。雁也は「ぐえっ」とうめいた。
「自分の半分以下の年齢の子供と結婚するつもり?」
「婚約は親父と相手の都合であって僕の意志じゃないんだ! 彼女は確かにいい子だが彼女を選ぶつもりはない!」
みねこはしばらくそのままの体勢を固定し、雁也の後頭部に微妙に体重をかけていく。雁也は痛みと重みに脂汗を流したが、やがてみねこがその後頭部から足をどかした。雁也は安堵のため息をつきつつも土下座をしたままみねこの機嫌をうかがった。みねこは未だ不満げだが一旦それを呑み込み、その代わりのようにため息をついた。
「……それで、わたしに対してどうやって埋め合わせをするつもり? 来週の休みの予定は?」
「……その、来週も彼女の接待の予定が」
みねこが怒りと全体重をかけて足を振り下ろす。間一髪雁也が避け、ハイヒールのかかとはコンクリートを砕く勢いで床に叩き付けられた。
「殺す気か!」
立ち上がってみねこから距離を置く雁也と、
「それがあなたの遺言なわけね」
と全身から殺気をみなぎらせるみねこ。雁也はじりじりと後退った。
「僕が愛しているのは君だけなんだ!」
「そんな言い逃れが通用すると思ってるの?!」
雁也は捨て台詞のように叫んで逃げ出し、みねこがそれを追った。雁也はエレベータに飛び乗り、その扉はみねこの目の前で閉ざされる。
「ちっ、逃げ足だけは早いわね……!」
みねこは腹立ち紛れにエレベータの扉を蹴った。ぎりぎりぎりと歯軋りをしていたみねこだが、不意に暗い顔となってため息をつく。
「そりゃ、わたしの家はただのサラリーマンでわたしと結婚しても何のメリットもないけど……わたしよりも中学生の小娘を選ぶの? 雁也さん」
みねこの胸の中で不安と猜疑心が渦を巻いた。不安が猜疑心を刺激し、猜疑心が不安を増幅する。抑制の利かない連鎖反応が広がっていき、みねこの胸は張り裂けるかと思われた。台風のように勢力を強めた不安と猜疑心の渦は――何者かを呼び寄せた。実体を持たない獣の影がみねこに接近し、みねこの影に接触する。獣の影とみねこの影は寄り合い、溶け合い、混ざり合い、一つとなっていく。
「……許さない。わたしから雁也さんを奪おうとする奴は、誰であろうと許さないわ」
みねこは自分の嫉妬心が急速に増幅され、制御を外れていくのを理解し、実感している。だがそれを自制しようとは思わなかった。
「わたしはこんなに雁也さんを愛している。雁也さんもそれを判ってくれるに違いないわ」
みねこは暴走する感情に誇らしさすら抱いていた。
一方の内渚中学校。ことらとゆたかは昼休みにたつみの元へと向かった。昼食を取り終えたたつみは自分の席でスマートフォンを操作しているところである。
「ごめんなさい。もう少しで終わるから」
ことら達に気が付いたたつみはそう告げ、スマートフォンの操作を続けた。ことらとゆたかはそれが終わるのを待ち、話しかける。
「昨日のデートはどうでしたか?」
「悪くはなかったわ。今来週の予定についてメールをしたところ」
ことらとゆたかは一瞬顔を見合わせる。
「あの中年と交際を続けるつもりなのかよ」
ことらの確認にたつみは「ええ」と頷く。ことら達が途方に暮れた顔をする一方、たつみは普段通りの表情を装っていた。
その日の夕方、塾へと向かうたつみを見送ったことらとゆたかは早足である方向へと向かっている。――その後方から、塾をエスケープしたたつみが尾行していることに二人は気付いていなかった。
ことらとゆたかは大聖寺邸へと正門から入っていく。一方のたつみは裏口へと回った。
「わたしが戻っているのは誰にも内緒にしておいて」
「判りました、お嬢さん」
たつみは庭師に依頼の上で、こっそりと屋敷へと入っていく。たつみは忍者のように人目を忍んで屋敷内を進み、客間の隣の座敷へとやってきた。客間には何人かの人間が集まっているようで、その声と気配が感じられる。畳の上に正座したたつみは目をつむり、耳を澄ませた。
「……竪町雁也の交際相手は笠間みねこさんって言って、県庁の同僚の人なんだ。今日みねこさんが竪町雁也を問い詰めたけど、中学生と結婚するつもりはないって断言したってメールに書いてあった」
ことらの報告に天馬と龍子は戸惑ったような顔を見せた。
「たつみと結婚してその人を愛人にするつもりじゃなかったの?」
「あれはたつみの方から断ってもらうために出した条件だったらしい」
天馬と龍子は何とも言い難い顔をした。
「父親の命令には逆らえんが、たつみと結婚するわけにもいかんから、と。それは理解できなくもないが……」
「あんな条件を本気で出したわけじゃないのならそれでいいけど……」
天馬達はそう言いつつも今ひとつ納得しがたいような様子だった。雁也に振り回された不快感を完全には消化できないようである。
「竪町雁也の方はみねこさんに任せておけば問題ないと思います。婚約にしたって必須ってわけじゃないんですよね」
ゆたかの確認に天馬は「ああ」と頷いた。
「私の都合や利益のために雁也君やたつみの人生を歪めようとは思わん。雁也君が婚約破棄を求めるなら私はそれを受け入れるだけだ」
「残る問題はたつみの方だけか」
ことらの言葉に一同は深々とため息をついた。
「あの子が『婚約なんか嫌だ』と一言言えば問題は全て解決するんだが……」
「わたし達が命令をすれば婚約は破棄するでしょうけど、それじゃたつみ自身の問題は残ったままだわ」
「たつみちゃんにちゃんと自分のことを考えて、判断して行動してほしいんですよね」
ゆたかは腕を組んでどこか偉そうに「うーん」と悩む。そのゆたかに、
「今はそんな風に見えねーけど、たつみが自分の意志であの中年に横恋慕したらどうするんだ?」
ことらの問いにゆたかは迷いつつも、
「できれば諦めるように諭して、それでも本気ならそのときは応援してあげるのが友情じゃないかなぁ……?」
「あのみねこさんと修羅場になるんだぞ」
ことらの指摘にゆたかは一瞬凍り付くが、
「……たつみちゃんと一緒に戦います!」
それでもゆたかは拳を握りしめて宣言した。
――襖を挟んだ隣の部屋で、たつみは自分に関する会話に耳を傾け、ただの一言一句も聞き逃さないでいた。たつみの表情は普段と何も変わらない、冷静なままのように見える。が、もしことら達がそれを見たなら、たつみがかすかに微笑んでいることを見逃さなかったに違いない。




