第九話「どうかあの子を助けてあげて」Aパート
内渚町からさほど離れていない、水田地帯。水田には稲が青々とした稲が植えられ、澄んだ水が張られている。そんな涼しげな光景が地平線まで広がる一帯の片隅に、その一軒家は建っていた。表札には「竪町」という名字が記されている。
純和風の広い敷地を持つ家で、都会の真ん中にあれば豪邸と呼ばれているだろう。だが古くからの農家であれば特別珍しくもないし、豪邸と言うほどでもなかった。
竪町家の居間ではソファに座った二人の人間が向かい合っている。
「何を考えているんですか、お父さん!」
若い方の男が両手でテーブルを強く叩き、相手に噛みついた。若い方の男は三〇前後。眼鏡をかけた、線の細い、神経質そうな人物だ。
「僕はもう三〇ですよ? 三〇男を中学二年の女の子と結婚させるなんて、異常だとは思わないんですか?!」
「それくらいの年の差の夫婦は、古今東西いくらでも例があるだろう」
と反論するのは非常に小柄な老人である。年齢は六〇歳以上で、和服を身にしている。しわに目が埋もれているその顔は「頑な」を絵に描いたかのようだ。ソファの横には車椅子が置いてある。血色も悪く、健康状態が優れないものと思われた。
「大聖寺家は内渚町随一の名家で県下有数の資産家だ。娘はまだ若いが文武両道の才女と評判だ。この縁談に何の不満がある」
「政略結婚自体が時代錯誤でナンセンスだと言っているんです」
息子の反論を父親は「お前は女学校の小娘か」と鼻で嗤った。
「この結婚で大聖寺家の財産も家名もお前の子供に引き継がれる。儂が生涯をかけて築いていた地盤も看板も、大聖寺天馬を経由してお前の子供に受け継がれるのだ。儂は結局首相になれなかったが、大聖寺家の血筋と資産を相続したお前の子供なら……!」
拳を握りしめる父親に対し、その息子は白けたような目を向けるだけだ。
「僕は政治家になりませんし、子供にだってその道を進ませるつもりはありません。僕の人生も、僕の子供の人生も自分自身のものであって、お父さんのものではないんです」
「口だけは一人前だな。だが偉そうな口は一人前の男になってから叩くがいい。――だれが県庁への就職を世話してやったと思っている?」
「ぐっ」と詰まる孫に祖父は畳みかけた。
「地方公務員の木っ端一人などいつでも首を飛ばせるのだぞ。……失業して再就職先がどこにもないとなればお前も観念して儂の跡を継ぐかもしれんな」
父親の脅迫にその息子は悔しげに歯軋りをする。だが父親は息子の感情など一切斟酌しなかった。
「孫に跡を継がせるか、それともお前が跡を継ぐか。儂はどちらでも構わんのだぞ」
今にも殴りかかりそうな目を父親へと向ける息子と、それを氷壁のような冷笑ではね返す父親。両者の対峙はそれほど長くは続かなかった。息子が父親へと頭を下げるように顔をうつむかせる。それは屈服の表明だった。
息子が殊更に乱暴に戸を開け、居間から出ていく。居間に残された父親は重いため息をついた。
「……儂がどれほどの苦労をして、どれだけの時間をかけてこれだけの地盤を築いていたと思っている。それを赤の他人に渡せるものか」
蛍光灯に照らされたその老人の影の中に歪みが生まれた。歪みは渦を巻き、獣のような形となっていく。
「儂が生涯をかけて手に入れられなかった地位、儂の夢。それを息子に、孫に託して何が悪い……!」
老人の影の中でその獣は嘲笑した――その老人を。あるいは全ての人間を。
季節は梅雨の真っ直中で、内渚町には鬱陶しい雨が降り続いている。ことらは授業中だが授業を全く聞いていなかった。机に突っ伏し、組んだ腕に顔を埋め、顔を横に向けて窓の外へと物憂げな眼を向けている。大粒の雨が降り続き、雨はいつ果てるともしれなかった。
授業が終わり、放課後である。
「……金属バットで殴り殺そうとして警察に捕まったって」
「……あいつもやるじゃん」
「……俺、どっかの雑誌のインタビューを受けたぜ」
教室内では男子達が無責任な噂話に興じている。ことらはそれに苛立ったが、できることはない。せいぜい彼等から背を向け、耳を塞ぐことくらいだ。ことらの元に鞄を抱え、気遣わしげな顔をしたゆたかがやってきた。
「今日はパトロールの日ですけど、どうしますか……?」
「この雨だしなー」
ことらは気力の不足を雨のせいにした。ゆたかもまた「そうですね」と頷くだけだ。そこに、二人のスマートフォンにメールが着信した。二人はそれを同時に開封する。
「たつみちゃんからです。『今日はパトロールに参加できない』って」
「『お見合いの相手と夕食を取る』……話が進んでいるのか」
二人はそれきり無言のまま窓の外へと視線を向ける。雨が降り続く憂鬱な光景は二人の心の中そのままだった。
――その夜、とある高級料亭。たつみは両親に連れられてそこを訪れていた。料亭内の一室、その座卓には彩りある懐石料理がこぼれんばかりに並び、四人の人間が座卓の席に着いている。奥側に座っているのが、中央に振り袖を着たたつみ、その両サイドに天馬と龍子。大聖寺家と向かい合って座っているのは、竪町氏の息子の青年だった。青年が身にしているのはブランド物の高級スーツだ。
「この子と顔を会わせるのは初めてだったかな? 紹介しよう、娘のたつみだ」
天馬の紹介を受け、たつみは「初めまして」と頭を下げた。
「どうも初めまして。竪町雁也です」
主役の両者の挨拶を終えて、緊張感を和らげるべくまずは天馬が雁也と会話した。
「雁之助さんの具合はどうかね?」
「この頃は調子がいいようです。この分なら百まで生きても不思議はないですね」
「いや、それは重畳!」
がははは、と豪快に笑う天馬だが、雁也は冷笑を浮かべるだけだった。
「しかし、父のような年寄りがいつまでも議席にしがみついているのは望ましいことじゃありません。大聖寺先生には父に代わって国会で頑張っていただかないと」
「もちろん私もそのつもりだ。雁之助さんの理想や志は私は受け継ぐ」
「地盤や看板も、ですよね? 父からあなたに受け継がれた地盤や看板は、いずれは僕達の子供が受け継ぐ――父はそのつもりでいます」
雁也のストレートな物言いに天馬は数瞬言葉を詰まらせたが、
「う、うむ。異存はない」
と頷いた。雁也はたつみへと水を向ける。
「君はどうなんだ? 自分の子供が政治家の道を歩むことに反対しないのか?」
「はい」
たつみは打てば響くよう即答した。
「子供が親の跡を継ぐのは自然なことだと思います」
「そのために倍以上も年齢の違う男に嫁ぐのは君なんだが?」
「問題はありません」
たつみはあくまで平静のまま答える。たつみの様子に雁也は若干鼻白んだ様子だったが、すぐに精神的に体勢を立て直した。雁也はわざとらしく肩をすくめる。
「君にとって問題はなくともこちらにはないとは言えなくてね。――この結婚に当たっての条件を述べたいんだが、いいだろうか」
たつみが普段のまま頷き、やや怪訝な顔をしつつも天馬もそれに追随する。それを受けた雁也もまた頷いた。
「まず、僕には現在交際している女性がいる。その女性との交際を結婚後も認めること、これが結婚の条件だ」
雁也の言葉に天馬と龍子が顔色を変えた。龍子が怒りを圧し殺し、冷静を装いつつ雁也を問う。
「夫の浮気を妻に公認しろ、とこの子に言うのですか?」
「愛情のない政略結婚なら別に珍しいことではないでしょう? もろちん僕も大聖寺家の存続と発展のために力を尽くします。大聖寺家の家名を汚さないよう精一杯のことをします。彼女の夫としての、公の立場も守ります。それが自分の役割だと判っています。……ですが、自分の役割さえ果たしているのなら僕のプライベートのことなんてあなた達には無関係でしょう? 誰にだって他人には関わってほしくないことがあるんですよ」
雁也は冷笑を浮かべてうそぶいた。一方の天馬と龍子は怒りを抑えきれず、今にも激発しそうである。が、肝心のたつみは少なくとも外見上は全く平静のままで、怒りだろうと悲しみだろうと、何一つその感情を動かされていないかのようだった。
雁也は訝しげな思いを抱きつつもそれを隠し、たつみの感情を刺激しようとする。
「ああ、君が外に愛人を作ったとしてももちろん僕はそれを認めよう。そうでないと不公平だからね。互いのプライバシーには干渉せず、大聖寺家の家名を保つために協力する――決して悪い条件じゃないと思うんだが?」
そのときたつみが発した言葉を誰も理解することができなかった。
「――わたしはそれで構いません」
言葉の意味は判るが文脈上の意味が判らない。会話の流れからたつみの返答が示していることは一つしかないが、それを理解することを脳が拒絶していた。
「……何だって?」
「その条件で結婚することに異存はありません、と言いました」
半笑いを浮かべた雁也が確認するが、たつみの回答に変わりはなかった。
「たつみ、何を言っているんだ」
「こんな条件を呑む必要なんて一つもないのよ」
天馬と龍子が焦りながらたつみに翻意を促すが、たつみは不思議そうに首を傾げるだけだ。
「でも、夫婦ってそういうものでしょう?」
天馬と龍子は完全に言葉を失っていた。一〇歳以上も歳を取ったかのように力をなくし、呆然とただ顔をうつむかせている。
一方、雁也はそんな大聖寺家の三人に呆れたような視線を向けていた。
「娘さんの教育が行き届いているようで何よりです。僕は素晴らしい女性を妻に持つことができそうですよ」
雁也のその台詞が痛烈な皮肉であることを天馬や龍子に理解できないはずがなかった。
……その後、天馬達は早々に、なし崩し的に会食を終了させた。天馬と龍子とたつみはハイヤーで内渚町の大聖寺邸へと帰宅する。帰りの道中、車内では一言も会話が交わされなかった。
一方の雁也もまたタクシーで帰宅する。その車内では、
「……どうしてこうなった」
と頭を抱える雁也のうめき声が聞かれたと言う……。




