第七話「お父さんはお父さんだから」Aパート
町立内渚中学校は今日も平常通り授業中である。ことらは欠伸を噛み殺しつつ退屈な授業を聞き流していた。
「……ん?」
そのとき、ことらのスマートフォンにメールが着信。開封するとそれはゆたかからのものだった。
『お父さんの就職が決まりました ヾ( ̄∇ ̄=ノ
色々心配かけましたからご報告まで』
その内容にことらは素直に喜び、『よかったじゃん』とメールを返信した。少し間を置き、たつみからの同報メールが届く。
『就職先はどこ?』
『内渚第一予備校だそうです』
その回答を見たことらは単に「そうなのか」と思っただけである。だがたつみには違う感想があったようだった。休み時間のトイレの帰りに、廊下でことらはたつみに捕まった。
「一里野のおじさんの就職先のことだけど」
「ああ、予備校だってな。大学の講師から予備校の講師に転職したわけだろ。ありがちだけどいいんじゃね?」
ことらの能天気な言葉にたつみは少し間を置き、
「……あの学校、いい評判を聞かないわ」
やや声を潜めてそう言う。ことらがたつみを見つめた。
「悪い評判なら聞くわけか」
「同じ塾の子が何人も『ひどい目にあった』って話していたわ。――講師の質が悪い、入学金が高い、授業料が一年契約になっていて年度の途中で退学しても授業料の支払いを求められる。支払いを渋ると怒鳴ったり、脅迫まがいのことを言ってきたり、嫌がらせみたいな電話をかけてきたりもするらしい。弁護士に相談してやっと途中解約できた、って話も聞いているわ」
ことらの口から「何だそりゃ」という呟きが漏れた。
「そんな学校、そのうち潰れるだろ。そんなところに就職したって……」
「それ以前の問題があるわ。経営者が顧客である生徒に対してそんな態度に出ているのなら、従業員に対してはもっとひどい扱いをしているんじゃないかしら」
「ブラック企業、ってやつか?」
たつみは「ええ」と頷く。ことらは難しい顔で腕を組み「うーん」と唸った。
「……でも、わたし達にできることは何もないだろ」
「そうね。せいぜいゆたかの愚痴を聞いたり相談に乗ってあげたりするくらいね」
まあそれくらいは当然だろ、とことらは頷く。
「このこと、ゆたかに言うのか?」
「いえ、少しだけ様子を見ましょう」
ことらはそれを是とする。そこで授業開始のチャイムが鳴り、ことらはたつみと別れた。その後、二人の間で内渚第一予備校が話題に登ることはなかった。
「……あの、お父さんのことなんですけど」
一週間ほど日にちを置いて、話題になったのはゆたかも交えて三人のときだったのだから。
真鶴の朝は若干早めである。朝六時半、ボロアパートの真鶴の部屋で目覚まし時計のベルが鳴り響く。目を覚ました真鶴は顔を洗い、冷蔵庫に常備している缶コーヒーを一本飲んで早々に部屋を出た。
「おはようございます」
自転車で内渚第一予備校にやってきた真鶴は駐輪場に自転車を駐め、事務所に向かう。誰もいない事務所の床を箒で掃除し、全員の机を布巾で拭いて、その上でデスクのパソコンに向かって仕事を開始した。その頃にようやく他の従業員が通勤してくる。
朝八時半、予備校の授業が開始される時間であり、従業員の本来の勤務開始時間だ。だが従業員は始業のチャイムが鳴っても仕事をしようとしていない。
「昨日のテレビ見た?」
「見た見た。ひどかったよねー、あれ」
女子事務員はおしゃべりに興じ、
「モーニングでも食いに行こうぜ」
「運転するのはいいけどたまにはおごれよ」
男性講師は早速外出している。だが真鶴は一時間以上早く通勤して仕事を開始し、誰も仕事をしない中で一人作業を進めていた。
「この採点、今日中にお願いしますね」
女子事務員が真鶴のデスクに答案用紙の束を投げ置いていった。真鶴が顔を上げるとその女子事務員は自分の席で爪にマニキュアを塗っているところである。真鶴は今している仕事を中断し、答案の採点から取りかかった。
昼休みになっても食事に行くような時間は真鶴にはない。コンビニで買ってきたおにぎりを片手に採点を続けている。その甲斐あって、昼休みが終わる頃には答案の採点作業は終えることができた。
「一里野さん、学長がお呼びですよ」
それを見計らっていたかのように、年かさの事務員の一人が真鶴に声をかける。真鶴は「はい、ただいま!」と居酒屋の従業員のように返事をし、学長室へと向かった。
小走りで立ち去る真鶴を見送り、
「いやあ、一里野さんが入ってくれてすごい助かるなあ」
「学長の『打ち合わせ』を任せておけますからね」
「しかし学長、最近特にひどくなってるよな」
事務員達は好き勝手なことを言っていた。
一方、予備校最上階の学長室。そこでは内渚第一予備校学長のヘンリー・G・松本が真鶴を相手に、
「私はこんな田舎の予備校の学長で終わる人間じゃないんだ! 今はまだこんなちっぽけな予備校だが、まず目指すは県下一! やがては日本一、いずれは世界一だ!」
一大演説を打っていた。真鶴は愛想笑いを浮かべて耳を傾けている。
「いや、さすがは学長です」
と追従する真鶴だが、演説の内容は右から左へと素通りである。
「そのうち自前の大学も持って、それをハーバードやケンブリッジのような世界に名だたる名門にする! これがその大学だ!」
と松本はデスクの上にキャンパスの図面や校舎の完成予想図を広げる。キャンパスの中心に建つ校舎は百階建てで八角形の高層ビルだった。
「いやすごいですなー」
欠片も心がこもらない、棒読みの言葉が真鶴の口からこぼれ落ちる。太鼓持ちとしてはあまりに不出来な真鶴だが、松本は全く気にしていないようだった。
「確かに先はまだまだ長いが、私は諦めはせんぞ! まずは金だ。何をするにしても金が要る。もっともっと宣伝を打って、一人でも多く生徒を集めて一円でも多く金を搾り取るんだ。それと同時に経費を節減しなければ」
松本は「ふむ」と考え込み、
「教室の空席が目立つのが問題だ。講義の数を半分に減らせば」
真鶴も「いや、さすがにそれは」と異議を唱えた。
「今の時代、生徒や親は少人数で丁寧な指導を求めています。大規模な講義でも人が集まるのは大手予備校の名物講師くらいで」
「判っとるわそのくらい!」
松本が真鶴を一喝、真鶴は身を縮めた。
「生徒が集まる名物講師などただの虚像だ! TVCMをガンガン放映してうちの『名物講師陣』をもっともっと宣伝すればいい!」
「しかし実績が伴わなければ……」
「実績くらい後からいくらでもついてくる!」
松本と真鶴の「打ち合わせ」は終始こんな状態だった。松本が妄想に等しい遠大な構想をぶち上げ、真鶴はそれに追従する。たまに真鶴が異議や疑問を提示すると松本は反論し、反撃し、力任せにそれを叩き潰した。結局その日の午後も全て「打ち合わせ」に費やされ、無為な時間で終わってしまった。さらには、
「一里野先生、飲みに行くぞ!」
松本は強引に一里野を誘って夜の街へと出かけた。向かう先は場末のキャバレーで、松本は厚化粧の女性を何人も侍らせ、
「私はこんな田舎の予備校の学長で終わりはしないぞ! うちの予備校はいずれそのうち日本一、世界一になる!」
まるで壊れたレコードのように昼間と同じ話をくり返していた。キャバレーの女性達はさすがにプロで、
「うわー、すごーい」
「うわー、さすがだわー」
松本の妄想がまるで真実かのように受け止め、褒め称え、松本の自尊心をこの上なく充足させていた。一方の真鶴はソファの片隅で烏龍茶を舐めるように飲んでいる。
「何をしけた顔をしている! さあ、飲め!」
そんな真鶴に松本が目を付け、ビールのジョッキを押し付けてきた。
「いえ、私はアルコールは苦手でして……」
と辟易した様子の真鶴だが、それで許す松本ではなかった。
「私が酌をしているのに飲めないというのか?」
「いえ、そんなことは……」
「社会人たるもの、人付き合いをする上で酒を飲むことは避けられん。苦手だというのなら特訓だ! 苦手な科目を克服して合格を目指すのが私達の仕事だろう!」
目の据わった松本が真鶴に迫る。完全に酔っぱらった松本を止められる人間はここにはおらず、真鶴はビールのジョッキを受け取るしかなかった。さらには、
「一里野先生のちょっといいとこ見てみたい!」
松本の煽動で一気呑みをはやし立てられる。真鶴にはそれから逃れる手段はなく、真鶴はジョッキとともにに天を仰いだ。
……真鶴がようやく解放されたのは日付が変わってからである。千鳥足となった真鶴が深夜の内渚町を歩いていく。道端の側溝に吐瀉し、自動販売機で買ったスポーツ飲料を飲んでようやく人心地ついていた。
今にも崩れ落ちそうになりながらも真鶴は何とかボロアパートの自分の部屋に到着する。
「やっと休める……」
無人だった部屋に電灯が灯る。居間の卓袱台の上にはラップに包まれた料理が並んでいて、その横には書き置きが残されていた。
『お仕事お疲れさま。温め直して食べてください。 ゆたか』
それを読んだ真鶴が小さく微笑む。が、真鶴には夕食を取る気力も、胃袋の余裕も残されていなかった。
「ごめん、ゆたか。明日の朝食べるから……」
服を脱ぎ捨てて下着となった真鶴は布団も出さないまま畳の上で横になる。真鶴はそのまま深い眠りへと滑り落ちていった。