第六話「お父さんは頑張っているよ」Aパート
今日の内渚町は夏のように日差しが強く、気温も真夏日まで上がっていた。町を歩く女性は日傘を差していたし、男性はハンカチで汗をぬぐっている。ゆたかの父親、一里野氏もその中の一人だった。
一里野氏はハンカチで額を拭き、そのまま不毛地帯の頭頂部まで汗をぬぐっている。一里野氏は長袖のスーツを着てネクタイもきっちり締めているため、この暑さは一際堪えた。
立ち止まった一里野氏はスーツのポケットから葉書大の地図を取り出し、左右を見回し、再び歩き出す。やがて一里野氏はある建物の前に到着した。
「内渚第一予備校」
四階建てのその建物にはそう記された看板が掲げられている。一里野氏はその建物の中へと入っていった。
……数分後、内渚第一予備校内の応接室。一里野氏はそこである人物と向かい合っていた。
「一里野真鶴さん……県立大学で講師を務められていて、三年前に退職、と」
その人物は応接セットのソファにふんぞり返って一里野氏――真鶴の用意した履歴書と真鶴とを等分に見比べた。その人物は比較的高めの身長で、デブと言うほどではないが肉付きがよい。大分薄くなった髪を七三に分け、明るい色のサングラスをかけている。予備校などよりは芸能プロダクションにでもいた方がよさそうな、胡散臭い雰囲気を持った人物である。
真鶴とサングラスのその人物――予備校の経営者は応接セットのテーブルを挟み、向かい合って座っている。テーブルの上には硝子の灰皿があり、吸い殻が山を成していた。掃除が行き届いていないようで、全体的に胡乱な空気が漂っている。
経営者は煙草をふかしつつ横柄な態度で質問を続けた。
「大学では何の講師を?」
「はい、教養学部の講師を。専門は近代史なんですが」
「退職されたのはどのような理由で?」
経営者の不躾な質問に真鶴は言葉を詰まらせたが、それも長い時間ではない。
「……そのー、昨今の少子化でどこの大学も経営が思わしくなく、講師の数も減らされる一方でして」
「それは予備校も同じなんですよ。このご時世、選ばなきゃ大学なんて猿でも入れますからね」
経営者の言葉に真鶴は「はい」と返答する。
「その中で一人でも多くのお客さんに来てもらう、一円でも多くの金を落としていってもらう。そのためにはそれだけのサービスを提供する必要があるわけです。――その年齢で教授にも助教授にもなれず、講師の口すらなくなって大学にも残れず、この三年間はフリーター――あなたを雇用したとして、うちやうちの生徒達にどのようなメリットがあるわけですか?」
真鶴の表情が笑顔の形のまま凍り付く。結局真鶴はその質問にまともに答えられなかった。
……面接を終えた真鶴が失意のうちにその予備校を後にする。
「……はあ」
と重いため息をついて肩を落とす真鶴だが、落ち込んでばかりもいられなかった。真鶴は鞄から別の葉書を取り出した。それは公共職業安定所からもらった紹介状である。
「おっと、もうこんな時間か。急がないと」
真鶴は次の面接先に向かい、走り出した。
――同じ内渚町内にある、仏壇店。それが真鶴の次の面接先である。真鶴はそこの応接室で面接者と一対一で対面していた。
「……」
「……」
「……」
沈黙が続いている。面接者は真鶴の履歴書を手にしたまま、渋い顔でずっと黙っていた。
「大学の講師をされていたわけですか」
「はい」
ようやく質問があったかと思えばそんな確認の一言だけで、またずっと沈黙が続いている。
結局面接はごく短時間で終わり、出された質問は片手で足りるくらい。それ以外の時間はずっと沈黙したままだった。面接を終えた真鶴がその仏壇店を後にする。
「……はあ」
ため息をつかずにはいられないが、この程度のことは慣れっこだ。真鶴は早々に気を取り直し、次の面接先へと向かった。
次の面接先は内渚町内の学習塾だ。面接場所は事務所の片隅で、面接者は五十代の中年女性である。
「そのー、ごめんなさいね。うちは女の子の生徒が多くて、講師も若い子を揃えてるの」
面接者は開口一番真鶴に謝った。真鶴は「はあ」としか言えない。事務所内を見回せば、確かに勤めているのは二〇代の、それも容姿の整った男女ばかりである。
「せんせー、クッキー焼いてきたんだ。食べて」
「おっ、美味そうだな」
爽やかな好青年の講師の周囲に女子生徒が集まり、
「東京の大学に行きたいんだけど、親が許してくれなくて」
「あなたの成績でそれはもったいないわね。先生からも話してみるね」
おしゃれな女性講師が女子生徒の相談に真剣に応じている。
「フットサルの試合、いつやるんですか?」
「今度の日曜だけど」
「応援に行きますね!」
講師と生徒がスポーツの話題に興じていて、笑い合っている。講師と生徒の距離が非常に近い、和気藹々とした塾のようだった。もしこの塾に勤められたとしても、この空気に溶け込むのは至難であるに違いない。
「……」
「……」
面接しているだけの今の時点でも、講師や生徒の視線が決して友好的ではないのだから。まるで大学の近所にあったおしゃれなカフェに間違えて入ってしまったような気分だ。このおしゃれ時空の中にあって真鶴の存在が不協和音を鳴らしている。
「はあ、お邪魔しました」
見込みなし、と判断した真鶴は早々に退散することにした。真鶴がその事務所から退出すると、中から嘲笑するような笑い声が聞こえてくる。おそらくは真鶴のことを笑っているのだろう。真鶴の心は傷付くが、このくらいの傷は毎日当たり前に付けられる程度のものだった。
夕闇の中、肩を落とした真鶴がとぼとぼと歩いていく。真鶴が到着したのは築何十年を経た、非常に古びた木造アパート。真鶴は今ここに住んでいた。
二階の一番奥の部屋に向かうと、その部屋の電気が点いているのが判る。入口のすぐ横が台所の流し台なので中で煮炊きをしている気配が容易に感じ取れる。真鶴は自分の部屋のドアをノック、「ただいま」と声をかけた。
「お帰り、お父さん」
内側からドアを開いて真鶴を出迎えたのはゆたかである。真鶴は我知らずのうちに相好を崩していた。
室内に入り、スーツを脱いでいる真鶴に「面接はどうだった?」とゆたかが声をかける。
「うーん、難しいね」
真鶴は深刻さを感じさせない口調でそう言う。ゆたかは「そう」とだけ答えた。
スーツから室内着の作務衣に着替えた真鶴の前に、ゆたかが用意した料理が並べられた。
「いつもすまないねぇ」
「気にしないで」
夕食の用意が全て整ったところで、ゆたかが身にしていたエプロンを外してたたみ、鞄にしまう。ゆたかはその鞄を持った。
「それじゃ、また来るね」
「ああ、いつでもおいで。鷹子さんにもよろしく」
「就職活動、頑張ってね」
ゆたかはそう言い残して慌ただしく部屋を出ていってしまう。その部屋には真鶴一人が残された。部屋の中が途端に虚ろに、寒々しく感じられる。真鶴はそれを忘れようとするかのように、愛娘の用意した夕食を口にした。一口一口を丹念に、丁寧に味わい、噛み締める。
「……ゆたか、お父さんは頑張っているよ」
真鶴の呟きは空気に溶けて消えていった。