第五話「ことらちゃんのばか」Aパート
内渚町の町中に小さなマンションが建っている。三階建てで一階につき五戸入っており、一戸につき三部屋程度の部屋数がある。鉄筋コンクリートなので日本の法律上はマンションと呼ばれる物件だが、部屋の広さは木造アパートと大差ない。少々狭いが比較的最近の物件で、住み心地はそれほど悪くはなかった。
そのマンションの三階、一番端の部屋。表札には「西泉」という名字が記されている。その西泉家の一室、そこは主にゆたかが使っている部屋だった。
子供部屋らしく学習机があり、衣装箪笥があり、本棚があり、ベッドがある。ただ、部屋の広さに比して荷物がかなり多い。複数の衣装箪笥があり、大分古い型の三面鏡が置いてある。本棚に入らない本が段ボールに入れられ、積み上げられている。床が見える範囲は畳一枚もないかもしれない。ベッドは二段ベッドであり、その部屋を使っているのはゆたか一人ではないことが見受けられた。
時刻は午前六時半。目覚まし時計のベルが鳴り、布団の中から伸びた手がベルを止める。布団から起き上がったゆたかはそのままの姿勢でしばらくぼーっとしていたが、やがて大欠伸を一つし、二段ベッドの上から降りた。
時刻は午前七時。ダイニングキッチンでは、ゆたかが朝食の準備中だ。制服の上にエプロンを着けたゆたかがフライパンで卵を焼き、レタスを手でちぎっている。リビングはダイニングとひとつながりになっており、そこには三台ほど机が並んでいる。三面の壁には全て本棚が並んでおり、そこには隙間なく本が――とは言ってもほとんど漫画だが――詰まっていた。机の上にはペン立てがあり、インク壺があり、執筆途中の漫画の原稿が置かれている。そして、床には毛布にくるまって眠っている鷹子の姿があった。
「お母さん、ごはんできたから起きて」
ゆたかが鷹子を揺り起こす。鷹子が身にしているのはタンクトップにジーンズだ。目を覚ました鷹子は大欠伸をし、まずは顔を洗いに行った。ゆたかと鷹子が食卓を囲んだのは少しの時間が経ってからである。
「原稿は進んでる?」
「悪くはないわよ。この分ならいつものシリーズは充分夏に間に合うから、全く新しいので一冊出そうかと思ってるの」
ゆたかがパンにべったりとバターを塗っているのに対し、鷹子がパンに塗るのはごくわずかだ。ただ喜んでそうしているわけではなく、鷹子にしてみればやむを得ずのことだったが。
「そうなんだ。でもわたしはあのシリーズが好きなんだど」
「わたしも自分では面白いって思ってるけど、ここしばらく売上が落ちてるからねー。新しい読者の開拓も必要じゃないかな」
なごやかな親子の会話と朝食を終え、ゆたかは登校の段となった。
「それじゃ後はお願いね」
「はい、行ってらっしゃい」
母親に見送られてゆたかは学校へと向かう。初夏の明るい日差しがアスファルトを照らしている。内渚町は今日も暑くなりそうだった。
生徒には身分がある。
日本の小学校・中学校・高校に通ったことのある人間なら誰でも知っているだろう。公的にはそんなものは存在しないことになっている。だが教師の目の届かないところに、校則が決して及ばないところにそれはある。確固として存在している。各々の生徒は自分がどの身分に属しているのかを把握しており、その身分に相応しい友人を作り、服装をし、行動を取る。その不文律を乱す人間に待っているのは容赦のない排撃だ。身分の違う人間同士はお互い決して関わり合いになろうとはしない。身分が上の者と下の者が関わりを持つ場合、それは概して「いじめ」と呼ばれるようになる。
近年ではそれはスクールカーストという名前で知られるようになっている。
さて。たつみはクラスが違うがことらとゆたかは同じクラスである。だが二人はクラスは同じでも属するカーストが違っていた。
「はい、それじゃ二人組作って」
ことらのクラスは体育の授業中だった。体育教師の指示に従い、女子生徒がペアを作ってバレーボールのトスやレシーブの練習をしている。バレーボールを手にしたことらは比較的仲のいいクラスメイト三人と集まっていた。
「じゃあどう組む?」
「じゃんけんで決めようか」
が、そのときことらの目にゆたかの姿が入った。ゆたかはペアの相手が見つけられていないようだった。左右を見回し、下を向き、また左右を見回し、また下を向き、をくり返している。ことらは呆れたようなため息を一つ付き、
「わりぃ、わたし抜ける」
とその三人から離れてしまった。その三人がことらの名を呼ぶのも構わずにことらはゆたかの元に駆け寄っていく。ことらがゆたかへとバレーボールを強く投げつけ、ゆたかはお手玉をしながらも何とかそれを受け止めた。
「練習するぞ」
ぶっきらぼうに言うことらに対し、ゆたかは嬉しげに「はい」と頷く。二人はバレーボールのパスの練習を始めた。
「その程度の球避けんな!」
「は、はいー!」
もっとも、ペアの練習というよりはことらが一方的にゆたかをしごいているだけだが。
「こるぁー! そんなへっぴり腰でバクと戦えんのかー!」
「ひーん、ごめんなさいー!」
本人達がどう思っているかはともかく、傍目に見る分には楽しげで微笑ましい光景ではあった。が、それを面白くなさそうに見つめている六つの目がある。ことらと最初にペアを組もうとしていたクラスメイト三人。彼女達が曰くありげな目をことら達へと向けていた。
……体育の授業が終わり、昼休みである。ことらはクラスメイトの三人に呼び出され、人通りの少ない階段の片隅へとやってきていた。
「あんたが抜けたせいでわたしが先生と組んだんだけど? いい恥かいたわ」
「どういうつもり? マジあり得ないんだけど」
ことらはその三人から吊るし上げを食らっているところだった。ことらはとりあえず下手に出て「ごめん、ごめん」をくり返した。
三人のうちリーダー格の少女は名を津幡兎美という。髪型や化粧、制服の着こなしでは常に流行の最先端を走っており、高校生や大学生との交際も噂されている。それでいて成績も決して悪くない。クラスの女ボスと言うべき存在で、クラスのスクールカーストの最上位はこの少女を中心に形成されていた。他の二人は、要するに津幡兎美の取り巻きである。
「いや、あいつガキの頃からの知り合いで親から面倒頼まれてるから」
と言い訳することらだが、その津幡兎美と他二名にはろくに効果がないようだった。
「あのぼっちのキモイのがわたし達より大事なわけ?」
「それならこっちにも考えがあるけど?」
ことらは「別にそういうわけじゃ……」と言葉を濁す。
「てゆーかさー、あのぼっちうざくね?」
「うん、うざいうざい」
「いじめちゃおっか」
「それいいかも」
目の前でいじめの相談が始まり、ことらはすっと冷めた表情となった。腹の底には冷たい怒りが蓄積されていく。
「――もちろんあんたにも協力してもらうけど」
「何か言ったか」
ことらの一言に津幡兎美と他二人は言葉を呑み込んだ。怒鳴りつけたわけではなく、ことさらに大声を出したわけでもない。だがことらが放つ冷気は彼女達を沈黙させるのに充分だった。
もし時間があったならことらと津幡兎美はこのときこの場で何らかの形で衝突していただろう。が、幸か不幸かもうタイムリミットだった。午後の授業の予鈴が鳴ったのはそのときである。
ことらが三人の囲みから抜け出して教室へと向かう。
「何あいつ」
とぶつくさ言う津幡兎美と他二名がことらから少し遅れて教室へと向かっていた。
……そして授業が終了し放課後。
「えー、本当?」
「でもちょっと怖くね?」
「大丈夫っしょ。それでどうする?」
津幡兎美と他二名はことらを無視し、三人だけで話している。ことらは鼻を鳴らし、彼女達から背を向けた。
「ゆたか、パトロールに行くぞ」
ゆたかに一声かけて教室を出ることら。「は、はい」と返事をしたゆたかがことらの後を慌てて追った。
ことらはゆたかと二人だけで内渚町の町中を歩いている。傍目にはただの散策にしか見えないだろうが、それはバクを探すことを目的としたパトロールだった。
「たつみは?」
「今日は剣道部の練習試合があるから抜けられないそうです」
「そうか」
……会話はそこで途切れ、二人の間には気まずい沈黙が流れた。前を歩くことらはどこか不機嫌であり、その後ろに続くゆたかは遠慮するように下を向いている。ただ、ことらは気まずいのを不機嫌そうな顔でごまかしているだけであり、一方のゆたかは「沈黙が続いているのは自分のせいだ」と思い込んでいた。ともかく、この気まずさを何とかしたいと思い、話題を探しているのは二人とも同じではあった。
「――お前のお袋さん、最近どうよ」
「え、あ、はい。いつもの通りです」
ことらの唐突な質問にゆたかはちょっとあたふたしながら、芸のない返答をする。さすがに素っ気なさすぎると思い、
「昨日も徹夜してたみたいです。スランプからは抜け出せたみたいで」
と付け加えた。ことらは「そうか」と頷く。
「漫画家だったよな。最近はどんなところに描いてるんだ?」
「商業誌ではもう描いてないんですよ。ここ何年も同人誌ばっかりで」
ふーん、と相槌を打つことらに対し、ゆたかは、
「今年の夏もシャッター前で売り子をやります」
と楽しげに、誇らしげに胸を張る。一方「シャッター前」という単語を聞いてことらが想像したのは、閉店した店舗のシャッターばかりが並んでいる寂れた商店街、いわゆる「シャッター通り」と呼ばれるような場所だった。
――寂れた商店街の、シャッターが閉ざされた店舗の前で露店を出して、「似顔絵かきます」と看板を出した鷹子がスケッチブックを持って佇んでいて、その横ではゆたかが無関心な通行人を相手に「同人誌は、同人誌はいりませんか」と一生懸命呼び込みをしている……ことらは脳裏でそんな光景を思い描いていた。
「大変なんだな、お前も」
「ええ、特に夏は暑くていつもすっごい大変です」
哀れむようなことらと楽しげなゆたかは、噛み合っているようで全く噛み合っていない会話を交わしている。この話を続けるのは可哀想だ、と判断したことらは違う話題を探すことにした。
「昨日のTV見たか? 『家政婦は見た! 決定的瞬間』」
が、ゆたかは「TVは全く見ないんです」と困ったような、曖昧な笑いを浮かべるだけだ。
「じゃあ夜は何しているんだよ」
「家事と勉強の他は、インターネット見たり漫画読んだりとか」
「最近どんな漫画読んだ?」
結局漫画かよ、とやや呆れたようなことらに対し、ゆたかはその質問にピラニアのごとく食らいついた。
「『野望の王国』が面白いです。雁屋哲原作、由起賢二作画の。竹熊健太郎と相原コージの『サルでも描ける漫画教室』の元ネタになってる漫画なんですけど、同じ雁屋哲原作の『男組』とかとは全く作風が違っていて」
ふと、ことらの表情が固まっていることに気付いたゆたかは慌ててそこで語りを打ち切ってしまう。ことらは怪訝な顔で問うた。
「……最近の漫画でそんなのあったっけ」
「いえ、ずっと昔の漫画です。この間お母さんが古本屋で買ってきたんです」
やや恥ずかしげにそう答えたゆたかが今度は質問をする。
「ことらちゃんは最近どんな漫画を読んでるんですか?」
「『ONE PIECE』と『進撃の巨人』は面白いな!」
ゆたかは「ああー」と納得したように頷いた。……が、それだけで会話を展開させない。ゆたかにそのつもりはなかったのだろうが小馬鹿にされたように感じたことらはちょっと苛立ち、口を閉ざしてしまった。ゆたかは自分の態度がよくなかったことに気付いたがもう遅い。「せめてこれ以上ことらを怒らせないように」と思って口をつぐんでいる。が、それは単に失敗をくり返すのが怖いだけのことである。
……沈黙したまま何分か歩き続け、二人はとあるコンビニエンスストアの前に差しかかった。幹線道路に面した、広い駐車場を持つコンビニだ。二人は曲がり角を近道してコンビニの敷地内を、その店舗の前を歩いていく。店舗の前では二人の店員がゴミ箱のゴミを片付けているところだった。
「何もたもたしてるんすか。客がつまってるんすから早くしてくださいよ」
「はい、すみません」
店員の一人は髪の毛を金髪に染め、いくつものピアスをした二〇代の若だ。もう一人は小柄で貧相な中年男だった。頭頂部はほぼ禿げ上がり、それを両サイドから髪の毛を持ってきて何とか隠そうとしている。いわゆる「すだれハゲ」、あるいは「バーコード」と呼ばれる髪型だ。髪型と全体のくたびれた印象から五〇代に見えるが、あるいはもっと若いかもしれなかった。中年男はゴミ箱を倒してしまい、ゴミを撒き散らしている。
「ああ、もう! ここはいいから中のレジをやってください」
「すみません、すみません」
その中年男はコンビニの仕事に全く慣れていないようで、息子のように若い店員にいいように顎で使われている。中年男は二言目には「すみません」をくり返し、ぺこぺことひたすら頭を下げ、それでも必死にコンビニの仕事を全うしようとしていた。
それはどこの町でも見かけそうな、特別珍しくもない光景だろう。ことらはその光景に特別関心を向けないままコンビニの前を通り過ぎた。そのコンビニから充分に離れたのを見計らい、
「リストラでもされたのかな。みっともねーよな、ああはなりたくないもんだよな」
ことらのそれはただの呟きであり、独り言だ。ゆたかに同意を求めたわけではなく、会話のとっかかりにするつもりもなかった。ゆたかがそれを無視してしまえばコンビニ店員の中年男のことなど、今日の夜にはことらの記憶からきれいに削除されていただろう。だが、
「――っ!」
ゆたかは学生鞄を振り上げ、それでことらの頭を殴りつけた。油断していたことらは鞄の直撃を受けてしまう。痛みは小さくとも受けた衝撃は小さなものではなかった。
「なっ、何すんだよ!」
ことらの問いを無視してゆたかは無言で鞄を振り回し続ける。いや、何も言っていないわけではない。言おうとしていないわけではない。
「……っ! ……っ!」
泣きわめきそうになるのを必死に堪えていて、まともに言葉が出てこないのだ。最初の一撃のように直撃はしなかったが何回か鞄がことらの身体をかすめた。疑問の念は怒りによって簡単に上書きされた。ことらは理由も判らないまま殴られて大人しくしているような人間ではない。
「てめえ!」
鞄の攻撃を左腕で受け、右手でゆたかを突き飛ばす。ゆたかは体勢を崩して尻餅をついた。さらなる追撃を加えようとすることらだが、
「……っ!」
ゆたかの眼光にことらが怯む。ゆたかは涙を溜めながらも怒りに満ちた眼差しをことらへと向けていた。
「何だよ、言いたいことがあるならはっきり言えよ」
ゆたかはことらの問いに答えなかった。立ち上がったゆたかは涙をぬぐい、ことらに背を向け、足早に走り去っていく。その場には憮然としたことらだけが残された。
「あのやろう、何なんだよ」
ことらはやり場のない怒りを吐き捨てることしかできなかった。