守護
◇◆◇◆◇
お婆様とアンに呼ばれ、実際に精霊を見たイリスはとにかく驚きの連続だった。
「じゃ、今から呼ぶわね」
そう言って、アンは不思議な調子をつけて唄い出した。
すぐ側でそれを聴いたイリスの肌はゾワリと泡立つ。染み入るような、遠くへ響くような不思議な歌と歌声だった。
余韻を残しながら引いた歌に、イリスは人知れずふぅっと息を吐き出し、フルッと小さく身震いした。
その歌は身体の中の何かを呼び覚ますような、魂を揺るがしてしまうようなほどの威力があったのだ。
アンは森の木々が繁ったほうをじっと注視していた。
イリスもつられて同じほうを見ると、なんだかそこにだけ水の膜が張られたように光の屈折率が違う。
見つめ続けていると、ゆるゆるとその空間が歪んだ。
これが、精霊……
そこに現れた大きな生き物にイリスは息を呑んだ。
アンは嬉しそうにその存在を迎えた。
「レイピア、おはよう」
人の背丈ほどある黒い大きな山猫は、ゆったりとした足取りで近づいてくる。
歩く度に筋肉が優美に動き、毛並みが日に照らされて艶々と輝いた。
見た目は動物と変わりがないはずなのに、それでも何処か特別な存在なのだと分かった。
爛々と光るアイスブルーの瞳は、新参者のイリスに注がれたままだ。
何よりイリスが驚いたのはその後だ。
「この子は“森に受け入れられし者”ですね」
…………猫が喋った。
アンの身体に軽くすりよりながら、その精霊は平然と口を開けた。
イリスはこちらを観察するように見てくる黒い山猫を、まじまじと見返すほかなかった。
◆◇◆◇◆
「森に受け入れられし者?あ、私達がやった試練を受けた子って意味?」
咄嗟に質問したのはアンだ。
イリスはまだ興味深くレイピアと呼ばれた黒い大山猫を観察していた。
黒山猫はその問いに尻尾をゆったりと振りながら答えた。
「いいえ、アン。それは後天的に刻まれたあの呪のことでしょう?私が言っているのは彼女が持つ先天的な森との相性のことですよ」
イリスの手首にある濃い緑の紋様を見つめながらレイピアは言った。
ようやく精霊との初対面の驚嘆から我に返ったイリスも、自分のことを話されているのに訝しげな視線を一人と一匹に向けた。
「精霊たちの間では、イリスのような者を“森に受け入れられし者”、というのか」
ずっと黙って見守っていたお婆様が口を開いた。
どうやらそれに少しだけ思い至る節があるらしい。
「久方ぶりです、エルフの長。ええ、そうです。精霊でない他の獣たちも、言葉が喋れればそう言うはずですよ。彼女はその中でもこのホロの森に気に入られている部類でしょうね」
「ふむ。やはりそうか…」
イリスは焦った。
なんだか私のことなのにさっぱり意味が分かっていない。
隣ではアンも首を捻っていた。
「あ、あの!森に受け入れられし者って、どういう……?」
「お主は先日、わしに言うておったな?小さい頃から自主的に森の中に入っても迷ったことがない、と。だからわしらが森の中を通る試練を申し渡しても、あまり悲観せずに受けた、と。」
イリスは首を縦に振った。
試練の道中、獣や魔法生物に会うことは恐れたし、エリスの花がある峡谷や試練自体も上手くこなせるか不安はあった。
しかし、こと森の中を歩くことに関しては、まったくといって良いほど心配していなかったのだ。
峡谷までの地図も貰っていたが、森の中ではしばしば目印になるモノが見分けにくく、迷いやすいはずなのだ。
けれど森の中で迷うという状態になったことがないイリスは、そういったことを愚痴る村人の話があまり理解できなかった。
森はいつだって正しい道を教えてくれるのに、とひっそりと心の中で思っていたのだ。
あの頃は変に悪目立ちしたくなかったし、愛想を振り撒いていたから、表面上は笑いながら聞くだけにとどめたが。
驚いてこちらを見たのはアンだった。
「えっ?森の中で迷ったことがないの?よく薬草だって採りに行っていたんでしょう?」
「そうは言ってもエルフ達に会えるほど深くには分け入ってきてないですよ。他の人よりちょっとだけ奥に入ってたぐらいで」
「今回、このエルフの里という森の奥へ来ても、方向感覚が狂わなかったのでは?」
レイピアが話しかけてきて少しだけ驚いたが、イリスはまたも頷いた。
「ええ。そうだと思う。というより……方向感覚が狂うって、東西南北が分からなくなることよね?」
その感覚がよく分からなくて問えば、キュッとアイスブルーの瞳を細めてレイピアはガウと吼えた。
猫って吼えるの?
と疑問に思ったけれど、今のは笑ったのだということは伝わる。
「そうですね。酷く方向感覚が狂うと、体調まで崩す者もいるんですよ」
声に笑いを含ませながらレイピアは言った。
なんとも感情豊かな精霊である。
いいな、と素直に思った。こういう精霊が友人であると言えるエルフ達が羨ましい。
「精霊は“森に受け入れられし者”と、見ただけで分かるのか?」
「精霊だけでなく、森に住むほとんどの獣たちも分かると思いますよ。そういった者を襲うことで後々森から報いを受けることがありますからね」
「あ、エルフの中にもある『この獣は狩っちゃいけない』ってなんとなく解る感覚のこと?」
アンの指摘にやはりレイピアは目を細めた。
「それです。これは獲物にしてはいけないという感覚に逆らうと災難が起こる、という伝承も確かあるでしょう?」
「あるわね。狩らざれば善き日っていう諺もあれからよね。今では無闇な殺生はするなって意味だけど」
アン達の話を聞きながら、これまでこれといった獣に襲われなかったのはその為だったのか、とイリスは思った。
“花喰い”が襲って来たのはその感覚を凌ぐ本能じゃないか、というのがお婆様の見解だった。
それぞれが納得していると、パンッパンッと手を叩く音がした。
「義姉上達、話し込んでないで練習した方が良いんじゃないですか」
その音に驚いて振り向けば、いっかな始まることのない歌の練習にレインが呆れたようにこちらを見ていた。
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