8 山中(3)
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三十分ぐらいをヤブ蚊と遊んで過ごした。そうこうしているうちにリズベルが尾根を通りかかるのではと淡い期待があったのだ。しかしこれは完全に失策。暗闇の中で人の通りが満足に見られるわけがなかった。木々に遮られているのもあるが視界が精々五メートル弱。向こうが火でも持っていない限り無理な話だ。もっとも期待してなかったので落胆も少ない。休憩と足のマッサージ、それから周辺の野草観察が目的の大部分だった。下と比べて植生にかなり変化がある。これはニホンハッカではと思われるハーブも発見した。メンソールの性質が薄くさほど清涼感を鼻で得られないのは、自生のものだからか、それとも俺が知っているニホンハッカとはまた別物だからなのか区別がつかなかった。なにせ異世界。多元宇宙論の信奉者に一目ぐらいおいてやって良い気分なのだ。もちろん半分はやけくそだ。
足音を殺して森を抜け、再び台地状に戻った。周囲がかなり広い。富士山のような成層火山かと思っていたが違うみたいだ。いわゆる溶岩円頂丘。ドーム状の台地になっている。後ろを気にしながら二キロぐらいを真っ直ぐ進んだ。ごつごつとした岩が目立ち始めている。大小様々であり、それがまた少なくなって変わりに緑が出てきたと思ったら急に勾配に強くなった。下りになったのだ。
はじめ錯覚を疑った。ぼんやりとした赤いものが木々に現れ消えていったのだ。なんとなく気になって視線の角度を変えたり位置を移動して遠方に目をやった。疑いが疑いであることを確信したかったのだ。それがもろくも崩れた。火が列になっている。松明なのだ。すでにかなり近い。それがこちらに向かっていた。
咄嗟に伏せて、両手両足を使って獣みたいに後退した。距離を取ってから左右を見回す。隠れる場所がない。勘で右に走った。山の頂点から見下ろした感じ、左のほうがなだらかな地形だった。ならばあの火の手もそっちを通ってくるかもしれないと考えたのだ。この闇だ、本当にそうだったのか自信があるわけではない。だが依存できる見解に一も二もなかった。
へその高さの岩陰に滑り込んだ。しゃがみこんで岩に背中を押しつけ、呼吸を支配下においた。その途端に疑心が浮かんできた。人間か魔族、どちらであるかという疑問。どちらであってもおかしくないのだ。
じりじりと時間が過ぎていく。堪えきれず何度も顔を出しかけては自制した。まさか一個一個の岩陰を注視しながら行進しているとは思えないが、それはあくまで俺の願いなのだ。彼等の目的いかんによっては探索を兼ねた行進ということも十分あり得る。それに俺が潜んでいるのはこの辺りで一番大きな岩だった。高さこそ一メートルあるかなきかにしても、横幅がばかに広く暗闇の奥まで続いている。極端に背の低いリムジンがどしんと構えているみたいな形。隠れるにはうってつけや過ぎないか、いくら焦ってたとしても他になかったのか、実際あとちょっと走ったところにある岩陰のほうが、今居る場所を目くらましにして都合が良かったのではと妄想に怯えている。
そして足音を認めた。
無言ではなかった。最初こそ意味の分からない音の羅列で、もしや言語変換の魔法が切れたのではと考えたが、近づくにつれそれは明確に意思を持った言葉となった。
「馬鹿かおまえ!」男の声だ。背後。近い。おそらく三十メートルを切っている。「殺すんだよ、生かしておく理由もねえだろう」
「身代金はせしめないんですか」
別の声だった。しかし二人だけではない。足音が五人分だ。
「おまえちゃんと話聞いていたか? 殺すだけで良いんだよ」
「じゃあ今回は楽な仕事ですね」
「そういうこった。斥候はもう出しているし、あとは近くまで行って様子を見つつやっていけばいいさ」
連中の声が遠ざかっていく。俺はその場で腹ばいになった。腕を使ってそっと這いずり、そっと様子を窺ってみる。空中で咲いたような火が、おぼろげに輪郭を残して前へと進んでいた。ほとんど上下がなく、それも進行速度が一定なのだ。山の歩きに慣れている。だとしたら尾行は危険かもしれない。
まるで誘蛾灯だ。俺のリズベルへの評価である。といっても引き寄せられた虫たちにも各々理由があってなのだろう。別に彼等の肩を持っているわけではない。俺自身が虫の一匹なのだと自覚しているだけだ。
彼等が去った後も俺は岩陰に隠れたままじっとしていた。わずかにある星光すらも雲が隠したのを認め、やっと立ち上がった。
元の山頂に戻って裾野を見下ろし、別働隊が居ないのを確認した。さて、どうしたものか。
鞄から水筒を取り出して唇を湿らした。飯はまだ口をつけていない。腹が減っていないのもあるが、いずれカロリーを必要とする場面が来ることを恐れているのだ。水もまだ半分以上残っている。しかし元々の貯蔵量が少ないのもあって、夜明けには飲み干してしまうだろう。山に籠もるつもりで準備したわけではないのだから、当然のことであるし、俺としても持久戦は頭にない。つまり夜明けまでにリズベルを見つけ出すことができるか、もしくは日の出を見てから諦めるかといった算段だ。まあ自分の務めだけは果たす。
来た道を戻ることにした。五人組の動向が気になる。早足になって彼等を追った。火明かりという印が前方でぼうっと浮かんできた。それは見る者に安堵や慰めを与えるべく存在であって、断じておぞましさのようなものを炙り出す明かりであってはいけないのだ。だがどうだ。半キロも距離をとってこれ以上近づけないのは、俺の中で恐れが具現化したからに他ならない。あれが魔族である可能性を危険視している。いや、仮に人間だと判明しても近づけたかどうか。何よりもの恐れは女の身であることなのだ。俺は自分の足音を気にしながら彼等についていった。
地面の様子からそろそろだと思った。すると前を行く火が点滅しているみたいに途切れと途切れとなった。森林地帯に入ったのだ。そこから下りになる。俺は駆け足になって距離を詰めた。木々が姿を隠してくれるのを好機に、かなり近くまで寄ってみた。距離が二百メートル。そこから更に五十メートルを三十分かけて削った。遠目には火こそはっきり見えても、照らされて浮き出すはずの姿がかすんでしまっている。もう少しだけ近づいてみようか。危険を冒す価値はあるのだろうか。まだ足音が聞こえるほどではないが、乾いた枝を踏んでしまったらどれくらい響くかわからない。一度足を止めて後ろを振り返り、闇が広がっているのを確認してから彼等との距離を縮めた。再び振り返る。行く。振り返る。
心臓が口から飛び出そうなほど緊張していた。心身をすり減らしてもまだ彼等の声は聞こえない。
連中の足取りに迷いがなかった。だが道を知っているというふうではない。とにかく下に、といった感じで一列になって乱暴に進んでいる。密集して歩いているみたいだ。挙げられた三本の松明がほとんど一塊になっている。先頭の火が左に揺れると、間もなく二本目三本目も左に揺れていく。後ろを振り向くような素振りもなかった。尾行されているとは夢にも思っていないのだ。
そのうちかすかに声が聞こえてきた。今までまったく聞こえなかった物音だったので、無意識に距離を詰めていたのかと俺は足を止めた。だがどうも彼等の声量の問題のようだ。笑っているのだ、ゲラゲラと。まるで代弁するかのように炎が揺れていた。その炎が落ち着くと、地面からすこしの位置になって固定された。動く気配がない。休憩に入ったようだ。
十五分が経過した。何か話し込んでいるようだが会話の中身は聞き取れなかった。時たま笑い声が聞こえるぐらいで、特にこれといった動きがない。もしかしたらここで夜を明かすつもりなのかもしれなかった。松明の火が消えて、焚き火に変わっている。今がだいたい深夜一時か二時か。時計がないのが厄介だ。普段から身上を示すものを極端に避け続けてきた結果、異世界での道具がナイフ一本とは救えない。用心が仇になるとは思ってもみなかった。頼みの綱のマグナムもランダルに取られたままだ。これはいずれ奪い返さねばならない。
俺は老木の影に寄ってスカートを膝の高さまで持ち上げ、右手を臑に這わせて状態をチェックした。ショートブーツなので臑まで保護してくれないのだ。歩いている最中、草花でスカートがめくれ上がり何カ所か傷を作ったかもしれない。ひりひりとした痛みが暗闇の中で色濃く残っている。その痛みがいや増すかのように炎が猛っていた。
野営地で影のいくつかがごろんと寝転んだ。一人だけが残って火に枝を与えている。見張りなのだ。やはりここで朝を待つようだった。
俺はナイフを取り出して老木の根に矢印を残した。それから細心の注意を払って彼等から遠ざかる。その途中途中でやはり老木にやったような印をいくつか作った。ある程度距離が広がり、炎を中心にして緩やかにカーブしながらも印を数カ所作った。一周とはいわないが半周ちょいぐらいに目印がある。今まで通った地形は頭に叩き込んでいるが、それだって完全ではない。目に見えるものとして留めておきたかった。
焚き火が見えなくなるまで気が抜けなかった。かといって視界から火が消えても恐怖の形が変わるだけで、特別に何か違うこともないのだ。
連中はひとまず置いていいだろう。野営の支度までしてすぐに移動するとは思えない。それよりも彼等とは別に誰か居るかもしれない。リズベルの探索を続けたいという気持ちもある。
膝の高さまである笹が右から左へ流かされている。風が葉っぱを舐めるようにして通り過ぎていくのを見ていた。森が寝静まっている。草がかさかさと風に揺られるぐらいの音。静かであった。
遠慮がちな動作になって笹を突っ切った。摺り足になっている。できるだけ笹を踏みつけないようにしているのだ。足が地面から離れる度に、笹がぴょんと跳ねて明日の太陽を待っている形になった。これなら足跡から追跡されるのを心配しなくても良さそうだ。
しばらくすると見覚えのある窪地が見えてきた。しかしすぐには近づかなかった。その場に伏せて匍匐前進になり、笹のぎりぎりまで進む。暖簾をくぐるように柔らかに手を前に出し笹を掻き分けた。人影はない。犬の姿もだ。勘違いしていたのだろうか、魔族と出会った場所だと思ったのだ。
それでも気安くは立ち上がれなかった。脳裏に魔族の赤目がちらついている。なぜああまで恐れていたのか今でも説明できなかった。暗所の中で冷たい蛇が首に巻き付いてきたかのような、発作的な戦慄を覚えている。
俺は立ち上がろうとした。いつまでも恐怖に囚われ続ける趣味はない。だが後ろから迫り来る物音に身が強張った。聞き違いではなく足音。一瞬も躊躇できない。何者か考察する手間も惜しみ、俺は慌てて草の深いところに転がった。
即座に声が聞こえてきた。
「本当に見たのか?」若い男の声だ。疲れ切っているのがわかる。「見間違いだろう」
「そう言われると自信ねえな。何せ一瞬だったんだ。だけどよ、もしそれがそうだとしたら、大手柄だぜ」歩きながら話している。所々で細かい息切れをおこしていた。
「そりゃ手柄も手柄さ。いつまでも下っ端じゃいられねえからな。だけどよ、本当にこの辺りに居るのか? 時間が時間ってのもあるが、人影すら見ないぜ」
「魔法使い様が言うには、まだ魔法発動の残滓があるってよ。魔族だったら正確にわかるんだろうが、同族相手だと探知が難しいって話じゃないか。気長にやるしかねえよ」
「それなんだが、どうも俺はあいつが信用できないな」
ガサガサと笹を分ける音が近づいてきた。本当は気づいているのではなかろうか。油断を誘っているのでは? そうやっておいていきなり飛びかかってくるのでは?
「そりゃあれかい、嫁さんがやたらウォーゲル様を褒めているのに嫉妬してるのかい」
「ああ?」少し剣呑な口調になった。それだけでなく足が止まった。声がほぼ頭上から聞こえている。「てめえ、なんだってそんなこと知ってるんだよ」
「そりゃおまえさんが酔っ払うたんびに言ってるからだよ」こちらも足を止めた。距離が幾ばくもない。
「別にあいつは関係ねえよ。ただウォーゲルの野郎、元はたいしたことねえどこにでも居る魔法使いだったんだ」
「そういえば幼なじみだったな」乾いた声で笑った。
「ああ、ガキの頃は俺の方が上手く魔法を扱えたぐらいさ。二十歳越えたぐらいであいつの方がやれるようになったが、正直俺よりもちょっと上って程度で、それにそんときの俺はもう自分に魔法の才能がないと諦めていたからな」
「ならそっから伸びたんだろう」
「馬鹿言うなよ。魔力ってのは生まれたときにほぼ決まる。そりゃ少しは上がりもするだろうが二十前には限界が来るってのが常識だろ。後は魔力の形成や放出をどこまで効率化できるかだ。だけどあいつは魔力量そのものが増えてったんだよ。おかしいと思わないか」
「そこらへんにしとけよ。上司批判は出世に影響するぜ」
「知ったことか」忌々しげに笹を蹴り飛ばした。
その足が草の隙間から見えたのだった。血が逆流した。狼狽して腰を浮かしかけ、しかし動かないほうが安全なのだと肉体に待ったをかけた。笹を押しつぶした体勢のため、下手に体の位置を変えられない。動けば必ず音が漏れる。足が痺れ、筋肉がごわついているのを他人事として扱うしかなかった。真上から見たら絶対に気づかれるとしてもだ。
「わかったわかった。これが終わったら俺の奢りだ。愚痴はそんときにたっぷり聞いてやる。だから冷静になれよ」
「……たらふく食うぜ」
「任せとけって。ちょっとした臨時収入があってな」
「なんだよ、良い儲け話があるのか?」また足が動いた。踵を俺の顔近くにやったのだ。片割れに向き直っている。「俺にも一枚噛ませろよ」
風が出てきた。笹が激しく波打ったのがわかった。まずい、いつまで雑談するつもりだこいつらは。心臓が早鐘を打ち続けている。呼吸のなんと疎ましさか。
「そのうちな」軽い感じで返答した。「それよりも今はリズベル様さ」
「ああ、しかし何だ、魔力がずば抜けて高いってのも考えものだよな」
「同情はするがね。だけど魔法の才能がからっきしない身としては羨ましくもある」
「あ、悪い」
「別に気にしちゃいないさ。今時魔力がないってのも珍しくないだろ」
「まあ、いずれ人類から魔力が消えていく、っていう学者も居るよな」
「それほど恩恵を受けているわけでもないし、そうなっても構わないがな、俺は」
「といっても上の連中はそうは思わないだろうよ」吐き捨てるように言った。
「そりゃそうさ。魔法使い一人の存在で戦局が傾くっていうぐらいだからな。どの国も優秀な魔法使いの確保に必死だよ」
「わかっているさ。だけどよ、その責を子供に負わすってのはどうにも嫌だね。……うちのやつの腹見たろ? もう少しでガキが生まれるんだ。そのガキを食わしていくために、俺ぁいったい何やってんだろうな」あーあ、とここには居ない誰かに聞かせるようなため息を吐いた。「そろそろ行こうぜ。他の連中に見つかってサボっていると思われちゃかなわねえ」
彼等は来た道に戻るのではなく、窪地を突き進んで向こうの山に入っていった。同時にまた風が強く吹いて笹が倒れていく。まったく逆らっていないのだ。風をあるがままに受け入れている。だからこそ起き上がり小法師みたいにすっと立ち上がる。
俺は寝返りをうって空を見上げた。雲がもうかかっていなかった。
野営をしている男達と先刻の二人組、どうやら別の目的で山中に足を踏み入れたようだ。片や殺し、片や確保。なぜ食い違いがでたのか。野営の男達の正体が実は魔族で、殺すという言葉の意味が、食事と同義になっているからとしか思いつかなかった。だが赤目の男に感じたような重圧感が彼等にはなかったのだ。もっと近づけば違ったのだろうか。
山中にいくつもの勢力が入り交じっている。俺とランダルを含め、その全てがリズベルを核とした歪な構造に組み込まれていることに、ある種のおぞましさを感じていた。大の大人がまだケツの青い娘っ子に夢中になっているのだ。先ほどの男ではないが、いったい自分は何をやっているのだろうという後ろめたさに打ちひしがれている。一度ランダルと意見交換したほうが良さそうだ。俺は長い時間をかけて立ち上がり、何かに追い立てられるように下山した。