7 山中(2)
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平然とは見返せなかった。視線をずらさないのに決意がいり、息を継ぐのに努力が必要だった。腰を落とし、身構え、そしてナイフをあえて緩く握ることでほぐそうとしているものがある。意識と無意識の狭間で突撃の文字が躍っているのだ。確かに一対一にまで持ち込めた。赤茶と比べ白犬のほうが凶暴であるものの、それはおそらく狂犬病がための症状に過ぎない。身体能力では白犬が劣るのは明白。怖いのは噛傷からなる感染だ。
俺がやや優勢。そうと見るに足る根拠があり、それゆえに過当な傲慢がある。恐れているのが自意識なのだ。冷静さを取り戻さなければならない。行くだけが道ではないはずだ。
摺り足になって松明に寄った。白犬の反応を確かめたのだ。視線は依然こちら、体を右に左にやるだけで詰めてくる気配がなかった。その動きもすぐに止まり、対峙し、白犬が首を回して後方を見回した。その次の瞬間に俺も気づいた。草花を掻き分ける足音を聞いたのだ。耳を疑った。こんなところに人が居るはずがないのだ。ところが次に咳払い。新たな野犬の可能性が消えていくらかほっとした。ランダルだろうか。だとしたら好機に違いなかった。あいつが長剣を差したままで山に入ったのを見ているのだ。だが暗闇から現れたの見知らぬ男だった。
理解していない。まだ幼さの残る顔をきょとんとさせている。
「なんだ、違ったか」
男がさりげない声で言った。独り言のようでもあるし、俺に話しかけたようでもある。
逃げろ、という声が出なかった。
人間だ。身長が百七十半ば、体重が七十後半ぐらい、マントを羽織っているだけで防具はおろか山刀、松明も手にしていない。まるでちょっとそこまでといわんばかりの軽装なのだ。迷い込んだにしては顔に悲壮感がなく、暗い山中で自分以外の人を見たというのに上機嫌になったわけでもない。腫れぼったい目でいかにも気怠そうだ。どことなくユーモアが漂っているのは場違い感からに他ならない。さしてこちらを気にした様子もなく、彼はため息を吐いたのだった。
そこが俺の限界だった。たかが息を吐いたという事実に精神と肉体が分離をおこしかけていた。地面と設置した足裏が唯一の膚ざわりとして、かろうじて現実感を持続させている。知らず知らず後ずさり、足が少しでも離れると、それは自然に溶けていって感覚から消えてしまう。確かに俺は今混乱している。混乱を知覚することで認識を首一枚残している。発狂、恐慌、沈鬱、本当は何でもいいから自分の檻にこもって目と耳を塞ぎたいのだった。
肉体がふるえていた。寒さが原因であったならどれほど救われるか。内臓のあちらこちらで猛烈な収縮がおきている。頭の中でがんがんと打ち付けるものがある。根のところで誰かが悲鳴をあげている。はっとして懐に手が伸びた。銃を取りだそうとしたのだ。冷静さの欠片も残っていなかった。
歯をがちがちと音立ててあれが何者なのか懸命に考えた。とにかくこの場はまずい。俺が居て、白犬が居て、正体不明の男が居る。そしてここはどこだ。何を考えている。山だ。山中に決まっている。そんなことはどうでもいい。そうだ、俺はリズベルを探しにきたのだ。くそ、あのガキ。ランダルはどこに行った。あいつはこの世界の人間だ。答えを持っているかもしれない。あれが何者なのか。何者か? 馬鹿な、まだ認めようとしないのか。言いやがったな、見れば分かるだと、……男がこちらに目をやった。赤。見間違いではなく赤い目をしている。射すくめられているということが、ただそれだけで事象がぐにゃりと歪んだ。サイコロを振って出た目が七どころではない。俺の首を放られたみたいなイメージが脳裏で転がっている。
逃げるのだ。敵いっこない。だというのに足が動かなかった。なんだこの地面は、土が手になっている。俺の足首を掴んでいる。
「こっちだと思ったんだがなあ」男が言った。決して高くない声量が俺の体に轟いている。それはぶつかるごとに強くなる波紋だった。皮という側を突き破ろうとしている。「まあ小腹が減ってたんだ」
男が一歩寄ってきた。だが俺は一歩も下がれない。二歩目を刻んで立ち止まった。俺から目を切る。向かった先が白犬。いつからだったのか、最初からそうだったのか、白犬が後ろ足に力をこめ、喉を震わせ威嚇していたのだ。
飛びかかった。いや正確には飛びかかろうとして地面を這い、フェイントをくれてやってから飛んだのだ。一瞬の交差。白犬が着地するやいなや、男を見据え、そののち暗夜を切り裂く遠吠えをした。長くは続かなかった。再び男に向かって吠えたのだ。
しばらく気づけなかった。だが男が指先で摘まんでいるのを口のあたりまで持ち上げるのを見て、やっと恐怖が追いついてきた。中指と親指で挟み込んで眼球がある。片目を抉られたのだ。男が実際に舌なめずりした。そして、まるでアーモンドでもほおばるような気楽さで口に放り込んだ。
何もできなかった。呼吸をするだけで精一杯なのだ。だが白犬は違った。闇よりも深い眼窩の奥で、血とともに滲み出る報復の意思を認めた。まったく絶望していない。露ほどもだ。
勇気を分け与えられたのではない。むしろ怨嗟があり屈辱がある。不義理をしたとは思わないにしても、不名誉なのは間違いなかった。名折れ、口惜しさ。歯ぎしりは恐怖ではなく失った面目から。そして俺は脱力して構えた。ここまではやれるのだ。前に進め。
最初だ。はじめから一歩など贅沢は言わない。たった一ミリで良いのだ。意思伝達のライン上で恐怖が居座っている。まずはこいつを振り払わねばならない。命令が末梢神経に伝わるまでにいくつもの障壁があり、それをひとつひとつどかしていくという気の遠くなる作業が必要だった。つんのめり、押し戻され、横からも邪魔され、それでも俺は右足をじわっと前に進めて応戦のスタンスを取った。膝をやや曲げ、ナイフを強く握る。眼球だけを動かして見回す。どこから攻めるべきか、そして逃げるとしたらどこからか。思考に撤退もあるのだ。これを冷静であることの証拠とする。
男が喉を鳴らした。飲み込んだのだ。まさか眼球にそれほど油分があったわけでもなかろう、唇がてかてかと光っている。それを舐め回すと、男は肩を落として力がすっと抜けた体勢で向かってきた。力みも気取りもない。獲物ではなく食料を見る目。近づいてくる。待ち構えた。距離が五メートルになって、四メートルになって、次に右足を持ち上げた瞬間を俺は見逃さなかった。
一息で空間を詰めた。ナイフを首に突き刺そうとして届く距離。視線を外さず目を見つめたまま、首ではなく股の内側を切りつけようとした。動脈を狙ったのだ。これが人間でないにしても二本足の生態に賭けた。
空を切る。避けられたのだ。まずい、反撃がくるぞ。備え、男の肩を見やった。左が動く。舐められているのを直感した。目のきかないほうではなく、俺の網膜にまざまざとひけらかしてきたのだ。首を掴んでこようとしたのを身を沈めて避けた。同時に男の手首を切り上げようとして、足がずるっと滑った。無茶な体勢をしたのだ。勝負を急いでいる。毛編み人形のほつれが歯車に巻き込まれたみたいに、とめどなく体力が失われているのだ。殺し合いが始めてでないにしても、これほどの近距離は滅多にない。俺の息づかいが相手に伝わるのが不気味だった。そこから全部を読まれてしまうのではという無意味な脅迫概念がある。
足場を確かめてる余裕もなく横に飛んだ。足を止めない。そのまま男を背中に置いて藪に突っ込んだ。直前、端で白犬を見た。目が合い、しかし先に視線を外したのが白犬だった。もうこちらなど見向きもしない。白犬の奮闘を祈る気分にはなれないにしても、数秒でも足止めしてくれることを願い、俺は走り続けた。敗走したのだ。
藪が姿を隠すほど高くはない。道なき道をゆるやかに曲がって隣の山に逃げ込んだ。前へ前へ、倒れ込むようにして足を運ぶ。頭を低くして体積を可能な限り狭くした。この際足音は捨て置く。物音を極限まで減らす努力をするよりもとにかく離れたいという気持ちが強いのだ。闇のなかに更に深い闇が佇んでいて、そこを目印にして腕で十字を作りながら突き進む。痛くなければ茂み、痛かったら樹木という案配だ。一度逃げたからにはそれしかないのだ。後ろは見ない。ただし耳にだけは神経を総動員させた。尾いてきていない、と思う。
二百メートルぐらい駆け上がってやっと落ち着きが戻ってきた。そこから斜めに登っていく。空からの光がちょこっとあるぐらいだがそこそこ物が見えるようだ。夜目に白や黄色の花がぼんやりと浮かんでいる。足は止めなかったが走るのはやめた。いざという時に備えて体力を温存することにしたのだ。浮き足立っているのを押さえこみ、息を整える。吸気排気の音が感覚に組み込まれて消えていく。そうなると自分の足音が耳障りになってきた。数歩行っては耳をすまして辺りを探った。少しでも物音を聞くと俺は即座に伏せて、それが風に煽られた木末のささやきだと確信できるまで動かなかった。前進して、立ち止まり身を縮め、それを馬鹿みたいに繰り返すうち完全に気持ちが蘇った。
山の歩き方も思い出してきた。いや、思い出してきたというよりは肉体が山を受け付けつつある。無くしたはずのパズルピースみたいなもの、それがいつの間にか俺のポケットの中に紛れ込んできたみたいな感覚。過去と比べて力も体力も劣ってはいるものの、堅さがとれて運転がスムーズになってきたのだ。汗が滲み、疲労が積もり、だが言うほど苦しくもないのだ。心中で何か脈打っているものがあって、それが気力となっている。
反すうする余裕が生まれてきて、投げ捨てた松明の火が燃えっぱなしになっているのを思い出した。風向きによっては周りに火の粉が飛んで移るかもしれない。格別な自然愛護の精神は持ち合わせていないにしても、近辺への影響に気を配れるぐらいの社会性はあるつもりだ。そして残念ながら頭蓋の中に脳もある。危険を冒してまで火の後始末に向かうことはなかった。
そんなことよりもあの男の正体と目的が頭の大部分を占めていた。あれが魔族だとしたら、「こっちだと思った」という発言が気にかかる。リズベルの魔力は今も漏れているのだろうから、それを辿ってきたのではないだろうか。その道の途中で俺が居たとは考えられないだろうか。だとしたら男が現れた場所とその足の向きから、リズベルが居るのはこちらの山ということになってしまう。これに対する反論としては、行く途中で犬の鳴き声が聞こえ、向かってみたという説。俺や犬にも魔力というものがあって、それを知らず知らず垂れ流していたという説。
こんなことならランダルに魔法についてちゃんと聞いておくべきだった。しかし今更いっても遅いし、こんなことにでもならない限り、魔法などという胡散臭いものに真面目に取り組んでいたとも思えない。
どうするか。方向としては三つある。こちらの山を中心にリズベルを探す。元の山に戻って、目的通り登頂を目指す。下山して朝を待つ。心境としては下山寄りになっている。だがこれを選び、俺が安全な場所で時間を潰していたと知られればランダルの信用を失うだろう。そうなったとき俺が元の体、元の世界に戻れるかどうか危うくなる。元の山に戻るのは下策に違いない。あの男が留まっていないにしても、鉢合わせたら今度こと詰みだ。
消去法でこの辺りを探索することにした。木々が鬱蒼と茂って険しい分、こちらの方がマシかもしれないという思惑もある。結局どれを選んでも余り物を食わされている感じは消えないのだろうが。
あえて急坂の上りを進み、背の高さぐらいの小規模な崖を木の根を伝って登った。まともな人間なら尻込みする路を選んでいる。こんな経路を選択しているのは自分だけだと信じた。つまり先ほどの男と出くわさないのを、男の心理に縋っているのだった。しかしそれだけではない。肉体にお伺いをたてているのだ。何が出来て何が出来ないかを見極めようとしている。
およそ百五十メートルも登っただろうか。耳に遠吠えを聞いた。生きていたのかと思いまさかと否定した。男が白犬を見逃す理由がない。しかしそうまでして殺す必要もないはずだ。どっちに転んだかわからない以上、俺は白犬にひとまずの冥福を祈った。
山の尾根筋に出るつもりで高度を上げていった。右よりも左が傾斜が強いと見るや迷わず進んだ。そのうち周囲の立木がまばらになってきた。するといきなり目の前が開けた。台地状に出たのだ。そこでやっと休憩を取る決意をした。ただ暗闇とはいえ周りに身を隠せるものがない場所は危険だ。来た道ではなく別のルートを使って森に戻った。倒木が折り重なって道を塞いでいるのを発見した。これに腰を落ち着かせることにする。半分バリケードになっているので、後方の警戒を僅かとはいえ緩めることができるのだ。
煙草を口に加え、鞄から火打ち石を取り出した。実際にこれで火を点けてみるのは始めてだった。音がするかもしれないが、どうしても吸いたかったのだ。ほくちをひとつまみ石の上に乗せ、火打金で打ち付けようとした。しかし何度やってもうまくいかない。湿っているのか、当たりが悪いのか、苛立ちながら打ち付けていると、自分の手が震えているのに気づいた。生唾がこみあげ、鼻からひゅうひゅうと空気が漏れている。今になって恐怖が復活したのだ。不安を、肉体で咀嚼している。俺は自分の細い肩に嫌悪を含ませながら抱いた。そうすることが慰めでないと知りながら、そうすることしか出来ない自分に忌避感を募らせて。これほど男を、生者を怖いと思ったことはないのだ。いつだって俺を蝕んだ悪意は死者からのものだ。それだって夢に見るだけで、夜があければ消えていくのだ。今この瞬間もあの男が生きていることが不快だった。殺さねばならない。殺される前に。