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ミスキャスト  作者: 高橋多平
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6 山中(1)

歩いているさなか、腰に差したナイフを抜いては仕舞い、それを繰り返した。練習しているのだ。背が小さくなった分腰の位置も下ったが、比率としてはさほど変わっていないはずだ。少し足が長くなったかな程度。嬉しい誤算であるが、これを素直に喜んでいいものか。第一その少しの差違が緊迫状態でどのような作用を引き起こすか分からないのだ。よって繰り返すことで練度を高めるしかない。ナイフを取り出してはこれが五百七十六グラムの重さだと強く意識した。記憶より重く感じるのは決して悪いことではないはずだ。筋力が落ちたのだから当然のことで、むしろそうと気づけるのは客観視できるからだと前向きに認めた。


なだらかな地形であるものの、では歩きやすいのかと問われればしかめっ面が返る。笹類に始まり名も知らぬ雑草が隙間を詰めて腰の高さまである。いずれも俺の知識にはない草木だ。ブーツでかき分けて進むも、それも次第に高くなって背丈までになってしまった。ここまでの高さだと迂回したほうが良さそうだ。突っ切れば距離を稼げるが、比例して体力を失ってしまう。松明の火が燃え移っても困る。火傷はもうこりごりなのだ。


回れ左して進んだ。今度は右から風が来るようになった。これがあって迷子になることはそれほど心配していない。滑降風を起こしているのだった。高高度から低高度へかけて冷たい風が下っている。強くはないにしても草木の倒れ具合から頂上がどちらに位置するかぐらいは見分けられた。


ひとまず頂上に向かうことにする。リズベルとイチジクが山を越えてきたというのならば、越える前にどこかで準備をしてきただろうと考えたのだ。それが村であるか街であるかはともかく、そこを目指していたとしても不思議ではない。山の裏側に行かれる前に確保しようという算段だ。勝算はある。リズベルは裸足のままなのだ。あれでは長いこと歩けまい。こちらとしては見逃しがないようにじっくりと詰めていけば良い訳だから簡単な仕事だ。もっと楽なのは彼女が諦めて帰ってくるのを待つことなのだが、残念なことに自発的に戻ってくることはないだろう。仮に暴走状態が解けたとしても、俺たちを敵と見たあの瞳が元に戻ることはない。


役二キロに役一時間かかった。どちらも勘でひり出した数字だ。それから役十度の勾配が役二十度に。


静かだ。草を切り裂く足音、炎に飛び込む虫の羽音、野鳥、風、それらが一挙に集まってなお静けさに満ちていた。調和がとれていているのだ。自然音と静寂がまったく矛盾なく同居している。あるのが俺の息づかい。これだけが異物感で、なんとなしに申し訳なさみたいなのがこみ上げてくる。ある種の神聖さとでもいうのか、清涼で、おごそかで、過去の人間が山岳信仰を生み出したのも分かる気がした。


森が少しずつ貧弱になってきた。木々の間隔が広くなってサイズも小ぶりになった。地面に乾きがある。それに伴って風がヒステリックに喚き散らしている。遮るものがないのだ。山地に足を踏み入れたのだった。尾根と尾根の中間でかなり先のほうまで窪みがある。地面が土。灌木の固まりが分布してる。向こうの山のほうが高度が高く険しそうだ。リズベルがあちらに行く理由はないだろう。ここからなら苦労なく山を越えることが出来るかもしれない。ただし風がなければだ。そのまま引き返すのも嫌で、東ではなく北東に向かうことにした。その前にちょっとだけ脇道に逸れる。休憩を取ることに決めたのだ。風で体を冷やさないように森の深いほうへ行き、ふと振り返った。


闇を見つめた。視界が十メートルもない。雲がかげっている。頼りになるのが松明だけ。それを右手に持ち替えた。左手にナイフ。両利きだが右手のほうが握力が強い。松明のリーチの長さを武器にしたのだ。それでふと思考がよぎった。前は確かに両利きになるように自分の肉体を仕付けた。しかし今は? 

それがまずかった。左手にちらっと視線をやってしまったのだ。


正面から影が飛び出してきた。油断していなかったのですぐに身構えた。それと同時に笹を掻き分ける音、斜め前方から別の影。連携を取っているのだ。正体が野犬だと認めたと同時に、二匹目の赤茶の犬が素早い動きで襲いかかってきた。二メートルの距離から跳躍したのだ。

松明を使って殴り落とした。衝撃が腕にのしかかる。すかさず体の位置を変えて蹴り上げるも、後ろに飛んで避けられた。追撃する。ナイフで突きに行ったのだ。だが先ほどよりも余裕を持って犬が避けた。これでやや距離ができた。ただし攻撃には遠く逃げるには近い。

赤茶の犬がぐるりと回り込もうとした。俺の左目がきかないのを覚ったのだ。歩調を合わせ左に移動することで制す。最初の犬が着いてこなかった。二匹の犬に強力関係があると見たのは俺の勘違いか。それがある意味で正解、ある意味で不正解だった。


元は白い犬だったに違いなく、しかし今や土と埃にまみれて一部一部が影と同化していた。目が据わり俺を視界内に納めたままでむやみに動き回っている。口から垂れ流しているのがよだれ。背中の筋肉が盛り上がっていて、それが拳大のコブを左右に二つずつ作っている。はじめに思ったのが、これが魔族か、という疑問。次いで狂犬病。後ずさった。魔族という得体の知れぬ輩よりも、後者のほうがより鮮烈なイメージで恐怖を煽ってくるのだ。噛まれたらアウトだ。ワクチンなど期待できる世界ではないだろう。


松明を白犬に突きつけてゆらめかした。狂犬病に感染しているのなら視神経の異常により光を嫌うのだ。効果があったのかどうか分からない。だが確かに白犬が嫌がっている素振りを見せた。喉を震わせ激しく唸っている。俺は狂犬病だと決めつけた。そうすることで行動から迷いを消したのだ。


火の光に照らされている範囲の笹の高さが四十センチあるかないか。右に直進するに従って笹が高くなっていくはずだ。左手に赤茶犬、草木及び他に何があるかは不明。後方が変わらず四十ぐらいで場所によってプラスマイナス十センチの上下。前方は次第に低くなっていき先ほどの強風地帯に出る。行くとしたら前だ。笹を隠れ蓑にされたら抗いようがない。だが前に陣取っているのが白犬なのだ。


左手首をたびたびひるがえしては、炎の光をナイフで反射させて奴等の意識に刻みつけた。じりじりと前に進み、白犬がその都度右に行っては左に行き、左に行っては右に行きつつも下がっていった。赤茶がついてこない。知恵が回る。挟み撃ちを狙っているのを直感した。


それでにわかに俺が動けなくなった。持久戦になったらどちらが有利かを考えだそうとして慌ててやめた。その思索は逃げでしかない。赤茶が歩み寄ってこないのは、警戒心もあるのだろうが、それ以上に持久戦こそこいつらの望むところなのではないか。


完全な膠着状態。この時点でもっとも弱っているのが白犬なのは間違いなかった。さりとて悪化を期待する気にはなれない。本能をたぎらせて呻いている。憎悪もなく敵意もないのだ。狩猟という名の自我。徹底された肉食の意思。肩を低くして飛びかかる準備をしている。


俺がにじり寄った。腹が決まったのだ。赤茶を背後に置く。二刀流の構えになって両腕をあげた。ただしナイフだけは切っ先を天ではなく白犬に突きつけている。その体勢で待った。待つ。まだ待つ。まだか。俺のほうが先に焦れてきた。前後からの重圧に押しつぶされそうになっている。胃が微痙攣を起こして生臭い息がこみ上げてきた。それでも待つしかないのだ。先手を取ったところで殺せるのは一匹。敗北は論外としても、ただの勝利では足らない。こちらは怪我ひとつ負ってはいけないのだ。冷たい風が襟元から入り込んで肉体を弄している。あまり寒さを感じていない。それよりも冷たいものが中で蠢いているのだった。


来たと思った。しかし違った。白犬が戦闘態勢を解いてしまったのだ。四肢の高さを均等にして、平然と横に行こうとした。


唖然としてしまった。虚をつかれたのだ。はっとしたときには遅かった。後ろ。赤茶。ほとんど眼前。飛びかかっているのだ。俺が手首を傾ける。松明を食わせたのだ。間に合いはした。しかし柄のところで炎をものともしていない。犬の唸り、牙、臭い、情報が混線しながらも脳裏を駆け抜けていく。瞬間的にナイフを逆手に持った。持ち上げ炎に当て、更に持ち上げた。半回転の逆ねじをくれてやる。


そのまますぐに頭から横に飛んだ。闇を突っ切って白い砲丸が元居た場所に飛んできたのを認めた。着地音もなしに白犬。素早く反転してこちらを睨みつけてきた。


どこだ。赤茶はどこへ行った!?


勘で松明を右に振るい立ち上がった。炎の軌跡に紛れて眼光。口を開いて威嚇。剥き出しになった獣性を纏って構えている。


奴等が飛びかかる前に体勢を整えた。忸怩たる思い。本当はこの時点で白犬だけは殺すつもりだったのだ。炎を囮にして、飛びかかる白犬の喉を掻っ切り、後は牽制しつつ先に山地の窪みに飛び込こんで下で赤茶を待ち構える目論見だった。失敗した。それをすぐに記憶の彼方に追いやった。この反省は次に生かす。生き残ってだ。


不幸中の幸いもある。前に犬が二匹だ。これで背後の心配は消えた。あとは隙を見せないようにして後進していくだけでいい。


炎を前に突き出しながら後ずさった。野犬の影が暗夜の中でより際立っている。目を外すことができない。一歩下がっては足場を確かめて、それを何度も繰り返すことで十メートル稼ぐにどれほどの時間を使ったか。時間が酷くのろい。急激に消耗しているのだ。精神はともかく肉体がごねてきた。疲労からの脱力感が足を重くしている。さっさと動けと恫喝してお願いだからと懇願することで体を成している。空っぽになりそうだ。着実に後退しているもの、野犬との距離がつかず離れず。奴等は俺がボロを出すのを待っているのだ。こいつがあって未だ警鐘が肉体に鳴り響いている。


風の音に変化が訪れた。強さもだが質も変わったのだ。開けたところが近い。注意深く足を動かした。何かに躓いたら一巻の終わりだ。犬が喉を震わしている。奴等も終わりが近いと気づいたに違いない。


感触も変わった。地面に土が露出するようになった。それから三分三歩で笹を抜ける。犬も顔で掻き分けて距離を維持している。近い。あと少しだ。一歩。また一歩。あった。これだ。踵の部分だけが浮いたのだ。すぐ真後ろが窪みになっている。高低差はそれほどでもない。精々三十センチかそこらなのを覚えている。


よだれを滴り落として犬が吠え立ててきた。瞳にあるのが純粋な欲望。それを信仰心と言い換えても何のひずみもなかった。いっそ言語を持たぬ強みが奴等にあるのだ。他者の乞いを無造作に切り捨てられる原始の血、宣誓を惜しむ野性の衝動、自然からの命に従っての繁殖、及び生命活動。それだけで良いのだ。倫理や道徳で腹が膨れないことを彼等は知っている。それゆえに完結して、そして完全なのだ。


敵うわけがなかった。まともにやればだ。


俺が下がった。足が宙に投げ出され立ち位置を失った。踏み外したのだ。転倒。腰から落ちそうになっている。


そうであるならば、彼は本能ゆえに隙を見逃さなかった。一瞬の貯めののち肉体を武器にして跳ねてきた。空を切って飛びかかってくる、赤茶の弾丸。


のしかかられる直前、俺が松明を横に放ったのを犬の習性は逃さなかった。目で追ったのだ。腹が無防備になっている。躊躇はなかった。ナイフを腹に突き刺すも赤茶が驚愕を示さない。爪が飛んできたのを首を捻って避けた。体重を俺にかぶせてくる。後ろに身を捨てつつ、奴の眼球に親指を突っ込んで頭を掴んだ。左手はナイフを掴んだままだ。そのまま膝を奴に押し当てて後ろに投げ飛ばし、巴投げのようにしながらも肉体を離さなかった。後転。赤茶を組み伏した。指を抜いてナイフに添える。突き刺さった切っ先が横を向いている。引き裂こうとするも動かない。びくともしない。びくともしないのだ。筋肉で止められている。下で犬が暴れた。まだ諦めていない。無我夢中でナイフを操った。手首を回してえぐる。切っ先が上に、犬の喉の方向を向いた。筋の道。骨格筋に沿ったのだ。ずるずると切り裂いたとき赤茶が吠えた。唾を飛ばし喉をうねらせて闇夜に響いたそれは、断末魔や、まして助命を求めているのではなかった。威嚇に他ならない。にわかに浮き足だってしまった。俺と奴の立場が紙一重であったことを知ったのだ。


身を翻して距離を取った。赤茶がのろのろと立ち上がり物言わぬ目で俺を見た。鈍く物が落ちる音がした。裂けた腹から臓器が滑り落ちたのだ。肉体が命を手放そうとしている。それを認めようとしない意識が鼻に皺を寄せて低い声でうなっていた。最後の足掻きだ。俺はそうと知っている。彼はそうとは思わない。口を開きかけ、そして一切が停止した。腰がすとんと落ちたとなると、音を立てて横に倒れた。

遠吠えを耳に聞いた。向くと白犬。火明りと暗闇の境目で吠え猛っている。長い長い咆吼ののち、奴は俺ではなく赤茶に視線を寄せたのだった。送る言葉が彼等にあったというのか、これは挽歌なのか、だとしても畜生が畜生を殺し、畜生が畜生を見送ったに違いなかった。

続く遠吠え、天にこだまし、そして今、我々は地上で憎悪の火を燃やしている。

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