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ミスキャスト  作者: 高橋多平
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ドアが細めに開き、チェーンの向こうで男の顔がのぞいてきた。黙ったままこちらを凝視して数秒、やっとドアが開いた。髪の色が真っ赤だ。男が手振りで奥を示してきた。


動揺しないでもなかった。背中につかれたのを嫌ったのではない。赤髪の着込んでいるのが鎧だったのだ。チェインメイルといったか、研磨された鋼鉄のリングを布に縫い付けているみたいだ。人の趣味にとやかく言うつもりはないが、帯剣しているのはいただけない。長物だ。彼の抜剣よりも先に撃ち抜く自信はあったが、サイレンサーをつけていない。左右の部屋には宿泊客が滞在しているのを確認していた。当然こちらはスーツや洋服だが、彼の仲間である可能性だって決して低くはないだろう。


ホテルの見取り図は暗記していた。脱出するにはエレベーターか非常階段を使わなければならなかった。部屋の窓をぶち破ってというには地上十四階という高低差が邪魔をする。つまり一度部屋に入ってしまったからにはチェインメイルの男を出し抜く以外に逃げ道はないのだった。


当然のことだがそういった行動に陥らずにすむことを期待している。彼が、いや彼等が正規の依頼者であり、コスチュームがただの道楽なり自己主張であることをだ。


カーテンを閉めっぱなしにしている。しかし部屋は暗くはなかった。隙間から差し込んだ光線の中で、埃が紙魚のように漂っている。その光を半歩避けて別の男が背中を向けていた。こちらが着ているのは金銀糸を編み込んだ白のローブ。足首までの長さでフードもついているがかぶってはいない。最初に対応した男のものよりも手間と金をかけた衣装だった。何がおもしろいのかカーテンをじっと見つめている。口も開きやしない。


俺は後ろを振り返り、睨めるように観察した。視線の高さがほとんど同じだ。身長が百八十ぐらい、やせ気味で体重が七十そこそこ、彼のほうが年上で十ぐらい違うだろうか、違ったとしてもまだ四十には届いていないはずだ。表情の乏しい男だった。灰色の瞳が何の光も放っていない。左の眉を斜めに切り裂いた古傷が唯一の人間味ともいえる。彼も黙ってこちらを見ているだけだった。


仕方なく俺がきっかけを作ることにした。前に向き直る。


「依頼を聞こう」英語を使った。場所を考えると露語でも良かったのかもしれないが、何せ相手の人種すら不明なのだ。西洋人だがゲルマン系ともスラヴ系ともとれる。混血かもしれない。髪は後ろの男が赤、前に居るのが金色だった。


俺の背中に張り付いていた赤髪が斜め後ろに距離を取った。ボディガードなのだろう。あるいは従者とでも言ってやるべきか。対して主人のほうはまだ黙したまま。ただし肩をぴくりと反応させた。振り向きもしないのは何かしら葛藤の表れともとれる。


いよいよ罠を意識し始めた。過去にもあったのだ。依頼と称しての襲撃が一度。報酬を受け取る際には二度ばかし。撃退はしたが今回も幸運が続くとは限らない。先手を打つべきだろうか、と俺は懐のマグナムの重みに意識を向けた。


「ある人物の警護をお願いしたいのです」


驚いた。発言の内容にではない。背中を向けたまま語る言葉のそれは、日本語だったのだ。かなり流暢といえる。ネイティブとほとんど遜色ない。


「・・・・・・俺が日本人だとどこから聞いた」


普段はアメリカンチャイニーズで通しているのだ。俺を日本人だと疑う輩は少ない。日本人だと知っている輩は更に少なく、片手で数えられる程度だ。誰かが漏らしたのだろうか。疑心が膨れあがりはけ口を探して体の中で暴れ回っている。銃の重みを強く感じた。殺るとしたらまず後ろの男からだ。前の男は依然背を向けたままで、その上両手を後ろ手で組んでいる。油断は出来ないが、振り向きざまに口から炎でも吐かれない限り大丈夫だろう。つまり問題ないということだ。


「失礼ながら調べさせていただきました」


正直に答えるつもりはないようだ。


「・・・・・・色々と厄介なことを知られているようだな」


「それは貴方が国に裏切られたことですか?」


警戒心が膨れあがった。この男は日本国が送り込んだ特殊工作員かもしれない。


手持ちの武器がマグナムにサバイバルナイフだけ。奥歯に自決用、暗殺用の毒薬を仕込ませているが、これを取り出すのに二十秒は必要だった。武器として使えるものではない。


「ご安心下さい。貴方の復讐を止め立てするつもりはありません」


頭の中でシミュレートする。いくつかの戦闘プランを用意した。


「それどころか、我々の依頼さえこなしていただければ、色々とお力になれるかもしれません」

背を向けたままだ。やるなら今をおいて他にない。だがその前に彼等が何者か確かめておきたいという思惑があった。会話を続けるべきだろうか。だが彼等がわざわざ俺の過去をほじくり出してきたことが罠のようにも思える。時間稼ぎか? だとしたら今すぐに動くべきか?


「報酬として米ドルを用意してあります。それとは別に手付け金として二千デラド金貨をお渡ししましょう」


聞き覚えのない単語だった。それで思わず反応してしまった。


「デラド金貨?」


「必要になるでしょう。あちらの世界ではドルも円も使えませんから」


「なんの話だ」


「こちらの話です」


斜め後方に意識を飛ばした。赤髪の位置は変わっていない。俺は断るための言い訳を探しているのだった。


「よく分からんが、人の警備はやっていない。そこまで器用ではないのでね」


「貴方しか出来ないのです」


「後ろの男に任せたらどうだい。素人じゃねえだろうよ」


「ええ、彼にも任せるつもりです。正確には彼と貴方の二人に」


「では尚更だ。俺は他人とは組まないようにしている」


「五百万ドルを用意してあります」


出し抜けに言ってきた。それで俺がにわかに黙ってしまった。人物警護には破格の報酬といえる。要人暗殺にしたってこれほどの額を提示されたことはないのだ。やはり罠だろう。いくらなんでも額が大きすぎる。


あらためて金髪の背中に舐めるような視線をあてた。背は俺よりも低く、肩幅も狭く、間違っても荒事に向いているタイプには見えなかった。髪がかなり長い。オールバックにしているのだろう耳から垂れ下がるピアスを認めた。首にかかっているのがシルバーのネックレス。声にあるのが強烈なまでの自己抑制。ただしこれは異国語を操ったための弊害と考えられなくもない。


「餌で釣るように真似になってしまって申し訳ないが・・・・・・」


「別に気にしちゃいないさ」


「では」


声がやや弾んだ。そこに意図を感じる。安堵をさらけ出すことで俺が断りにくい状況を作り出そうとしているのだ。その手には乗らなかった。


「勘違いするな。俺が適任ではないという考えは変わらない」

「貴方だけが頼りなのです」


平行線だ。交わることがないとどうして分からないのか。


「ひとつ聞きたい。どうやって俺が日本人だと知った」


「失礼ながら過去を眺めさせていただきました」


比喩だろう、調査レポートを手に取ったという意味に違いない。


やはり元の言語圏が違うせいか所々で食い違いが出てしまう。俺が金髪に合わせた方が良いのだろう。それで母国語が何かを聞いたところ、この体では発音できないと答えてきた。彼の言うことがからっきし理解できなかった。英語等いくつかの言語を使って同じ質問してみても、彼の発言に変わりはない。


ローブがかすかにはためいた。それでやっと気づいた。どうやら自分達の情報をさらけ出すつもりはないようだ。姿すら一種のカモフラージュなのだ。


「俺は依頼人とは対等な信頼関係を結びたいと思っている。少々アンフェアじゃないかね」


半眼になって若干嫌みっぽく言った。これぐらいの嘘は構わないだろう。


「私は過去を見ることが出来るのです」


また言ってきやがった。俺が黙したまま。別に次の言葉を催促しているわけではない。しらけてしまったのだ。だが彼はそうとは思わなかったようだ。


「すべてではありませんが、かなりの精度で対象の過去を見ることができます。それこそやろうと思えばまだ赤子の頃からの過去を見ることができるのです。そして私はずっと探していたのです。私が過去を見ることのできない人物を。それこそが貴方なのです」


「一致してないぜ。俺の過去を見たんじゃないのかい」


「たったの少しです。少ししか見ることが出来なかったのです。それだけ貴方の思い入れが強い過去なのでしょうね。もっともそれだけが理由ではありません。実を言うと私が過去を見ることのできなかった人物は貴方だけではないのです」


「ならそっちに頼めば良い」


「いえ、そこに技術と知識を兼ね備えた人間となると、やはり貴方しかいないと判断しました」


「おまえさんが俺の何を知っているというんだ」


「こちらに来て調べました。少なくとも貴方は七度死んでいなければならない人間です。傭兵としていくつもの戦場を渡り歩き、不可能を覆してきた男。いつかしか畏敬の念をこめてグリズリーと呼ばれた勇者。砂漠の狐作戦以降だれも姿を見ていないということから死んだのだとされていましたが、ところが貴方は今もこうして生きている。我々が欲しいのは貴方の生存能力です。その力を使って彼女を助けて欲しいのです」


俺は自分のなかでくすぶっている殺意を認めた。調べられている、という事実が歯ぎしりを生む。ここで彼等を殺せば安易な人生を取り戻すことが出来るかもしれない。しかしそれが一時の逃避でしかないことを知っていた。


背を向けてドアに向けて足を一歩踏み出した。赤髪が前に立ちふさがった。


「退け」


手を水平にして振り抜いた。


まったく動じない。それどころか男が長剣の柄に手をかけた。


引き下がれはしなかった。俺も懐に手を伸ばしかけた。ジャケットの前ボタンは開けっ放しにしている。0.25秒。0.05秒。拳銃を抜くまでに必要な時間とトリガーをしぼるまでの時間だ。前方の男にはそれほど驚異を感じなかった。鞘の長さから見て刃渡りが百センチ前後。その長さだ、抜剣までに射殺できる自信があった。恐れを感じているのは金髪に対してだ。無音。まだ奴が振り向いていないのを認めた。武器を確認していない。ローブがいわゆるガウンタイプで前開きの物なら懐に武器を隠して持っている可能性があったが、しかしそうでないことを直感していた。金髪の微弱な動きからのローブの揺れで、一体型、上下が繋がってワンピースみたいな形であることは明らかだった。ならば懐に武器を隠していたとしても、取り出すのに手間取るのは目に見えている。だが俺の疑心は懐に武器を隠し持っているのではというクエスチョンではなく、問いの行き先は首にかかったシルバーのネックレスだ。これは勘違いかもしれないのだが、ネックレスの首への食い込みが若干深かったように見えたのだ。つまりネックレスがただの輪っかなのではなく、もしかしたら拳銃でもぶら下がっていたのでは、という疑いがあるのだった。


迂闊には動けなかった。瞬く間に二人を殺す確信を持っていたが、こちらが無傷で終わらすには不確定要素が強すぎた。敵がこの二人だけとは限らないのだ。カーテンは閉めっぱなしにしているし、立ち位置から狙撃の心配はしていないが、両隣の部屋に居るのが完全に無関係な泊まり客かどうかわからないのも不安の種だ。

赤髪から発せられるひしひしとした敵意を感じていた。反面、金髪は本当に後ろに居るのか戸惑ってしまうほど気配というものがなかった。


「命を無駄に散らすこともあるまい」


初めて赤髪の声を聞いた。こちらも完璧な日本語。なかなかかんに障ることを言ってくれる。声に威信のようなものが潜んでいた。自分が敗北することを微塵も疑っていないのだ。


「同感だな。無駄死にすることはない。跪いて許しを乞えよ。俺が寛大なところを見せてやる」


「言っても聞かぬか」


俺たちは互いの殺意を認め合った。もはや言葉は必要ないのだ。重苦しい沈黙と悪意となった重力。静寂がわだかまりとなって身に纏わり付いている。


無音を打ち破ったのは俺のマグナムでも奴の長剣でもなかった。

「おやめなさいランダル」


背中で声を聞いた。それでもしばらく俺と奴は身動きひとつしなかった。だが先に戦闘態勢を解いたのは赤髪だった。ランダルというのが名前なのだろう。


「やり方を変えましょう。本意ではありませんが」


俺が振り返ろうとした。たとえ何を言われても依頼を受ける気がないことを伝えようとしたのだ。それが出来なかった。何の前触れ無く膝から力が抜けてしまったのだ。次いで平衡感覚の消失。地面に倒れた。しかし痛みはない。ぶつかり合うことがなかったのだ。やっと気づいた。横になって地面から浮いている。一瞬で追い込まれた。一種の恐慌状態。もはや現実を疑う圧倒的な浮遊感。違う、落ちているのだ。落ち続けている。色を失った。見間違いではなく視界から色彩が消え失せてしまった。暗闇の中で喉からほとばしる絶叫を聞いている。獣の悲鳴。意味不明の敵意。それらすべてがふっと消えた。







身震いする寒さに目を覚ました。頬にくすぐったいような感触がある。薄く目を開くと緑の色が飛び込んできた。風にそよいでいる。


がばっと跳ね起きた。平原で寝入っていたことを認めるのに少しの時間が必要だった。舌打ちをして辺りを見回す。右手に森が見えた。左手にあぜ道。これが遥か彼方まで続いていて、地平線の奥で消滅していた。目算で五キロぐらいだろう。ただずっと道が繋がっていて、それ以外に目を見張るものが何もなかった。強いて言えばこの光景そのものに驚きがある。かなりへんぴな所なのだ。視界に人工物がひとつもない。


どういった手段でか俺が奴等に眠らされたのは間違いない。ガスを使われたのだろうか。油断はしていないつもりだったが、してやられたのだ。殺されていてもおかしくなかったという事実に怨念が肥大化していった。生きていることに感謝する気にもなれない。むしろ生かされたという思いが強いのだ。


なぜここに連れてこられたかを考えてみるが、拘束もされておらず監視の目もないことがより一層理解不能の状況だと認識させるだけだった。


やり方を変える、とあの金髪が言ったのを覚えている。


俺は腕を組んで奴等の意図が何であるか思索しようとした。しかし出来なかった。何かとてつもない不快感を認めてしまったのだ。元凶がわからない。ただ焦心と、胸に異物が入り込んだかのような得体の知れないずんぐりとした重みがある。目の端で紺色を認めた。ローブを着ていることに気づいた。俺が寝ている間にやられたのだ。口の中で悪態をつき、ひらひらとしたローブの裾を手に取った。それで勘違いしていたことを認めた。ローブどころではなかったのだ。スカート。屈辱が体の中で一杯になった。


裏腹に思考が冷え冷えとしているのを自覚していた。いくつもの問いかけが頭の中に生まれていたのだ。もちろん答えてくれる者は見当たらない。場所、太陽の位置、腹のすき具合から喉の渇き具合、不調ともいうべき肉体の祖語感、そして気配。


人影はない。しかし見られているという意識が本能を中心として展開されていた。森の方だ。


あえて背中を向けた。スナイパーが居るのならとうに殺されているだろう。少なくとも俺を生かす腹づもりなのだ。後悔させてやる。組んでいた腕を解き、そっと体に這わせた。ダメージの有無と、武器が取られていないかを確かめようとしたのだ。既知と失望があるだけだった。ただしどちらも覚悟していたので落胆は少ない。痛みの類がないことから暴行を受けていないだろうとは思っていた。武器が取り上げられているのも当然といえば当然。ある意味で現実的な結末、常識の範囲内、であるからこそ異変を感じ取るのに遅れた。少ない落胆が一気に食われた。凌駕して珍事を実感。呼び水となって吐き気。夢か幻覚を疑い、同時に手で自分の体を事細かく調べていく。ダメージがない、そんなことはどうでもいい。武器がない、今は捨て置く。柔らかい、なんだそれは。

物音にはっとして振り返った。数羽の鳥が空に飛んだ。やけに空が高く見える。そして森から這い出る赤い髪の男、ランダル!


「貴様・・・・・・」


電気が走ったみたいに体がびくっとした。慌てて口元に手をあてた。放たれてしまった言葉を押しとどめるように。しかし遅かった。聞いてしまったのだ俺は、自分の口から飛び出た女の声を。

無様にも度を失なってしまった。戸惑い、慌て狼狽え、過呼吸気味になって滲む世界を睨みつけた。悲鳴のような声が口から漏れていた。呪詛なのだ。女の声で罵っている。


まさか、という思いがある。まさか、しかし思考が発展することはなかった。一直線に駆けたのだ。もはや肉体は意思の管理下にある。ただただの殺意。混じるものが何もなかった。


三十メートル弱を走り抜けたところで一度緩急をつけた。体を沈ませる。石を拾ったのだ。すぐさま投げつけた。ランダルが何か非難めいたことを叫んだ。それを最後の言葉にしてやる。


石を右に避けたランダル目がけて跳び蹴りを放った。鉄を相手にぶちかましてしまったような衝撃。肩でガードされたのを認めた。つまり半身になっているということだ。着地と同時にタックルを仕掛けた。前に出ているのがランダルの右足。足首を取ってテイクダウンを狙った。関節を逆に捻りながら地に転がす。間を開けず腹に馬乗り。ランダルの唖然とした表情。それが俺の笑みに加虐心を加えた。


先にランダルの右腕が動いた。平手が俺の顔目がけて飛んできたのだ。掴もうとしたのかもしれないが、慌てることはなかった。肩を地面につけた状態で力が入るわけがない。俺はあっさりとそれを弾き、返す動作を攻撃にして奴の顔をぶん殴った。一発目と二発目の右と左は無防備状態のところに叩き込んだ。三発目を前にランダルが両腕で顔を防御した。奴の視界が狭くなったのだ。俺は右手を、ランダルが分かるように振り上げた。そして左手が、奴が腰に差している長剣に伸びた。寝転がった体勢上、剣とランダルの体が同じ方向を向いている。ベルトで固定されているために鞘ごと奪うのは難しい。剣だけを抜いて取らなければならなかった。リスクはある。だが承知の上だ。何よりもこのままマウントポジションを取り続けるのが困難だと理解していた。


振り上げた拳を目の前でかすらせた。そのまま前転する。左手はすでに柄を掴んでいる。体を捻り、一瞬の腹ばい、手で地面を押しのけ、足を使って後ろに飛んだ。左手に剣の重みがのしかかっている。奴が立ち上がるのを待つつもりはなかった。右手に持ち替える手間すら惜しんだ。


伏したままの奴の頭が動いた。四肢をそのままにして、首だけを動かしてこちらを見てきたのだ。口が開いた。命乞いなどさせるつもりはない。一歩だ。そして一振りだ。それで片がつく。


一瞬のことだった。今まさに命を刈り取ろうとした瞬間、奴の口から飛び出たのは言葉ではなく炎だったのだ。瞬間的に半身を下げて避けようとした。間に合わず直撃した。とたんに酸素の在りかを失ってしまったのだ。炎の中でおぼれている。驚愕と戦慄。目を突き刺す赤色の痛み。何が起きた。何をやられた。時間にして一秒という無限を彷徨っている。ほとんど半狂乱となって地面を転がった。目を見開くことができない。闇のなかで転がり続けているのは、未だ焼け続けているのではという恐怖からに他ならない。


「驚いたぞ」


声が聞こえた。上のほうからだ。立ち上がらせてしまったのだ。カチャ、という音は剣を拾い上げたからに違いなかった。


「ランダル!」


声が掠れた。喉を焼かれたのだ。


「まさか俺に奥の手を使わせるとは」


俺が片膝をついて頭上を見上げた。恐怖よりも混乱よりも、怨嗟が勝ったのだ。


左目の視界がほとんどきかなかった。ずたぼろになっている。この際客観視はなしにした。自分の体にどれくらいのダメージが残っているかなどつまらない考えは不必要だ。片目ぐらいくれてやる。


「てめえ、何しやがった!」


「性別を変えたのは俺ではない」


それについて聞いたのではなく、口から炎を出したことについて聞いたのだった。とはいえ聞き捨てることは出来ない。性別が変わったことについて、やはり、という理解と、だからといって納得できるわけではないという感情がある。


「性別適合手術か」


「手術? いやそうではない。俺も詳しいことはわからんが、過去を変えたのだと仰っていた」


「過去を変えただと?」


せせら笑ったつもりだった。しかし喉からは咳が出た。痛みが現実感を蘇らそうとしている。


「そうだ。あるいは、そうであったかもしれない未来というべきか」


「・・・・・・」


何を言っているのかわからなかった。だが冗談だと笑い飛ばすことができない。


「そのなんたら手術というのも俺にはよく分からんが、その手術とやら身長を縮めることが出来るのか?」


言葉に詰まった。なんとなく空が高いように感じたのは、周りに比較できる建物などがなかったからではないことを認めのだ。


「俺も戦士の端くれだ。男を失うという辛さはわかる。だが必要だったのだ。理解してほしい」


「俺が女になることで何があるっていうんだ。てめえの慰み者にでもなれってか。冗談じゃないぜ」


「そうではない。我々は旅を続けなければならない。そしてリズリル様は子供とはいえ女だ。男二人に囲まれるよりも良いだろうと我が主は判断した」


「リズリル様だぁ? ・・・・・・そうか、そいつを護衛しろっていうのか」


「そうだ。報酬として金と、そして性別を戻すことを約束する」


「貴様ぁ!」


やっとわかった。それこそが狙いなのだ。ずいぶんなやり方ではないか。あの金髪の男、無理にでも顔を一目見ておけば良かった。


そして馬鹿らしくなった。俺は無意識で、奴の言葉を信じている。過去を変えただと? そうであったかもしれない未来だと? 俺が女として生まれ、女として育ったという未来があったというのか!?


「怒るのも無理はない。だがどうか耐えていただきたい。この世界を守る唯一の方法なのだ」


立ち上がり、辺りを見回した。目にずきずきとした痛みがある。これが一番強烈なだけで、実際には上半身のほとんどに火傷を負っているのだ。とてもじゃないが顔に手をあてる気にはなれない。べたっとした感触がついてきそうで嫌になっているのだ。


「ここはどこだ」


「ウォーレ大陸だ。ここから北に進めばシュガナ村がある。当座の目標地点だ」


「・・・・・・国の名前は?」


「一番近いのがビラノ国という。ここも領土内だ」


「質問を少し変えよう。ここから一番近い先進七カ国はどれになる? アメリカか、フランスか、それとも日本だったりするのか」


 ランダルが驚いた顔してこちらを見てきた。


「気づいていないのか? それとも認めていないのか?」


「冗談のつもりなんだろうがな、笑えやしないぜ」


それでランダルが黙ってしまった。眉間に皺をよせている。出来の悪い生徒を持った教師の目だ。


彼が背中を向けた。一人でさっさと進んでしまう。しかし途中で一度振り返り、手振りでこちらに来るように示した。


迷わないでもなかった。一見して無防備に見えたのだ。しかし結局は従うことにした。森の中に入いってすぐのところに荷物を置いていたようだ。ランダルが皮の袋を取り出して俺に寄こしてきた。


「水だ」


遠慮はしなかった。頭からかぶって傷を冷やした。ランダルが地面に座ったので俺もそうすることにした。


「薬と包帯だ」


「毒じゃねえだろうな」


「貴殿を殺すのに毒を使う必要はない」


これも受け取ることにした。軟膏のようだがにおいがかなりきつい。草花を煮詰めるだけ煮詰めてみたといわんばかりなのだ。顔をしかめてみせたが傷が痛いだけだった。ランダルの表情に変化はない。


薬とやらを顔に塗りたくり、乱暴な手つきになって包帯をぐるぐると巻いた。目だけを出している状態だ。この際見た目は気にしないことにする。


「すまなかった」


「拉致っておいてよく言うぜ」


「女の顔に傷をつけてしまった」


「二度と言うな。今度は殺す」


ランダルが黙ったのをみて俺は自分の体をまさぐった。無いものがついていて、有るものがついていない。体つきがかなり華奢だ。腕といわず足といわず病人みたいに細くなっている。拳が裂けているのを認めた。先ほどランダルに殴打をくわらせた拳だ。次に機会があれば掌底打ちにしようと決意した。


「ちくしょう、いっそ死にてえぜ」


「よしてくれ。貴殿に死なれると困るのだ」


「とめないでくれ。おまえにそう言われると本当に死にたくなっちまう」


再び黙ってしまった。だが長くは続かない。すぐに俺が打ち破ったのだ。


「煙草は?」


「何だ?」


「煙草はないのか? あと俺の銃はどうした。ナイフも」


そこまで言ってふと思い出した。指を口の中に突っ込んで奥歯に触った。抜けなくなっている。どうやら毒殺や自決は無理になったみたいだ。まあ良い、やろうと思えば何だって出来る。


「銃という武器は持ってきているが、これは危険なようだ。まだ渡すことはできない。煙草なら・・・・・・まあ構わないだろう」


煙草だけを渡された。ライターを希望したが、そんなものはどこにもなかったと言う。どうやら俺が身につけてきたものだけを持ってきたようだ。


「・・・・・・俺の見間違いじゃなければ、おまえ口から火を吐いたよな」


ランダルがはっきりと頷いた。手を差し出してくる。どうやら煙草が欲しいようだった。一本をくれてやった。彼が口にくわえ離したときには、くわえたほうがじんわりと赤く燃えていた。


「俺はこんなものは吸わない」


寄こしてきた。手にとってまじまじと見てみるが、煙草は煙草だ。一服すると今までにない衝撃がやってきてくらっときた。目が登って意識を失いそうになるほどだ。幸いにして煙が喉を刺激して気付けになっている。我慢して吸った。煙草なんてそんなものだ。


煙を吐いてから質問した。


「どんなトリックよ」


「構造の問題だ」


「つまり?」


「つまりも何も、そうゆうふうに出来てるとしか言えん。竜族とはそうゆうものだ。・・・・・・そういえば貴殿の世界には人間族しか居ないようだったな。ならば覚えておけ、我ら竜族は誇り高い戦士の一族だ。それゆえに異世界からの助太刀など本来であれば許容できぬことだが、今は手段を選んではいられないのだ。貴殿にも納得できないことも多々あろう。しかし許されよ」


「ちょっと火吹いてくれ」


「俺の話を聞いているのか?」


「さっさとやれ」


ランダルが渋々といったふうに立ち上がった。普段と変わらない感じで息を吸い、当たり前のように炎を吐き出した。


俺も煙を吐いた。煙草の残りが十本を切っている。吸いきる前にどこかで補給したいところだ。


「ちょっと口をあけて中を見せてくれ」


「何だと」


「何度も同じことを言わせるな」


俺も立ち上がりランダルの前にまで行った。見上げる形になった。でかい。いや、俺が小さくなったのだ。まったく馬鹿らしいが事実なのだから泣けてくる。


「屈めよ。見れねえだろ」


「聞くが、なぜそうまで威圧的なのだ。俺は貴殿に危害を加えるつもりはない。先ほどはやむを得ずのことだ。わかってほしい」


「背の低さと態度は反比例するっていう説を知らんのか。おまえの言葉を借りれば、女として生まれた俺は生意気な奴だったってことさ」


「知らなかった。しかしそうか、なるほど」


身を屈め、本気で呟いてきた。訂正する気にもならない。


胃袋の中に油が入ったビニール袋か何かを仕込み、それを放出することで火を噴いているに見せかけているのではと考えていた。だが喉の奥までのぞき込んでもそういった仕掛けらしきものや、着火するための道具は見当たらなかった。ただそれとは別におもしろものを発見した。歯だ。細かい歯がギザギザになってびっしり生えていたのだ。まるで爬虫類だ。竜族と言ったか。なるほどすごい念のいれようだ。


「たいしたもんだ」


茶化すように言った。それでランダルの表情に変化がきた。同情と怒りがない交ぜになったほの暗い感情。光の加減ではなく、確かに瞳が黄色く輝いたのだ。


「失望したな。現状を受け止めることができる人間だと思ったが、そうではないようだ」


「この下らない猿芝居をか。勘弁してくれよ、沢山だ」


 背を向けた。


「どこへ行く!?」


「てめえが居ないところさ」


「その体のままでか」


鼻で笑ってやった。


「脅しているつもりかい。いいね、三流じみてきた」


「貴殿の帰る場所などありはしないだぞ」


「ずっとそうだったさ」


俺はさしたる理由もなく笑った。声をあげ、大口を開けて馬鹿笑いをした。ランダルは怒りを前面に押し出すことで耐えているようだった。


駆け引きだった。空しさがつのるだけの芝居。観客の居ない劇場で踊る俺と奴。木漏れ日ですら、誰も照らしやしないのだ。


そのとき視界の端っこに兔のような動物が映った。焦げ茶、耳長、赤目、そして角、尻尾が一メートルもあった。口にくわえているのがやはり見たこともない鳥。兔らしきはこちらを一目見回すと、なにごともなかったかのように駆けていった。後に残ったのが軽い気後れと戸惑い。


「・・・・・・本当に、男に戻してくれるのか」


背を向けたまま俺が言った。声が震えている。


「約束する」


「別に待っている奴が居るわけじゃねえ。それでも・・・・・・」


「約束しよう! 我が名はランダル・スターセン。誇り高き竜族の戦士。今ここに誓おう、貴殿の平穏を取り戻すことを!」


俺の平穏を奪った張本人がよく言ったものだ。


煙を蹴散らして突風が巻き起こった。俺は乱れる髪を押さえながら直感した。好むと好まざるとに関わらず、幕が上がったのだということを。






「貴殿の名を伺っていなかった」


そのとき俺たちは延々と続くあぜ道をひたすらに歩いていた。まず一刻も早く護衛対象に会わなければならなかったのだ。ほとんど無駄口は叩かなかった。時折俺がこの世界について質問するぐらいだ。そういった役が板についた頃の問いかけだったので、一瞬間が開いてしまった。


「グリズリーと呼ばれているのだったな。では俺もそう呼べば良いのか」


「やめてくれ恥ずかしい。別に自称してた訳じゃねえ。周りが勝手に呼んでただけさ」


掠れた声で答えた。しばらく喉は治りそうにない。左目についてはもう諦めてた。だんだん視界が狭まってきて、ついには完全にきかなくなってしまったのだ。寝て起きたら治っていた、とは考えられない。しかし恨みはなかった。ランダルからしてみれば、やらなければ殺されていたのは自分なのだ。自衛として当然だといえる。

「グリズリーとは恥ずかしい単語なのか?」


「・・・・・・グリズリーってのはある生物を示す言葉だが、知らないのか?」


「聞いたことないな」


「クマでいい」


「何がだ?」


「俺の名前だ。そう呼べ」


「了解した。ところでクマ殿、もうひとつ聞きたいことがあるのだが、前に俺に跳び蹴りをかました後、俺の足を取って転ばしたな。あれはどうやったのだ? 痛みが走ったかと思えば、知らぬ前に転がされていた」

「サンボだ。もっとも俺のは軍隊式で、あの時も足首を捻るだけじゃなくて脱臼ぐらいはさせるつもりだったがな。頑丈な体をしてやがるぜ」


「サンボとは?」


「聞いたことないのか?」


「知らん。初耳だ。・・・・・・どうやらクマ殿は誤解しておられるようだ。俺はこうやって今も日本語を喋っているが、これは魔法で我々の言葉を日本語に変換しているだけなのだ。だからそちらの世界のことは知識としては何も知らないのだと思ってほしい」


「魔法ねえ」


なんとも胡散臭い。だがこいつは口から炎を出した男だ。その上こいつの上役は俺を女にしてみせたのだ。色眼鏡で見るのは危険だ。それに、確かに口の動きと発音が不一致なのだった。腹話術みたいになっている。見ててあまり気分の良いものではなかった。なんだか馬鹿にされているように思えたのだ。もっともこれは俺の解釈の問題であり、ランダルの性格が忌々しいほどに誠実であることは短い時間ながらも理解できた。


「俺の世界にはロシアという国があって、そこで生まれた格闘術がサンボだ。俺からも質問だ、魔法で日本語に変換しているだけと言ったな。ということは当然だが公共語は別にあるということだな。俺もその魔法とやらでおまえらの言葉を喋れるようにできないのか?」


今はまだ良いが、そのうちこの世界の住人とも出くわすだろう。意思の疎通がとれないのは厄介だ。

「現状では不可能だ。なのでクマ殿にはしばらく我慢していただきたい」


「不可能の理由は何だ」


「そうだな、今のうちに教えておこう。そしてそれこそが貴殿が必要だったという理由でもある。クマ殿を含めそちらの世界の人間達にはある能力が備わっている。魔法という存在がなかったために発揮されることがなかったのか、あるいは逆に能力ゆえに魔法が発達しなかったのかはわからないが、天然的に魔法を解除させる力があるのだ。個体差があるとはいえ多かれ少なかれ皆がそのような能力を持っているようだ。その魔法解除の力よりも巨大な魔力をあて続けることで言語変換を維持することも理屈の上では可能だが、俺の魔力では無理だ」


「つまり俺にその言語変換の魔法をかけたところで、こっちで勝手に解除しちまうってことかい」


「そのとおりだ」


「それがなんで、俺が警護要員として必要な理由なんだよ」


「まず第一に我々が保護すべきリザベル様だが、彼女はとてつもなく高い魔力を有している。第二に魔力というものは生きている者なら誰でも持っていて、そして誰もが少しずつこぼしながら生きている。第三に、そうやって抜け出た魔力というのは、残り香とでもいうのか、勘の鋭い者になら確かにここに誰かが居たという事実を覚られてしまうのだ」


なんとなく言いたいことが分かってきた。ただ口は挟まなかった。先にすべて説明してもらったほうがいいと考えたのだ。


「そしてこれがもっとも重要なのだが、貴殿の魔力解除の能力は、狭い範囲ながらその残り香をも消し去ることができるのだ」


「消すのは残り香だけなのか?」


ランダルはその言葉だけで気づいたようだ。


「そうだ。あくまで魔力解除の対象は自分自身であり、残り香というかすかな魔力だから余波的に消すことができるのだ。無尽蔵に消すことが出来るのなら、とうに俺とクマ殿は会話をすることすら出来なくなっている」

ランダルの言語変換の魔法は自身にかけているからこそ有効であり、俺の魔力解除とやらでは範囲外なのだろう。実際のところ、わかったようなわからないようなというのが本音だ。


「現状では不可能でも、巨大な魔力では維持も可能。ということは、そのガキなら俺のほうに言語変換の魔法をかけつづけられるんだな」


「リザベル様だ」


珍しく嫌悪感をのぞかせて口を開いた。


からかってやろうかとも思ったがやめておいた。素直に言い直す。

「そのリザベル様」


「理論上では可能なのだ。あとはリザベル様の魔力量がどの程度かによるな」


「期待したいところだが、大丈夫なのか?」


「それを俺に言われても困る」


「そうじゃない。魔力の量がどうのこうのではなく、自覚はないが俺が消せるのは残り香ぐらいの魔力なんだろう。なのに巨大な魔力での言語変換なんてものを俺にかけちまって、匂いが漏れちまうんじゃないのかい」


「ああ」なんだそんなことかと言わんばかりになって返答した。「すでに実験済みだ」

「実験?」


「クマ殿がこちらの世界に来るのにどうやって着たと思っている。我が主が魔法を使ったのだ。クマ殿に空間転移の魔法をかけたのだよ。移転は成功し、尚且つとてつもない魔力を使ったにもかかわらず魔力発生時に漏れる匂いがかけらもなかった。つまりクマ殿に直接かける分には、匂いが漏れないのだと実証されたのだ」


「初耳だぜ」非難するように言った。モルモット扱いされたのが気にくわなかったのだ。「ところでそのガキ、誰に、なぜ狙われているんだ」


「リザベル様だ」


意趣返しのつもりだったがランダルは生真面目に投げ返してきた。おもしろくない男だ。素直に言い直した。


「リザベル様」


「人と魔、その両方だ」


「人はわかるが、魔っていうのは?」


「魔族のことだ。奴等は強靱な肉体と絶大な魔力を持っている。個体数は少ないがそのひとつひとつが悪意をもった災害だと考えてもいいだろう」


魔族だとよ。笑えもしない。


「誰に、は分かった。で、なぜ?」


「リザベル様が高い魔力を持っていると言ったな。魔族はその魔力を糧にして生きているのだ。リザベル様ぐらいの魔力を手にした魔族は、不死を得るとまで言われている。嘘か本当かは知らん。だがそれを信じている魔族は少なくない」


「人のほうは」


「人間族はリザベル様の魔力ではなく、血筋を狙っている。名は明かせぬがとある大物貴族のご息女なのだ。リザベル様を妻にして権力を握ろうという魂胆なのだろう」


「というと脅威なのは魔族だけで、人は友好的かどうかは別として、いきなり殺しにかかってくることはないんだな」


ランダルが小さな咳をした。


「おそらくは」


「煮え切らない返事だな」


「貴族の事情など知らぬ。俺は戦士だ」


「あっそ」


会話の最中ランダルは一度もこちらを見なかった。視線が前方で固定されている。


あまり突っ込んで警戒心を持たせても厄介だ。作り話をするのならもう少し上手くやってほしい。


まあ容易く人を信用しないことだ。疑ってかかるくらいでちょうど良い。俺はランダルに出会って初めて保身的な好感を抱いた。チームとして組んでしまったからには、仲間が馬鹿だと困るのは俺なのだ。


思いの外ランダルは優秀な男だった。立ち位置からも、彼が俺に対して百パーセントの信頼を置いているわけでないことを見て取れた。俺の左側を歩いていたのだった。剣を腰の左に差している。俺との距離が一メートルぐらい。銃でも持ってれば話は別だが、返してもらったサバイバルナイフでは奇襲をかけようにも返り討ちにあうのがオチだ。それにこれは俺自身の問題なのだが、まだ体の使い方に慣れていないのだ。記憶に染みついた歩幅で歩くうちに違和感が膨れあがり、そのうちどうやって呼吸していただろうかという土台のほうにすら疑問を覚えてしまうのだった。体力がないのも辟易する。時計がないので目算でだが、俺たちは一時間の行進ののち十分ぐらいの休憩を繰り返して進んでいた。一時間がこれほど長く感じ、十分をこれほど短く感じたのは初めてだ。目覚めたときからブーツを履かされていたが、質の良い物だとは言い難い。これも歩行にストレスを感じる要因だ。


いま俺がしている格好がいわゆるメイド服なのだった。色が紺、ワンピースタイプ、長袖、裾が足首まである。これに白のエプロンのような前掛けのようなものをかけて、腰の後ろで紐を結んで落ちないようにしている。どうやら従者という役割になったらしい。そして顔にはぐるぐると巻かれた包帯。傍目には見たくない風貌であることは間違いなかった。


「確認するが、今はシュガナ村とやらに向かっているんだよな」


「そうだ。そこでリザベル様と落ち合うことになっている」


足を進めている途中でランダルが立ち止まった。後ろを振り返り凝視している。俺の視力ではおぼろげに茶色いものが見える程度だった。


「牛車だな」とランダル。


「ワーオ」と俺。

まるで中世か発展途上国だ。そういえば文化水準を聞いていなかった。ランダルが来ているチェインメイルなどからおおよそ察しをつけていたが、やはり高度な文明とは言えそうになかった。


「クマ殿は口がきけないことにしよう」


馬車に乗せてもらうつもりらしい。異存はなかった。こちらとしても足が棒になっているのだ。


しばらく道の端に座って待つことにした。一足先にブーツを脱いで放る。血豆ができていた。日本がアメリカに負けた理由のひとつに靴をあげる者が居る。当時支給されていた軍靴はサイズが四つしかなく、足を靴に合わせるのではなく靴を足に合わせるという考え方が一般的だった。サイズの合っていない靴を履いて行軍するだけで体力を奪われるというものだ。


村に行けば靴屋はあるのだろうか、いくらぐらいかかるのだろうか、いやまずは医者を探さなければ、と考えて金子の問題を思い出した。


「おい、そういえば俺への報酬とは別に、手付けとして金貨をくれるって話だったよな」


覚えていたのか、という表情でランダルが頷いた。


「そうだ。しかし金貨は俺が預からせてもらう」


「おいおい待ってくれよ」


「クマ殿はこちらの言葉を操ることができないのだぞ。どうやって物を買うというのだ」


「それこそ口がきけないふりをしてジェスチャーで対応すればいいだろう」


「何か必要な物があれば俺に言えばいい」


「回りくどいぜ。俺に金を持たせたくないならそう言えばいい」


「金を持って逃げられたらかなわん。牛車が来たぞ。もう黙っておけ」


真面目な顔をして言ってきた。薄々わかっていたが腹芸ができるタイプではないようだ。


牛車だ。大型の木箱に車輪がついただけの荷台を茶色の四本角の牛が引いている。手綱を握っているのが二十台後半の青年だった。少なくとも見た目は人間だ。荷台にはずた袋が詰んである。野菜らしきものが袋からこぼれて一個転がっていた。見た目にはジャガイモだが定かではなかった。


彼のほうから何か話しかけてきた。声音が一定でぼんやりとした印象がある。日本語と同じで母音が少ないのかもしれない。一つ一つの音を強調していないのだ。


「シュガナ村に向かっている」


ランダルが言った。日本語だがこれは自身に言語変換の魔法をかけているからそう聞こえるだけで、実際にはこちらの言葉で話しているのだった。


「もちろん礼はさせてもらう」


懐からコインのようなものを取り出した。銅でできているみたいだ。


青年がそれを受け取ると、手振りで荷台を指さした。どうやら交渉はうまくいったらしい。先にランダルが乗り込んだ。こちらを見ると上から手を差し伸べてきたが、振り払って自分の力で荷台に乗った。何か言いたそうに顔をしかめたが、ランダルは長剣を腰から抜いて抱え込むようにして座ると、瞑想するように黙ってしまった。

さほど狭くはなかった。足をずた袋の上に放ってある。青年がちらちらと振り返えって注意しようかと悩んでいるのを認めた。結局やらなかったのは俺の顔を見てのことだろう。


痛い上に痒いのだった。三度熱傷には届いていないだろうが楽観はできない。あるいは少しぐらいケロイド状に残っているかもしれないのだ。さほど顔の作りに固執したことはなかったが、こうまで酷くなってしまうと考え方をあらためなければならなかった。目立つのは禁忌なのだ。これではまともに尾行もできない。女に嫌がられるのも困る。しかしいまは俺こそが女なのだから、余計な男が寄ってこないだろうと自分を慰めた。あるいは慰めることで現実逃避をしているのかもしれない。


遅々として進んでいた。風景に変化がない。見渡す限り平原で、というのは相も変わらずなのだ。空にかかる雲のほうがまだ目を楽しませてくれる。風が強いのだった。俺は体を伏せて背中を壁につけた。芋虫のように丸まって寒さから身を守っている。目は開いていたが何も見ていなかった。床の木材がクローズアップされて視界を埋め尽くしている。左目が生きていたら物音に焦点を合わせていただろう。自堕落で、物憂げで、思考が間延びして虚無的になっている。体を起こしてまでランダルが何をやっているのかを確認する気にはなれなかった。


「村についたら外套を買わなければな」


声を認めると上から布が覆い被さってきた。生暖かい。ランダルが着ていた外套だったのだ。まず買うべきはズボンだろうと、俺は礼も言わずに袖を通した。そもそも口をきけないという設定なのだから、言葉を発する必要はないのだ。ついでとばかりに煙草を一本取り出してランダルに渡そうとした。火を点けて貰いたかったのだ。だというのにランダルは戒めるような表情を寄こしたあと、青年の背中に視線を移してしまった。


口から火を噴くという特殊技能を秘密にしているのかもしれない。それなら先に言っておいてくれと思いながら、外套のポケットをあらためた。中にひんやりとした感触がある。形状からコインのようだった。俺はランダルが視線を外しままで居るのを確認し盗み取った。


「あとどれくらいかかるのだ?」


ランダルの問いに青年がこちらというべきかそちらというべきか耳慣れぬ言語で返答した。


「そうか、日が落ちる前には着きそうか。名前がリンズというのか」


わざわざ復唱した。俺に聞かせているに違いなかった。


そののち青年が農民であり収穫した野菜を村に売りつけにいくことが判明した。そこそこ金になるらしい。この辺りで旅人を見るのは珍しいだの、戦争が始まっておっかないだのといった会話が続いている。ランダルがオウム返しに答えるのを不審に思ってはいるのだろうが、青年は時折こちらに目をやってはそらすだけで追求はしなかった。


下り道にはいって盆地に到達した。それから北に向かって緩やかな登り。穏やかな流れの川。橋を通って道がふたつに分かれた。右が森で真っ直ぐが地平線。進路を森に。左右の木々が整然としている。また轍の跡が深くなっているのを確認した。切り開いた通路なのだ。


前方に柵のようなものが見えてきた。次第に輪郭がはっかりしてくると、規模の大きさに気づいた。柵というよりは垣、垣というよりは塀。木で出来た門があって侵入者を拒むように囲いができていた。左側に川があって途中で板塀が途切れている。右のほうはずいぶんと奥まで塀が続いているようだ。雑木が邪魔をして終わりを目視できなかった。


守衛だろうか若者が槍を持っている。天に穂先、ただし油断はしていない。笑みを浮かべているものの、視線を一度も切らなかったのだ。治安が悪いのかもしれない。それともそれは現代人の俺が微温湯につかっているだけの感想であり、彼の対応はこちらの世界では一般的なのかもしれない。


まずリンズが対応した。彼と守衛が一通りの会話を済ましたのち、次にランダル。


「旅の者だ。この村で知り合いと待ち合わせている。もう着いているはずだが」


リンズと話しているときもそうだったが、守衛はランダルの言葉に耳を貸しながらも俺のほうをちらちらと見ているのだった。よほど不審に思われたのだろう。彼の勘ぐりは正しい。少なくとも俺が夜道でミイラ女にばったり出くわしたらとりあえず射殺する。罪にも問われまい。日が落ちたら色々と自制したほうが良さそうだ。


「こちらの女は俺の連れだ。口をきけないのだが怪しい者ではない」


守衛が二言三言。


「ああ、精神的なショックというやつなのだろう。顔に包帯をしているだろう。察してくれ」


ランダルがぬけぬけと言う。しかし目が伏せられていた。俺ははらはらとしながら成り行きを見守っていたが、どうやら嘘とばれなかったようだ。


問答が五分も続かなかった。開門したのだ。身元照会というにはおざなりだったが、おそらく戸籍制度がないのだろう。旅人が村に金を落としてくれる可能性を無視できない以上、守衛の判断にケチをつける者はいないはずだ。


ランダル、俺、牛、リンズの順になって門をくぐった。後方での足音が消えた。振り返るとリンズが辺りを見回している。彼は俺ではなくランダルに向かって言葉を投げた。


「そうか。世話になったな。商売が上手くいくことを祈っている」


実際にランダルが瞼を落として、口中で何かをかみ砕くように呟いたのだ。祈りの言葉に違いなかった。


リンズが去ってからも俺は口を開かなかった。村人の目があったのだ。視界内だけで二人。後ろからも視線がぶち当たっている。人家があって窓からそっと覗いている影をも認めた。家の形が高床式で、地上からの高さが一メートルぐらい。玄関口に向かって階段が取り付けられている。ただし鼠を警戒してという訳ではなさそうだ。屋根の勾配がかなり強い。豪雪地帯なのだ。そう思って意識的に視点をかえると雪国ならではの工夫がいたるところに見受けられた。洋の東西、世界の不同、どうにせよ人間のやることだ、そこまでの開きはないということだろう。


人の歩くところは土を盛って固められている。それ以外が雑草。人家が点々とあって隣の家までの距離が二十メートル以上離れていた。母屋、納屋と続き、共同の作業場らしきが作られている。一家あたりの敷地がかなり広く、同サイズの畑がついている。寒村という表現が相応しく、人工はさして多くないようだ。これでは宿も期待できないだろう。そもそも商いをしていないかもしれない。とてもではないが外部から金が落ちるのを期待しての村作りには見えなかったのだ。


宿で落ち合うのだと決めつけていた。直接そう言われた訳ではないのだが、そう思っていただから仕方ない。質問したいところだが注視の的は相変わらず。旅人が珍しいのが半分、旅人がミイラ女であることが珍しいのが半分ぐらいだろう。


ランダルが奥の方へ足を向けた。振り返りもしない。背中を蹴り飛ばしてやろうと思わないでもなかった。彼は俺に自制心があることを感謝するべきだ。


苛立ちと失意にも似たわびしさ。寂として風音。日射が沈みかけ辺りがほの暗くなってた。そのうち遠くから子供の笑い声を耳にした。近づくにつれ賑やかが増し、さらに近づいて声が潜められた。俺を見たのだ。通り過ぎざま、子供は絶句して棒立ちになっていた。


道が寂しくなってきた。徐々ににという感じではなく、右手に腰の高さぐらいの石文が並んで立っているのを発見してから、それが境界線だったみたいにまだかすかにあった生活音が消えてしまったのだ。ほとんど加工はされていない。形だけを見るなら、そこいらで転がっていた大きな石を拾ってきたみたいだ。ただし文字のようなものが一台一台に彫られ、いずれも古いながら人の世話がはいっていた。花が添えられていたのだ。やっと墓石であることに気づいたそのとき、ランダルが立ち止まった。彼は黙って墓石を見ていた。近づきはしないものの、長く黙したまま、そして目に同情とも自己憐憫ともとれる淡い光が瞬いていた。


「知り合いが?」


人気がないのを確認して俺が言った。


「そうだ」


曖昧にうなずいた。それから今見ていたものをすっと忘れたような顔付きになって左の方を指さした。木々で身を隠すようにして切妻屋根の木造建物がぽつんと建っていたのだ。


当然のようにランダルが先頭になってノックをした。


ドアが音をたてて開いた。蝶番が木材でできている。確認するとこれだけ真新しいのだった。研磨がうまくいっていないのである。


現れたのが目の下にやたら濃い隈ができている男だった。


俺以上、ランダル未満という身長だから百六十そこそこ。老齢。痩せ形で何となく姿に幸薄いものがある。彼はもみてをして俺たちを出迎えた。唇の曲がり具合から媚びのようなものを醸成していたのを認めた。色目をつかっているのだ。頭髪が薄く、ブルーの瞳、顔のそばかすは青年期への未練。パイル織物のシャツを着込んでいる。かなり年季が経っているようで毛が逆立っていたり所々剥げていたりした。そして彼はその物持ちの良さを誇るというよりは、恥と思う類の人種に違いなかった。俺の視線を躱したのだ。腕でそっと剥げを隠している。


「さっそくだが」とランダルが目を室内にやった。


隈の男がうなずき、先導した。手に火のついたローソクを持っている。テーブルがあり、椅子があり、かまどがあり、通路があった。進んでいき扉がふたつ。手前のほうを隈の男が指さした。


「すまないが我々だけにしていただけないだろうか」


ローソクを受け取ってから言った。その言葉でドアの前に俺とランダルだけになった。


手を持ち上げノックをしようとしてランダルが固まった。細かく息を吐いている。俺が見ているのに気づくと彼は苦笑いをしたのだった。どうやら緊張しているらしい。それで俺が一歩下がった。貴方が開けて下さいね、という訳だ。

「いくぞ」


誰ともなしに呟いてノックした。返事はない。数秒待ってランダルがドアノブを捻った。


部屋は三畳大のフローリング。打ち見で全体を把握できた。家具という家具が何もなかったのだ。天井の隅で垂らされた糸の先に蜘蛛がぶら下がっている。一度破り取った痕があった。慌てて掃除したという感じで、あまり綺麗とは言えない。物がないおかけでさっぱりしているように見えるのだが、床に靴が引っ付くような感触があって、廃墟の気配が漂っている。木で出来た上げ下げ窓が据え付けられ下半分が開けっ放しになっている。空気の循環が出来ていないのは明らかだった。ローソクの火が揺れもしないのだ。空気が濁ったまま残っている。

外が真っ暗に。外の闇とローソクの明かりの均衡が釣り合ったそのとき、窓からこちらを覗いている人影を認めてぞっとした。もっとも間違いだとはすぐに気づいた。人の背の高さで木が連続して植えられていたのだ。私生活を守るための盾に違いなかったが、果たして彼女はどう思っただろうか。

白い髪の少女だった。

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