第一話 嘲笑と絶望──俺の職業は『癇癪持ち』
高校に入学して、もう半年が過ぎた。
周りは部活や文化祭で盛り上がっているというのに――俺の居場所は、最初からどこにもなかった。
「おい、キョウセイ。ジュース買ってこいよ」
昼休み、机に突っ伏していた俺の背中に、拳がドンと落ちた。
「は、はい……」
反射的に立ち上がる。財布を握りしめ、足早に教室を出る。
俺の名前は――神崎 恭成。
ただの一生徒で、ただのいじめられっ子だ。
こんなのは、もう日常だった。
ノートを破られる。靴を隠される。笑われる。
最初は抗議しようとしたこともあった。だが、そのたびに「何だよその目は」と殴られ、黙るしかなくなった。
六か月。
たった半年で、俺は空気になる術を覚えた。
耐える。うつむく。気づかれないように息を潜める。
それでも、胸の奥では――小さな火種が燻り続けていた。
「なんで俺だけが、こんな目に……」
声にならない怒りが、静かに積もっていった。
その日も、いつものように俺の机には落書きがされていた。
マジックで大きく書かれた「無能」「ゴミ」。
クラスの笑い声が耳に刺さる。
「おいキョウセイ、掃除当番お前な」
黒板消しを押し付けられ、チョークの粉を浴びる。
笑い声。咳き込む俺を、誰も助けない。
……いや、一人だけ。
「……大丈夫?」
小さな声で、そっとハンカチを差し出してきたのは同じクラスの女子だった。
桜井 千尋
長い髪を後ろで束ねた、控えめな子。
いつも目立たず、静かに本を読んでいるタイプだ。
「こ、これ……使って」
差し出された布は、白地に小さな花の刺繍が入っていた。
「……ありがとう」
声が震える。
彼女はそれ以上何も言わず、すぐ席に戻っていった。
夜、自室の洗面台で俺はハンカチをそっと手洗いしていた。
――あの控えめな彼女の優しい声が、何度も頭の中で反芻される。
「……ありがとう」
ただそれだけで救われた。
だからこそ、汚れを残したまま返すなんてこと、俺にはできなかった。
――そして翌日。
昼休み、意を決して彼女の席へと歩み寄る。
「さ、桜井さん……これ、昨日の……」
その瞬間だった。
「おい、何やってんだよ」
背後から肩を掴まれ、俺の身体は乱暴に引き剥がされた。
「てめぇごときが、桜井としゃべれると思ってんのか?」
拳が飛んでくる。頬に衝撃、視界が歪む。
「やめろよ……俺はただ……」
だが止まらない。
腹、背中、顔――殴打が次々と降り注ぎ、教室中に鈍い音が響いた。
周囲は笑うだけ。誰も止めない。
血の味が口に広がり、膝が崩れ落ちる。
「……っ、俺が……なにしたっていうんだよ……」
押し殺していた感情が、胸の奥で爆ぜる。
憎しみでも、涙でもない。
もっと原始的で、もっと熱いもの――
――怒り。
胸の奥で燃え上がった炎は、もはや押し殺せなかった。
どうして俺だけが。
なぜ、俺が。
「もうやめて!!」
甲高い声が響く。
桜井が机を叩いて立ち上がっていた。
怯えた顔で、それでも必死に俺をかばおうとしている。
だが、その瞬間――
教室の床に、蒼白い光が奔った。
幾何学的な紋様が走り、机や椅子を飲み込みながら円陣を描いていく。
光は壁を駆け上がり、天井にまで広がった。
「な、なんだこれ――!?」
「床が……ひ、光って……!」
クラス中が悲鳴を上げる。
俺を殴りつけていた拳が止まった。
次の瞬間、眩い閃光とともに、視界が白に染まる。
炎のように燃える怒りを胸に抱いたまま、俺は――クラスメート全員と共に、光に中へと引きずり込まれていった。
視界が戻ったとき、俺は石造りの荘厳な広間に立っていた。
高い天井、燭台の炎、豪奢な赤い絨毯。
俺の周囲には同じ制服姿のクラスメートたちが、口々に騒いでいる。
「な、なんだここ!?」「城……?」
壇上に立つ老人が、長い白髭を撫でながら声を張り上げた。
「おお……!召喚の儀は成功した!」
「異界より来たる英雄様方、この世界をどうか救ってくだされ!」
ざわめきの中、広間の扉が開く。
現れたのは――息を呑むほどの美女だった。
金糸のような髪が揺れ、涙に濡れた青い瞳が俺たちを映す。
豪華なドレスに身を包んだ、誰が見ても“姫”と分かる存在。
「異界より来たりし英雄の皆さま……!」
震える声で、彼女は俺たちに跪いた。
「この世界は、魔王の軍勢に脅かされています。どうか……どうか、我らをお救いください……!」
涙が頬を伝い、床に落ちた。
教室の惨めな現実とは真逆の、眩い異世界の光景。
だが俺の胸に渦巻いていたのは、救いでも憧れでもなく――燃え盛る、黒い怒りの炎だった。
「は?ふざけんな!なんで俺たちが……!」
「勝手に呼び出して何言ってんだよ!」
突然の事態に叫ぶ者、顔を引きつらせる者。
混乱は一瞬で広がった。
だが――壇上の老人たちが深々と頭を垂れ、兵士や貴族が一斉に膝を折る。
そして、美しい姫の涙。
その光景は、否応なくクラスメートたちの心を絡め取っていった。
「……マジかよ、これ、ほんとに異世界……?」
「姫様が俺たちに救いを求めてる……」
動揺はやがてざわめきに変わり、しだいに「仕方ない」「やるしかない」という空気が広がっていく。
……なぜか俺だけが、その渦に飲み込まれずにいた。
「では……異界より来たりし英雄たちよ。今ここで、おぬしらの職を明らかにしよう」
壇上に立つ白髭の司祭が、厳かに声を響かせた。
まず呼ばれたのは、整った顔立ちで女子に人気の中心だった男。
皇城 煌……!
水晶が強烈に輝き、眩い光が大広間を照らす。
「おお……!これは――勇者!!」
司祭が高らかに告げると、場がどよめいた。
「勇者様だ!」「この方こそ救いの光!」
姫が両手を胸に当て、涙を浮かべて煌を見つめていた。
次に呼ばれたのは、乱暴者として知られる不良。
牙堂 蓮
俺をいつも虐めていたあいつ…
水晶は赤黒く燃え上がる。
「これは……闘喰鬼!」
「戦場においては無双の力を振るう戦士!」
クラスの連中が「すげぇ!」「やっぱ蓮だな!」と騒ぎ立てる。
牙堂はニヤリと笑い、拳を鳴らした。
続いて次々と鑑定が進む。
「剣聖だ!」「賢者だ!」「大賢者まで!?」「聖騎士だ!」
炎魔導士、神官――
仲間たちは次々と強職を授かり、広間は歓喜に包まれていった。
桜井 千尋……
水晶が清らかな白光を放つ。
「聖女……! 神に選ばれし癒やしの御手!」
「おおおっ!」「勇者様と聖女様が揃ったぞ!」
姫が涙をこぼし、臣下たちが一斉にひれ伏す。
桜井は戸惑いながらも小さく会釈した。
そして――
最後に……俺の番がやってきた。
水晶がかすかに明滅し、やがて鈍く濁った赤に染まった。
「……っ、こ、これは……」
司祭が言葉を詰まらせる。
やがて重く口を開いた。
「職業……『癇癪持ち』」
……は?
癇癪持ち? 俺が?
子供が駄々こねてるみたいな職業、それが俺の運命…だと?
クラスメイトの笑い声が広がる。
「なんだよそれww職業ですらねぇじゃんwww」
「無能すぎ!勇者パーティに要らねぇ!」
蓮が腹を抱え、皇城は勝ち誇った目で俺を見下す。
――俺が、癇癪持ち。
……ふざけんなよ。
胸の奥で、またあの炎が音を立てて燃え上がった。
召喚から数日後。
俺たちは王城の一室で、それぞれの力を確かめていた。
「声に出して『ステータス・オープン』と言えば、自身の情報を確認できます」
そう説明したのは、司祭の老人だった。
「ステータス・オープン!」
皇城が高らかに声をあげる。
目の前に光の板が浮かび上がり、その内容を得意げに読み上げた。
「……勇者、か。筋力1000、体力900、魔力900、敏捷800……すべて想像以上だな」
「すげぇ!」「やっぱ皇城は違う!」
クラスメイトたちが歓声をあげる。
「俺も!」
牙堂が叫ぶ。光の板には「闘喰鬼」の文字。
筋力は1200、敏捷も1000と最高峰。
「ははは! 見ろよ! 俺が最強だ!」
ごつい腕を誇示するように掲げ、牙堂は豪快に笑った。
次々と仲間たちが自分のステータスを確認する。
剣聖、賢者、聖騎士……誰もが高い数値と派手な職業を誇示していく。
そして――俺の番がきた。
「……ステータス・オープン」
恐る恐る呟くと、光の板が現れた。
【職業:癇癪持ち】
【筋力:50 体力:80 魔力:20 敏捷:60】
……最低。
全ての能力が底辺。笑い声が耳に刺さるように響く。
だが――俺はそこで目を奪われた。
スキルの欄に、ただ一つ、奇妙な文字が刻まれていたのだ。
そんな中、次の指示が告げられた。
「これより数日後、諸君には王城近くの初級ダンジョンに入ってもらう。モンスターとの実戦訓練だ」
「はあ!? ふざけんな!」
「いきなり命懸けとか、冗談だろ!」
クラス中が一斉に拒絶の声をあげる。
だが、皇城が一歩前に出た。
「……ここで逃げてどうする。俺たちは英雄として召喚されたんだ」
清廉な声。女子たちが目を輝かせる。
牙堂も腕を組んで笑った。
「ビビってんじゃねぇよ。どうせ弱っちいスライムくらいだろ」
乱暴な説得に、しだいに空気が変わっていく。
「……まあ、仕方ないか」
「勇者様も言ってるしな……」
結局、俺たちは全員でダンジョンに行くことになった。
俺は相変わらず胸の奥で、赤黒い炎が小さく唸りを上げていた。
ダンジョンに入ると、通路の奥からスライムがぬるりと這い出てきた。
「はっ、こんなの楽勝だ!」
剣を振るったクラスメイトがあっさり斬り倒す。
炎魔導士の火球が飛び、聖騎士が前に出て仲間を守る。
皆、初めての実戦に歓声をあげ、自信をつけていった。
だが俺は――。
目の前に転がる一体のスライム相手に、必死に剣を振るう。
「くっ……くそっ……!」
何度叩いても弾かれ、体力ばかりが削られていく。
「おい見ろよ、キョウセイがスライム相手に苦戦してやがる!」
「雑魚相手に負けそうとかマジでゴミだな!」
クラスメイトたちの嘲笑が突き刺さる。
しばらく進んだとき――床が淡く光った。
「っ、転移罠だ!」
次の瞬間、俺と数人の生徒が眩い光に包まれ、別の場所に吐き出された。
「ははは、なんだここは」
そこにいた牙堂が豪快に笑う。
筋骨隆々の腕でモンスターを叩き潰し、取り巻きも次々に敵を倒していく。
……強い。俺とは違う。
「おい癇癪持ち。暇だしお前で遊ぶか」
拳が飛ぶ。腹にめり込む衝撃。膝が崩れる。
「ぐっ……!」
取り巻きが笑い声をあげ、俺はただのサンドバッグにされていった。
――胸の奥で、また炎がくすぶる。
だが、それだけだ。何も出来ない。
その時、再び足元に光が走った。
「……転移の罠…?」
牙堂がにやりと口元を吊り上げる。
「なあ、癇癪持ち。いいこと思いついた」
俺を睨み下ろしながら、指で転移罠を示す。
「飛び込め」
「なっ……嫌だ!そんなの出来るわけないだろ!」
牙堂の笑みがさらに深くなる。
「じゃあここで俺がぶっ殺す。事故ですませりゃいい話だろ?」
心から楽しそうに笑う顔。
取り巻きも止めるどころか、俺を指さして馬鹿にしていた。
「おい、どうすんだよ、癇癪持ち!」
「どっちにしろ終わりだろ!」
涙が込み上げる。
「……俺が……何をした?俺が悪いことをしたのか?お前らがここまでするようなことを……俺が……!」
叫んでも、返ってくるのは腹を抱える笑い声だけだった。
誰も答えない。誰も止めない。
「お、俺が……なんで……」
言葉が震える。視界が涙でにじむ。
「なんで……俺だけが……こんな目に遭わなきゃいけないんだ……!」
膝をつき、声を張り裂けんばかりに叫ぶ。
「なあ……助けてよ……!誰か……助けてくれよ……!」
返事はない。
あるのは嗤いと冷笑だけ。
「……っ、あああああああああああああああああああッ!!」
涙と嗚咽が怒号に変わった瞬間、胸の奥で黒い炎が轟音を立てて爆ぜた。
理不尽、絶望、孤独――そのすべてが燃料となって、俺の内側で憤怒の火柱が立ち昇る。
「うるせぇ」
牙堂の拳が俺の頬を打ち抜き、身体が宙を舞った。
次の瞬間、俺は光の中へと叩き込まれていた。
クラスメートの嘲笑が遠ざかっていく。