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異世界化粧品店「コフレ・メイユ」繁盛記 ~元アラフィフ開発者と「穀潰し」と呼ばれた夫の逆襲~

作者: 坂道 昇

ああ、まただ。目の前の視界が、まるで古いフィルムのようにチカチカと激しく明滅し、デスクに積み上げた企画書の山がぐにゃりと歪む。手にしたカフェイン剤のシートは、最後の錠剤すらとっくに胃の中へと消えていた。「全ての女性に、輝く明日を」。そんな美しくも空虚なキャッチコピーを掲げながら、私自身の明日はもう、すり減ってほとんど見えなくなっていた。


限界なんて、もう随分前に通り過ぎていた自覚はある。誰かの美しさのために、自分の時間と健康、そして人生のすべてを捧げた果てに待っていたのは、あまりにもあっけない幕切れだった。享年五十四歳、高橋繭子。人生の最期に私の目に映ったのは、無機質なオフィスの蛍光灯と、埃の積もった白い天井だけだった。


次に目を開けた時、私を覗き込んでいたのは、見知らぬ若い男女の心配そうな顔だった。


「まあ、マーユ。お目覚めかい」


「お腹がすいたのか?それとも、どこか痛いのか?」


マーユ?誰のことだろう。そう問いかけたいのに、口から出るのは意味をなさない「あー、うー」という声だけ。手足を動かそうにも、まるで綿でも詰まっているかのように重く、自由が利かない。舌足らずな赤ん坊の脆弱な体では、肯定も否定もできず、ただ、ふにゃふにゃと泣くことしか許されなかった。


ここが、私が四苦八苦しながら生きてきた現代日本とは全く違う、どこか別の世界だと朧げに理解するまでには、さらに数年の歳月が必要だった。



レンガ造りの重厚な建物が連なる商業都市『アステリア』。その一角にある、そこそこの売れ行きを誇る雑貨屋『アシュレイ』の三女、マーユ。それが、私の二度目の人生の始まりだった。


父は商売のことしか頭になく、母は宝石のように美しい金髪碧眼の姉二人を溺愛していた。異質な黒髪黒目の三女は、存在しないかのように扱われた。ぼんやりとした意識のまま、姉たちのおさがりの、くたびれた服を着せられ、特に愛情を注がれるでもなく、かといって虐待されるわけでもなく、ただ静かに、空気のように日々は過ぎていく。


私は物置同然の小さな屋根裏部屋で、前世の断片的な記憶と、この世界の常識とを照らし合わせながら、息を潜めて成長の時を待った。


転機が訪れたのは、十二歳の誕生日を目前にした、ある晴れた日のことだ。姉たちの使いで、市場へパンを買いに行った帰り道だった。路地裏で、私と同年代の少年少女たちに取り囲まれたのだ。


「見ろよ、アシュレイのところの『泥水髪』だ!」


「黒髪なんて不気味だわ!まるで呪われているみたい!」


「瞳も真っ黒で、吸い込まれそうで気持ち悪い。呪いの人形よ!」


この世界では、太陽を溶かしたようなきらびやかな金髪や、月光を紡いだような神秘的な銀髪が至高とされていた。瞳の色もまた然り。空を映したサファイアの碧眼、森の木漏れ日のごときエメラルドの翠眼が美の象徴だった。


前世の日本でなら、誰もが羨むであろう私の艶やかな漆黒の髪と、大きな黒曜石の瞳、そして人形めいた愛らしい顔立ちは、ここでは「不吉で醜いブス」の証でしかなかったのだ。


心ない罵詈雑言と共に投げつけられた石塊が、私のこめかみを強く、鈍い音を立てて打ち付けた。鋭い痛みが走り、視界が赤く染まる。地面に倒れ込み、薄れゆく意識の中で、まるで決壊したダムのように、前世の記憶の濁流が一気に押し寄せてきた。


そうだ、私は高橋繭子。化粧品メーカーで企画開発部に所属し、女性たちの「美しくなりたい」という願いを叶えるため、身を粉にして働いて、自分の青春も、恋も、何もかもを犠牲にして、そして、誰に看取られることもなく独り寂しく過労死したんだ…!


「……って、思い出したところで、この状況はどうにもならないじゃないのよ!」


数日後、自室の粗末な手鏡の前で、私は頭に巻かれた汚れた包帯を指でつん、とつつきながら一人、悪態をついた。額の傷は幸い大したことはなかったが、心の傷は深かった。鏡に映るのは、ぱっちりとした二重に、すっと通った鼻筋。桜色の小さな唇。キメの細かく透き通るような白い肌。どう贔屓目に見ても、前世の自分が喉から手が出るほど欲しがった極上の美少女の姿だ。これがブス?冗談も休み休み言ってほしい。


「まあ、これがこの世界のグローバルスタンダードってわけね…」


嘆いても仕方がない。五十四年分の酸いも甘いも噛み分けた神経は、子供のいじめや理不尽な美の基準ごときではへこたれない。むしろ、最高の素材ボディを手に入れた今、私の心の奥底で眠っていた開発者魂が、再び燃え上がっていた。この世界には、まだ本当の「美」が足りていない。ならば、私がそれを創造してやろうじゃないか。


そんな決意を胸に秘めてから三年。十五歳になった私に、父が商談から帰ってきたかのような、極めて事務的な口調でこう言い渡した。


「マーユ、お前に縁談だ。街一番の大店『クローバー商会』の三男坊、レオン様がお前を娶ってくださるそうだ」


それは、有無を言わせぬ決定事項だった。厄介払いの娘に、拒否権などあるはずもない。リビングのドアの隙間から、姉たちが「あの根暗男に!?お似合いじゃない!」「醜い者同士、せいぜい慰め合えばいいわ」と嘲笑う声が聞こえてきた。


レオン・クローバー。その名に続くのは、ろくな噂ではなかった。


「何を考えているかわからない不気味な男」

「商才もなく、優秀な兄たちの陰に隠れるだけの穀潰し」

「一日中、薄暗い書庫にこもっている本の虫」……。


要するに、持て余し者同士をくっつけて、ついでに大店との繋がりも得ようという、親の浅ましい魂胆が透けて見えた。

だが、私に異存はなかった。この家から合法的に出られるのなら、相手が誰であろうと構わない。むしろ、商家の三男坊という立場は好都合ですらあった。


式の当日、初めて会った夫となる人は、噂が作り上げた幻影とは少し、いや、かなり違っていた。光を弾くプラチナブロンドの髪は、最高級の絹糸のように美しく、切れ長の碧眼は深淵のように静かで理知的だ。ただ、その瞳は常に長く美しい前髪に隠されがちで、誰とも視線を合わせようとしない。


周りの人間が彼に貼ったレッテルを、諦めと共に自ら受け入れてしまっているようだった。痩身で、どこか儚げな印象を受ける。だが、その内に秘められた知性の輝きは、私には隠しようもなく見えていた。



実家から追い出されるようにして与えられたのは、街外れの埃をかぶった小さな空き店舗と、侮辱的とも言えるわずかばかりの持参金だけ。けれど、前世で培った知識と経験を持つ私にとっては、それで十分すぎるほどの財産だった。


「レオンさん。ここから、私たちの店を始めましょう」


新居となる店の二階で、荷解きもそこそこに私が力強く宣言すると、彼は驚いたように少しだけ目を見開き、そして、ただ、こくりと静かに頷いた。


そこからが、私の、いいえ、私たちの本当の逆襲の始まりだった。

まずは、何年も使われていなかったであろう埃まみれの店の大掃除からだ。二人で袖をまくり、床を磨き、窓を拭く。黙々と作業を続ける彼の不器用な優しさに、私は少しずつ気づき始めていた。


重い家具を運ぶとき、何も言わずに私の分まで持ってくれたり、私が脚立から落ちそうになると、どこからか現れて、さっとその細い腕で体を支えてくれたり。言葉は少ないけれど、その一つ一つの行動は温かかった。


店がようやく人の住める状態になった夜、私たちは小さなテーブルを囲んでいた。


「それで、マーユ。君は、この店で何を商うつもりなんだい?」


レオンがおずおずと尋ねる。彼の深い碧眼が、ランプの光を映して揺れていた。


「はい。私は、この街の女性たちに『本物の美しさ』を届けたいんです」


「美しさ…?それは、ドレスや宝飾品のことかい?」


「いいえ、違います。もっと根源的なもの。素肌そのものを輝かせるための品…つまり、『化粧品』です」


「けしょうひん…?」


聞き慣れない言葉に、彼は小首を傾げた。この世界に化粧の文化がないわけではない。貴族の女性たちは、顔を白く塗り、頬や唇に赤を差す。だがそれは、肌に負担の大きい鉛白や、発色の悪い植物の汁を塗りたくるだけの、原始的なものだった。


私は熱を込めて語った。


「例えば、石鹸です。今この街で売られているものは、獣脂と木の灰を混ぜて固めただけの、汚れは落ちても肌の潤いまで奪ってしまう代物です。そうではなく、上質な植物性のオイルを使い、肌をいたわる成分や、心安らぐ香りを加えた、洗うたびに肌が美しくなる石鹸を作るんです」


さらに私は、花の蒸留水を使った化粧水、栄養豊富な植物油をブレンドした美容オイル、唇を保護し彩るリップバームなど、前世の知識に基づいた具体的な商品案を次々と並べたてた。それは、五十四年間、美を追求し続けた私の集大成ともいえる企画だった。

圧倒されているレオンを前に、私は一枚の羊皮紙を広げる。


「まずは、この『潤い石鹸』から始めます。これが、私たちの最初の武器です」


そこには、材料の配合比率から製造工程、期待される効果、原価計算、そして目標販売価格までが、私の拙い字でびっしりと書き込まれていた。


レオンは食い入るようにその計画書を見つめ、指でゆっくりと数字をなぞった。彼の表情が、初めて見るほど真剣なものに変わっていく。


「…驚いた。材料の原価から、製造にかかる時間、人件費まで考慮されている。そして、この価格設定。もし君の言う通りの品ができるのなら、これは…とてつもない利益を生むぞ」


彼の静かな声には、確かな興奮が宿っていた。


「ええ。ですが、そのためには最高の材料が必要です。レオンさん、あなたの力を貸してください」


翌日から、私たちの商品開発が始まった。私の無茶な要求リストを手に、レオンは街中の薬草店やオイル商を巡り、時には隣町まで足を延ばして、最高品質の材料を揃えてくれた。彼の商家で培われた確かな目利きと交渉術は、私の想像をはるかに超えるものだった。


「マーユ、君の言う『癒しの香草』だが、このラベンダーという薬草は、少し乾燥させすぎると香りが飛んでしまう。半日陰で、風通しの良い場所で管理するのが最善だ。

それから、このオリーブオイルは一番搾りのものだが、隣町の農家と直接契約すれば、今の半値で安定して仕入れられる」


書庫にこもってばかりいたという噂は嘘だったのか。彼は驚くほど植物の知識に詳しく、数字にめっぽう強かった。私の無茶な要求にも、的確な仕入れと緻密な帳簿管理で完璧に応えてくれた。彼の揺ぎないサポートがなければ、何も始まらなかっただろう。


そして、運命の日がやってきた。店の裏庭に設置した大鍋の前で、私は最後の仕上げに取り掛かっていた。レオンが揃えてくれた上質なオリーブオイルをベースに、数種類のハーブを独自にブレンドし、丁寧に時間をかけてかき混ぜていく。工房内に、心を落ち着かせるような優しい香りが満ちていく。


「…すごい。なんて、優しい香りなんだ」


見守っていたレオンが、ぽつりと呟いた。

固めた石鹸の種を木枠に流し込み、数週間、慎重に温度と湿度を管理しながら熟成させる。そしてついに、乳白色に輝く、宝石のような石鹸が完成した。


「レオンさん、試してみてください」


私は、洗い桶に張った水と、完成したばかりの石鹸を彼に差し出した。レオンは戸惑いながらも、その石鹸を手に取り、ゆっくりと泡立て始める。

次の瞬間、彼の碧眼が信じられないというように大きく見開かれた。


「なっ…!?」


彼の手のひらから、まるで雲のようにきめ細やかで、もっちりとした弾力のある泡が、後からあとから溢れ出てきたのだ。それは、彼が今まで知っている石鹸の、ごわごわとした粗悪な泡とは全くの別物だった。


「この泡立ち…信じられない…。それに、なんて滑らかなんだ…」


呆然としながら、彼はその泡で手を洗う。洗い流した後、自分の手の甲をまじまじと見つめ、そして、恐る恐るもう片方の手でその肌に触れた。


「…嘘だろ。洗っただけなのに、肌が…しっとりしている。いつもはカサカサに荒れていた指先が、滑らかになっている…!」


レオンは、驚愕に染まった顔で私を見た。その瞳には、初めて見る熱い光が宿っていた。それは、私の知識と技術への、純粋な尊敬と信頼の光だった。


「マーユ…君は、本当にすごい。君は、魔法使いなのかもしれない」


試行錯誤の末に完成した極上の石鹸は、「フローラの潤い石鹸」と名付けて、ようやく綺麗になった店の片隅に並べた。最初は「あのブスの店の怪しい石鹸だ」と、誰もが見向きもしなかった。しかし、長年の水仕事で手荒れに悩む、近所のパン屋の奥さんアンナが「香りがいいから」と試しに買ってくれたのをきっかけに、その評判は爆発的に広がっていくことになる。


「奥さん、聞いて!この石鹸を使ったら、ガサガサだった私の手が、赤ちゃんのようにもちもちになったのよ!」


「まあ!本当!?それに、この優しい花の香りに、一日の疲れが癒されるわ!」


彼女が井戸端会議で友人たちに熱心に勧めてくれたことで、口コミは瞬く間に街中を駆け巡った。私たちの小さな店には、噂を聞きつけた女性たちの行列が、連日途切れることなく続くようになった。



ある日、パン屋の奥さんアンナが、困り顔の若い娘を連れて店にやってきた。


「マーユちゃん、この子は隣の農家のリリアちゃん。畑仕事で、日焼けがひどくて悩んでいるのよ」


リリアは俯きながら、そばかすと赤みがかった肌を気にしていた。その姿に、前世で日焼け止め開発に心血を注いだ日々を思い出す。


「リリアさん、大丈夫ですよ。お肌を鎮めて、潤いを与える特別な化粧水を作ってみましょう」


そう力強く請け合ったものの、私の心は曇っていた。化粧水を作るには、カモミールやローズウォーターといった石鹸とは比べ物にならないほど繊細で高価な材料と、それらを蒸留するための専門的な器具が必要になる。石鹸の売上で日々の暮らしは安定したが、新たな研究開発に回せるほどの資金は、まだ手元に乏しかった。その夜、一人で開発計画と資金繰りの計算をしていた私は、深いため息をついた。


そんな私の背後から、レオンが静かに声をかけた。


「マーユ。資金が足りないのかい」


いつの間にか、彼が私の手元の羊皮紙を心配そうに覗き込んでいた。


「レオンさん…ええ、少し。でも、大丈夫。もっと石鹸を売って、少しずつお金を貯めれば…」


「それでは機会を逃してしまう」


レオンはきっぱりと言った。


「悩んでいる人を、すぐにでも助けたいんだろう?君はそういう人だ。…僕に、考えがある」


そう言うと、彼は翌朝、私がまとめた事業計画書だけを手に、一人で出かけていった。


彼が向かった先は、父が経営する『クローバー商会』の最大の商売敵である、老舗の『シルバーメイン商会』だった。

応接室でレオンを迎えた銀髪の厳格な当主は、腕を組んで言った。


「クローバーの三男坊が、何の用かね。勘当同然のお前に、我が商会と話すことなど何もないはずだが」


冷たい物言いに臆することなく、レオンは持参した事業計画書を差し出した。石鹸の販売実績と、新たな化粧水がもたらすであろう利益の予測、そして市場の分析。それは、私のアイデアに、レオン自身の緻密な分析が加えられた完璧なものだった。

当主はそれに目を通すと、鼻で笑った。


「面白い。だが、絵に描いた餅だ。博打に乗るつもりはない。それに、クローバーの息子に貸す金など一銭たりともない」


その言葉を聞くと、レオンは静かに立ち上がり、当主の前に進み出た。そして、次の瞬間、彼は床に両手をつき、深く、深く頭を下げた。プライドも、家名も、全てをかなぐり捨てた土下座だった。


「おっしゃる通りです。ですが、これは父の事業ではございません。僕と、僕の妻の事業です。どうか、僕たちの未来に賭けてはいただけないでしょうか。この通り、お願いいたします…!」


震える声には、彼の覚悟の全てが込められていた。今まで「穀潰し」と蔑まれ、うつむいて生きてきた青年が、愛する人のために初めて見せた、魂の叫びだった。

当主は驚きに目を見張り、そして、目の前の青年の瞳に宿る、揺るぎない光を見た。しばらくの沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。


「…面白い。お前のような男は嫌いではない。いいだろう、融資する。だが、条件がある。必ず、成功させろ」


夕方、店に帰ってきたレオンは、震える手で大きな金袋を私に差し出した。


「マーユ、これで、研究開発が続けられる」


私は、彼がどこで、そして『どのように』してこの大金を借りてきたのかを悟り、言葉を失った。私のために、彼がどれほどの覚悟で、どれほどの屈辱を乗り越えてくれたのか。胸が熱くなり、視界が滲んだ。


この資金を元に、私たちはすぐに化粧水の開発に着手した。数週間後、満面の笑みで店に駆け込んできたリリアの肌は、見違えるように透明感を取り戻していた。この化粧水は「フローラの雫」と名付けられ、屋外で働く女性たちの間で瞬く間に必需品となった。


店の経営が軌道に乗り始めたある静かな夜、帳簿を付けていたレオンが、ふと顔を上げた。


「マーユ。君のおかげで、毎日が本当に充実している。…昔の僕には、考えられないことだ」


ランプの光が彼のプラチナブロンドの髪を照らし、その表情に柔らかな陰影を落とす。私は、シルバーメイン商会での一件を思い出しながら、彼の言葉に耳を傾けた。


「僕には、優秀な兄が二人いるんだ」と、彼は静かに語り始めた。


「二人とも、父に似て商才に長け、弁も立つ。幼い頃から、常に兄たちと比べられてきた。『なぜお前は兄たちのようになれないんだ』と。

僕は…人前に出て話すのが苦手で、数字をいじったり、古い文献を読んだりする方が好きだった。父にとっては、そんな僕は商売の役に立たない『穀潰し』でしかなくてね。いつしか、僕自身もそう思うようになっていた。どうせ自分には何の価値もないのだと」


伏せられた碧眼には、深い諦観の色が滲んでいた。


「そんなことありません!」


私は、彼の帳簿を指さした。そこには、素人目にもわかるほど緻密で、完璧な数字が並んでいた。


「レオンさんのこの力は、誰にも真似できない宝物です。あなたの正確な知識と管理能力がなければ、私のアイデアはただの夢物語で終わっていました。あなたは、私の、この店の心臓部です。あなたは穀潰しなんかじゃ、決してない」


私の真剣な言葉に、レオンはゆっくりと顔を上げた。その瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。彼は何も言わず、ただ、私の手をそっと、しかし力強く握りしめた。その温もりは、どんな言葉よりも雄弁に、彼の感謝と決意を伝えてくれていた。


その噂は、やがてこの街の支配者であるオルコット伯爵、その夫人の耳にも届いた。

お忍びで店を訪れた伯爵夫人は、私の作った石鹸と化粧水、そして肌に関する私の専門的な知識に深く感銘を受けたようだった。


「…マーユと申したか。そなたの知識は本物だ。…恥を忍んで打ち明けるが、私の悩みも、聞いてくれるかい?」


美しく着飾り、権力の頂点に立っていても、年齢による容赦ない肌の衰えには抗えない。どんな高価なドレスや宝石も、失われたハリと艶を取り戻してはくれない。

そんな貴婦人の切実な悩みに、私は前世の知識を総動員して作り上げた、数種類の希少な植物オイルを黄金比で配合した特製の美容オイルを、恭しく献上した。


結果は、言うまでもない。


後日、壮麗な伯爵家の城に正式に招かれた私は、肌が見違えるように若々しく輝く伯爵夫人から、直々に「伯爵家御用達」という破格の称号を賜った。


「マーユ。そなたは、このアステリアの女性たちの救世主だ。称号だけでは、そなたの功績に報いるには足りぬ」


そう言うと、夫人は一枚の羊皮紙を私に手渡した。それは、街の目抜き通りにある、大きな建物の権利書だった。

「私の所有する店舗の一つを、そなたに授けよう。そこを新たな店とし、名を『コフレ・メイユ』――マーユの宝箱とするがよい。その宝箱から、これからも多くの奇跡を生み出しなさい」


予想だにしなかった褒美に、私たちは言葉もなく顔を見合わせた。街外れの埃まみれの店から始まった私たちの物語が、今、街で最も華やかな場所へと繋がったのだ。


夫人の後ろ盾を得て、新たな『コフレ・メイユ』は輝かしい門出を迎えた。貴族の令嬢からは「舞踏会で使える、肌に優しい紅が欲しい」という声が寄せられ、私たちは蜜蝋をベースにした保湿効果の高いリップバームと、麦粉を使った軽やかなおしろいを開発した。これらは貴族社会で大流行し、『コフレ・メイユ』の名声は不動のものとなった。



……もちろん、それを黙って見ているような実家ではなかった。

金の匂いを嗅ぎつけた両親と姉たちが、鬼のような形相で新しい店に押しかけてきたのだ。


「マーユ!この恩知らずめが!誰のおかげでここまで大きくなったと思っているんだ!」


「その儲けは、私たちアシュレイ家のものじゃないか!さあ、有り金全部よこせ!」


店の商品を勝手に持ち出し、取引先に圧力をかけ、並んでいるお客に根も葉もない悪評を流す。その嫌がらせは日増しに陰湿さを増していった。レオンが何度も冷静に追い返したが、彼らは全く聞く耳を持たなかった。


その日も、母が店の前で「成功した娘に捨てられた、可哀想な薄幸の母親」という設定の、実に陳腐な三文芝居を熱演していると、一台の豪華な紋章入りの馬車が、静かに店の前に停まった。


降りてきたのは、烈火の如き怒りの表情を浮かべた伯爵夫人その人だった。


「私の愛する『コフレ・メイユ』に、なんという狼藉を!あなたたち、何様のつもりですの!」


夫人の氷のように冷たく、それでいて凛とした声が、大通りに響き渡る。私の両親と姉たちは、蛇に睨まれた蛙のようにその場で凍り付いていた。


「こ、これは伯爵夫人様…!いえ、これはその、娘の教育を…」


「教育?こんな往来で、店の評判を貶めるのが、あなた方の教育方針ですの?聞き捨てなりませんわね。『コフレ・メイユ』は、今やこのアステリアの経済を潤す重要な店。その価値を貶めることは、この街そのものへの反逆とみなします」


伯爵夫人の怒りは、街の秩序を揺るがすほどの力を持っていた。彼女が一つ指を鳴らすと、どこからともなく屈強な衛兵たちが現れ、私の家族を取り押さえた。


「この者たちを捕らえなさい。アシュレイ雑貨店は即刻営業停止。そしてこの一家は、明日、広場にて公開むち打ち三十回の刑に処した後、二度とこの大陸の土を踏めぬよう、南海の孤島へ永久追放とします!」


「そ、そんな!お慈悲を!」


「マーユ!お前からも何か言ってくれ!私たちは家族だろう!」


衛兵に連行されながら、最後まで私を罵り、金切り声を上げる姉たちの声も、もう遠い。嵐のように現れ、そして嵐のように去っていった家族の背中を、私はただ静かに見送った。何の感情も湧いてこなかった。


静寂が戻った、広くなった新しい店で、レオンがそっと私の手を握る。いつものように伏せがちだった彼の瞳が、今はまっすぐに私を見つめていた。


「マーユ。君はもう、一人じゃない。僕がいる」


「…レオンさん」


彼の大きな手のひらは、少し不器用だけれど、とても温かかった。


「君がこの世界に、僕の前に現れてくれて、本当によかった。君は、僕の人生を変えてくれた。僕に、生きる意味を教えてくれたんだ」


「私も…」


込み上げる熱い想いが、言葉となって溢れ出す。


「私も、レオンさんがいてくれて、本当によかった。あなたが信じてくれたから、私、ここまで来られたんです」


見つめ合う瞳に、ランプの光が優しく揺れる。レオンが、もう片方の手でそっと私の頬に触れた。その指先の微かな震えが、彼の愛しさを伝えてくる。


ゆっくりと彼の顔が近づき、そっと唇が重ねられた。

それは、初めての、優しくて、少しだけ甘い味がするキスだった。長い孤独の時間を溶かし、二つの魂がようやく一つに結ばれたような、温かい温かいキス。

唇が離れた後も、互いの額を寄せ合ったまま、私たちはしばし言葉を忘れていた。ただ、幸せだけが、静かな店に満ちていた。


過労死した五十四歳の私。いじめられていた十二歳の私。そして今、最高のパートナーと共に、自分の力で本当の幸せを掴んだ私。

窓から差し込む柔らかな月光が、美しく並べられた化粧品の瓶をキラキラと照らし出す。それはまるで、これから始まる私たちの輝かしい未来を、祝福してくれているかのようだった。

ご一読いただきありがとうございます!

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言葉足らずでした。 生まれたての赤ちゃんの頃、おなかすいたの?とか、声かけしてるから、愛情はあったのだろうねーと思って、読んでました。 髪の毛はえてきて、周囲の言葉とか、上二人との違いとかで、変わ…
見知らぬ男女の心配そうな顔… これは、両親ですか?
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