第6話
「横井武史です」男性が被っていたキャップと取り、小さく頭を下げると、
「弘子です」隣にいた女性は少し恥ずかしそうにしながら名前だけを言った。
「栗原辰則です。まだ、陶芸家にはなっていませんがそうなる予定ですので、よろしくお願いします!」栗原は大きく頭を下げて言った。
「で、お急ぎの用事は何ですか?」待ちきれないという感じの高橋は栗原が頭を上げる前に訊いてくる。
その場の雰囲気から、3人で話していた事が想像と違っていたと察した栗原は
「えーっと………」自分が見た事をどう話したらわかって貰えるのかと、考え込んでしまった。
すると、高橋が突然何かに気付いたように、
「そうだ! 栗原さん、軽トラは要らんかね?」何故か嬉しそうに大きな声で告げ、「ここじゃ、車がないと暮らせんし、材料なんかを運ぶのに必要なんじゃないかい?」と続ける。
「えっ…」いきなり軽トラが要るかと訊かれ、どう答えたら良いのかわからないでいると高橋は横井夫妻の方を向いて、
「ここで売れば手間が掛からんし…。どうだろ、少し安くしてやったら」真面目な顔になって言った。
そのやり取りの意味がわからずに困惑したままの栗原を見て、
「実は、ウチの軽トラを引き取ってくれる人がどっかにおらんかと、高橋さんに相談してたとこなんですよ」と武史が笑いながら説明する。
栗原も荷物を運ぶ為に車が必要だと思っていたから、
「そのうち購入しようとは考えていましたが軽トラ、要らなくなったんですか?」その理由を訊ねてみると、
「就職して島を出る息子が都会では車はいらんからと言って、自分のワンボックスを置いてったもんだから古い軽トラが余ったんです」武史は店の外に停めた車を指差しながら言った。
「年代物だから、10万円くらいでどうだろか?」腕を組んで考えていた高橋がそう告げると、
「ああ、それでいいよ!」武史はそう言いながら軽トラの鍵を栗原に差し出す。
「ち、ちょっと待ってください…。今は10万円も手持ちがないし、保険や名義変更もしないと…」栗原は差し出された鍵を両手で押し返すような仕草で応えるが
「いや、今払えってわけじゃないですよ」横井は笑いながら言うと、「金は家に届けてくれりゃいつでもイイんですが、ウチは島の反対側だからここみたいに歩いては来られませんよ」再び軽トラの鍵を差し出した。
「保険は誰でも運転出来るようになってるし、名義変更なんてやらんでもイイさ」と横井がなかなか受け取らないその手を取って、鍵を握らせるので、
「じゃあ、明日必ず代金をお持ちします」栗原はそう言って頭を下げる。
そのやり取りが終わるとずっと黙っていた弘子は
「そういえば、お急ぎの用事がおありだったんじゃないですか?」と思い出したように訊ねるが今の栗原にはもう話す程の事ではないように思えていた。
歩いて来た人がそこで初めて会う人から軽トラを譲り受け、それに乗って帰るなんて聞いたことないが、それがこの島では普通だと言うなら自分が山で目撃したことも騒ぎ立てるようなものではないように思えたのだ。
ウエットスーツ姿の人は確かに奇妙だったが伝統的な踊りの衣装みたいなものかも知れず、どちらかと言えばそうであって欲しかったから、
「いえ、大した事ではないんです。軽トラが手に入ったら嬉しくて、もうどうでも良くなりましたよ」栗原は笑って話をごまかす事にした。
「すべて丸く収まり、めでたし、めでたしだ!」高橋はそう言いながら店を出ると、停めてあった軽トラックに乗って帰っていった。
横井夫妻は店主のおばあさんが戻るまで見世番をすると言うので、次の日に代金を持参する約束をして栗原は一足先に店を後にした。
降り始めた霧雨の中、歩いて船着き場まで行くと荷台に「横井農園」と黒い文字のある、手に入れたばかりの白い軽トラに乗り込んだ。
土の匂いが漂う車内で大きく深呼吸してからキーを捻るとブルンッ!という軽快な音を響かせてエンジンが動きだす。
燃料計の針が真ん中より少し上まで行くのを見た栗原は少しドライブしたくなり、フロントウインドーに付いた小さな水滴をワイパーで一気に吹き飛ばすとゆっくり車を出した。
あちこち走り回って自宅に戻ると階段の横に造られたスロープを使って敷地へ乗り入れる。
小雨の中、車をゆっくり走らせながら停める場所を捜すと作業小屋と焼き窯の間が軽トラックにピッタリだと気付いた。
これまでは粘土を乾燥させる場所にしか使えないと思っていたが軽トラのサイズなら左右に余裕があり、今日のような雨天でも大きな屋根のお陰で濡れずに積み下ろしが出来る。
バックして後ろから車を停めてみると、そこに大きな屋根を造った理由が良く分かった。
車から降りた栗原は山を見上げて茂みの道で目撃した奇妙な人を思い出したが、軽トラックを手に入れた嬉しさと何かあれば車で逃げられるという安心感から、あまり恐怖を感じずにいられたのだった。
夕飯を食べて入浴を終えると今日の不思議な体験や軽トラックを手に入れた事を由紀子へ伝えたくなり、テレビ電話を繋ごうとタブレット端末を手に取った。
栗原はテレビ電話の通話ボタンを見詰めた後、思い直してゆっくりテーブルの上に戻す。
忙しくなると聞いてしばらく電話を掛けないようにしていたが、由紀子からも連絡がなかったので現在の状況が分からず気が引けたのだった。
電話の代わりに短いメッセージを送るともう、やる事がなくなったが山での体験から縁側の窓を開け放つ気にもなれず、星空を眺めるのはやめて寝室に行く事にする。
電気を消して寝るのが不安で廊下や他の部屋の明かりまでも点けたままベッドに入ると眠れず、ニュースでも読もうとスマートフォンを手に取るとようやくそこで今日、山へ出掛けた目的を思い出した。
動画を撮りながら登山道を上がっていた筈だが録画を止めた記憶はなかったので確認してみると、55分24秒の長さでデータが保存されている。
その録画の中に黒いウエットスーツを着た奇妙な人達が映っているかもしれないが、それを見て恐怖に襲われると寝られなくなってしまうので明るい時間に確認する事にしてニュースアプリを開いた。
ニュースの見出しに読みたいものがなく、アプリを閉じた栗原は
「せっかく良さそうな粘土を見つけたのに…、どうすればいいんだろう…」粘土のことを思い出して呟くと、夏用の掛布団を頭から被った。