第22話
夕方になり、部屋の片付けが終わった由紀子は引っ越し荷物の中からノートパソコンを取り出すと、勤めている設計事務所宛てに辞表を書き始めた。
名前の横に押印し、畳んで封筒に入れるとそれをじっと見つめて、
「これでイイのね…。スリムが教えてくれた通り、必要とされない所にしがみ付くことはないわ…」何かを振り払うように呟いて封をした。
郵便ポストのありかを訊ねる為に部屋を出てきた由紀子が栗原を探すと、段ボールを抱えながら母屋とアトリエを行ったり来たりしているのが縁側の窓越しに見える。
大声で呼び止めようとして、縁側の端に家の様子を伺う宇宙人達がいるのに気付いた。
すぐにあの3人だとわかった由紀子は久しぶりに会えた嬉しさから少しふざけてみたくなり、皆を驚かそうとして障子の影に隠れる。
見つからぬようそっと覗いてみるとシニアとスリムはただ立っているだけだったが、ジュニアはその小さな鼻をガラスに押し当て、まるでいたずらっ子のようにしていた。
それを見て思わず微笑んだ由紀子は脅かすのは止め、
「あら、久しぶりねー! みんな元気にしていた?」障子から歩み出ると、そこで初めて気付いたフリをして縁側の窓を大きく開けた。
すると、ジュニアが縁側に立つ由紀子を見上げながら2回瞬きした後、ゆっくり頭を傾げる。
その仕草が何を意味しているのかわからず不思議そうに見詰める由紀子に黙ったままのジュニアはゆっくり目を細めてから、口の両端を上げて見せた。
「!!!」
それを見た瞬間、由紀子は驚いて言葉が出なかったが、
「…出来るようになったのね?! …一生懸命に練習したのね!」とすぐに感嘆の声を上げた。
「どうです、笑顔が出来ていますか」とジュニアは訊ねる。
表情を保ちながらなので話し方はいつにも増して変だったが、その完璧な笑顔に感激した由紀子は裸足で縁側から飛び降り、ジュニアを抱きしめた。
抱きしめながら目の前に立つシニアとスリムへ目をやると2人共目を細めていて、口の端を上げようと力を入れているのかその顔を少し震わせている。
アトリエから出てきた栗原が皆に気付き、こちらへやってくるのが見えた由紀子は
「みんな、一生懸命練習した成果を見せに来てくれたのよ! とっても上手になったの!」そちらを向いて嬉しそうに叫んだ。
栗原が近づいても由紀子に抱かれたジュニアの表情は見られなかったが、シニアとスリムの2人は確かに目を細め、口を横に広げているのがわかった。
笑っているというより、泣き出しそうな顔にしか見えなかったが明らかに以前とは違う表情をしていた。
その2人を見て驚く栗原に
「ほら、ジュニアを見て!」由紀子がジュニアの両肩を持って反対を向かせた。
「!!!」
栗原も由紀子と同じように言葉を失った。
それは、微笑みと言うより完全に笑っていると言った方が良いくらい豊かな表情で、見ている者の気持ちまで楽しくするような笑顔だった。
これまでと別人のような表情を見て驚くと同時にジュニアが愛嬌ある男の子のように見え、可愛く思えてくる。
「正しく出来ていますか」ジュニアが訊ねるその口調に、これまでにない違和感を持った栗原は
「はい。いつもの話し方がすごく変に感じるくらい、イイ笑顔が出来ていますよ」そう答えると、
「話し方も勉強した方がイイわね!」ジュニアの顔を覗き込むようにしていた由紀子も頷きながら言った。
笑顔を作るのは止めて、いつもの無表情な顔に戻ったスリムが
「我々2人も同じように練習したのですが、まだジュニア程には出来ずにいます」栗原と由紀子を見て話す。
栗原には無表情に戻ったその顔が上手く出来ないのを残念がっているように見え、
「シニアもスリムも違う表情をしているとハッキリわかりますから、かなりの進歩だと思いますよ」と慰めてみるが何も返ってこないので、「感情の方はどうですか? 僕と由紀子に対する感覚に変化はありますか?」と栗原は話題を変えた。
すると、
「我々2人は何も変わっていませんが、ジュニアは感情が芽生え始めたのか由紀子さんの名前を時々口にしています。笑顔を上手く作れるのは、その感情が手助けしているのかも知れません」今度はシニアが答える。
「シニアもスリムも感情のような感覚を持っているんだから、そのうち目覚める可能性は十分にありますよ」栗原は期待を込めて言った後、「そうだ、以前、芸術も理解したいと言っていましたよね。陶芸が目覚めた感覚を発展させるのに役立つかも知れないので今度やってみませんか? 引っ越し荷物の中にろくろが2つあったので、アトリエのと合わせれば皆で出来ますよ。手で粘土をさわることによって身体の感覚が刺激されるのもイイかも知れない…」と嬉しそうに続けた。
「ジュニアちゃん、どんなものが作りたい?」それを聞いていた由紀子が楽しそうに訊くと、
「わかりませんが、良いと思うものならやりたいです」ジュニアは笑顔に全くそぐわない普段の口調で答えた。
「今後は笑顔作りと芸術の両方を勉強するのですね?」シニアが栗原を見て言うと、
「それと、それぞれに合った話し方の勉強もね!」由紀子が嬉しそうに付け加えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、由紀子は辞表が入った封筒を投函するためにポストがある船着場の売店まで歩くことにした。
ここに来てからまだ歩いたことのない海沿いの道を行ってみたくて栗原が軽トラックで送ると言うのを断り、1人で出掛けることにしたのだった。
山の上を回るトンビの声を聞きながら海を眺め、潮風が吹く砂浜を歩きながら、これまでの人生について考えた。
そうして頭の中を整理しながら、2時間程かけて売店の前までやって来た由紀子は1度大きく深呼吸をした後、封筒をポストに入れる。
赤いポストを見詰めたまま、立ち尽くしていると、
「笑顔でいれば、きっとイイ結果になるさ…」誰かの静かな声が耳に届いた。
振り返ると、売店のガラス戸が開いたままの入口におばあさんが1人、由紀子に笑顔を向けて立っていた。
割り切った筈だったがいつか後悔しそうな気がして、ポストの前で自問自答を始めてしまった由紀子は、おばあさんの言葉に救われた気がして涙が自然に溢れてきた。
ポロポロと大粒の涙を流す由紀子を見たおばあさんは
「あらら、笑ってなきゃ良い事が逃げてっちゃうよ。ほら、笑って!」そう言うと、両手の人差し指で口の両端を押し上げ、「人の顔ってのは、どんなに悲しい時でもこうすりゃ笑った顔になるんだ。やってごらんよ」と告げる。
しばらく様子を見ていたおばあさんは、
「そうして時が過ぎればいつか必ず良い日がやって来て、本当に笑えるようになるんだから」そう言って優しい笑みを浮かべた。
由紀子がその優しさに応えようと人差し指で笑顔を作ると、
「ほーら、美人さんになった」おばあさんはそう言って店の中に戻っていった。




