第2話
生活に必要なものは全て引っ越し業者の手で運ばれていたから、家の中はすでに一通りの家具が置かれ、荷物の段ボール箱があちこちに積まれていた。
空気を入れ替えることにして各部屋の窓を開けて回り、最後に海側の窓を開けると、そこから少しベタつく夏の潮風が一気に流れ込んで家中を渡り始める。
その風がとても心地良く、万歳するように伸びをした栗原はそのまま畳の上に寝転んで目を瞑った。
「あぁ~、風が気持ちいいなあー」
大の字で寝転んだまま目を開けると海側から差し込む西日が、暗くなり始めた天井をオレンジ色に明るく照らしている。
静かな部屋で1人床に寝ていた栗原は東京に残してきた妻の事を思い出し今朝、別れたばかりだったが少し恋しくなった。
「一緒なら寂しくないんだけど、自分のわがままだから仕方ないか…」そう言うと勢いをつけて床から起き上がり、食事の支度をする為に台所へ向かう。
今日、島に越して来たばかりでは台所に食材がある筈もなく、支度すると言っても引っ越しの段ボールから取り出した乾そばを茹でるのに鍋を火にかけるだけだった。
そばを食べ終えて時計に目をやると、まだ6時を過ぎたばかりだ。
先月の今頃なら会社で打ち合わせの真っ最中だがここはそんなこととは無縁に思え、栗原は自分が全く別の次元にいるような不思議な感覚に包まれていた。
これまでのように仕事中心で生活すればプライベートもスケジュール化しないとこなせないのだろうが、当前のように遊ぶことや食べることまでスケジュール化してたことが不自然に思えた。
「陶芸家になりたかったのは、こんな時間が欲しかったからなのかも知れないな…」栗原は時計を見ながら呟き、「明日の事は明日考えればいい、というか今、やりたいと思う事をやればいいんだ」そう言って何をしようか考えてみるが思いつかない。
やりたいことを探しながら家の中を歩き回ると、浴室を通り過ぎたところで最近、湯船に浸かっていないないことに気付き、風呂に入ることにして早速蛇口をひねる。
湯船に浸かりながら好きな動画でも見ようと思って持ち込んだ、タブレット端末の時刻を見ると6時半を示していた。
どうしても妻の声が聞きたかった栗原はまだ仕事中かも知れないと思ったが、残業してなければ家で食事の支度を始めている頃なので、とりあえずテレビ電話を繋いでみることにした。
スマートフォンを呼び出すとすぐに繋がり、心配そうな表情の由紀子が画面に映し出される。
「ごめん、まだ仕事中だったかな?」栗原が少し申し訳なさげに話し出すと、
「ううん、大丈夫。ちょうど今、家に着いたところだけど何かあったの?!」トラブルが起きたと思ったのか、早口でそう訊いてくる。
「こっちは順調で何も問題はないんだけど、どうしてるかと思って…」歯切れ悪く話す栗原とは対照的に
「どうしてるかって…、今朝別れたばかりなんだから何も変わってないわよ。で、そっちはどうなの?」由紀子はハッキリ答えた。
仕事を終えたばかりの由紀子の声は忙しい都会の日々を感じさせ、田舎の島でのんびりしている罪悪感を栗原に抱かせた。
明日の事は明日考えればいいとさっき思ったばかりなのに、いつの間にか東京にいた時の感覚に戻ってしまい、ゆったり過ごすことに何か罪の意識を持ち始めていた。
「この通り、今日は風呂に入ってのんびりしているけど、明日から忙しくなるよ」栗原は自分だけ暇なのが申し訳ない気がして無意識にそう答えたが、
「自然が豊かで静かなのよね? そんな所に住んでみたいと思うけど、東京で働いている限り私がそっちに行くのは難しいわね。いつまでこの仕事を続けるのかわからないけど…」由紀子はその複雑な心境より2人の将来のことの方が気になっているようだった。
「僕が陶芸で食べていけるのか判らないし、じっくり考えてからでいいよ」自分のわがままに無理やり付き合わせてはいけない思い、そう応えると、
「そっちに住むかどうかは別にして、私が重要なプロジェクトを抱えてなければ一緒に荷物の片付けだって出来たのに…、何も手伝えなくてごめんね」由紀子が済まなそうにする。
栗原は何か楽しいことを話題にしたくて、
「どこかで陶芸に使える粘土が採れると聞いているから、明日は山へ探検に出掛けてみるよ! で、午後からは焼き窯の修理だ!」と元気良く言ってみるが、何かに夢中になると周りが見えなくなるのを知っている由紀子は
「知らない場所ないんだから無理して危険な所へは行かなようにしてね。窯の修理だって怪我しないように気を付けてよ」と心配しながら告げた。
その由紀子は新宿にある有名な建築家が経営する設計事務所に6年前から勤めている。
今年の始め、大きなプロジェクトの社内コンペで由紀子の案が採用されることになり、その実施設計の責任者を任されて現在は多忙を極めていた。
栗原の方は大学卒業後、10年程ウェブデザイナーとして働いていたが中学の頃から持っていた陶芸家になる夢を諦められず、昨年の秋に会社を辞めて大学で指導してくれた陶芸家に1年間みっちり土作りを教わってからこの島への移住を決めたのだった。
陶芸家を目指していた栗原は工芸科で学んでいたが、20歳の時に『異文化交流会』と銘打った様々な科の学生が集うサークルで建築科の由紀子と出会い、5年前に結婚したばかりだった。
普段は何気なく交わしている会話も、違う場所でしかも画面越しとなるといつものようにはいかず、内容を考えすぎてしまうせいで2人共、徐々に言葉が少なくなっていく。
湯船に浸かりながら話をしていた栗原はのぼせるといけないからと言って、テレビ電話を終えることにした。
のんびり浸かるつもりだったがそんな気分ではなくなり、手早く身体を洗って風呂を出た。
寝室でパジャマに着替えると1日が終わった気分だったが、まだ寝るには早いのでとりあえず新しいマットレスの寝心地を試そうとベッドで横になってみる。
そのまま深呼吸して目を瞑ると何も音がしない家の中はとても静かだった。
海側の窓からは波の音がそして、山へ続く小道がある家の裏手からは知っている鳴き声に混じって知らない虫の声もする。
東京の自宅では常にインターネットラジオの音楽を流していたので、あまりの静けさで寂しくなった栗原は慌てて起き上がると、引っ越し荷物で別の部屋に置きっぱなしだったテレビを寝室へ運んでくる。
アンテナを繋いでスイッチを入れるとすぐに画面が明るくなり、帰宅後にいつも食事をしながら観ていた賑やかな番組が流れてきた。
ホッとしてようやくいつもの自分に戻れた気がしたが、しばらく観ているとテレビの中の世界が昼も夜もない都会そのものに思えてきて、別次元にある気がしてくる。
時計に目をやると7時を回ったばかりでようやく夜が始まったところに思えたが、窓から外を見ると真っ暗な闇が広がっていた。
それを見た栗原はここで昼夜を分かつのは時計ではなく自然だと思い、7時という時間がこれまでのものとは全く違うように感じた。
おそらく、明るくなれば朝で暗くなったら夜というふうに自然が昼夜を分つだけでなく春は種を播き、夏が来れば伸びた雑草を刈り、秋には実りを収穫するという具合にやらなければならないことの期限まで示してくれるのかも知れない。
さっきまでは明日の事は明日考えればいいと思っていたが実はそうではないのだと、ようやくわかった気がした。
都会にいて自然とかけ離れた暮らしをしていると何でもやりたい時に出来ると勘違いしてしまうが、ここでは明るいうちに済ませなくてはならない事や天気が良い時にしか出来ない事もあって、自然に寄り添ってしか生きていかれないのだ。
騒音などない方が良い筈なのに静か過ぎて落ち着かないなんて、自分がいかに都会の雑然とした環境に慣らされてしまったのかを思い知らされ、その恵まれた環境を味わってみる事にしてテレビの電源を切った。
栗原は再び静かになると縁側へ行き、掃き出し窓を大きく開けて空を見上げてみる。
そこには東京で見ていたものより濃く、黒に近い群青色の空があった。
そして、いつも簡単に見つけられるオリオン座がどこにあるのかわからない程、沢山の星が瞬いている。
今まで見ていたものとは違う奥行のある空の色がすぐ向こう側に宇宙空間があることを想像させ、自分が地球と共に宇宙空間に浮いているのだという初めての感覚に包まれた。
栗原はこれまで味わった事のない感覚と共にその空をいつまでも眺めていた。