思い出と前世
***クリビア
三年ぶりの自室は綺麗に掃除されていて、私は一目散にソファに座ってゆっくりした。
「ありがとう、掃除してくれていたのね」
「はい。王女殿下がいつ戻って来てもいいように私どもでお部屋は管理しておりました」
メイド長は窓を開けながら得意げに、嬉しそうに言った。
背もたれに体を預けて部屋を見回すと、壁にかけてある母の肖像画と目が合った。
変わらない優しい微笑みが、おかえりなさいと言ってくれているようだ。
今思うと、母は父の浮気を知っていたのだ。
私は肖像画を見ながら昔の記憶に思いを馳せた。
この大陸の南西には海を挟んで大きな島国サントリナ王国がある。
私が十歳の頃、その国の貴族に嫁ぐ母の妹の結婚式に参加するため母と船で渡ったのだが、サントリナから帰る日に母が悲しそうな顔で「帰りたくない」と呟いた。
私も帰りたくなかったから母もそうなのかと思っていた。
そのあと「浮気をする男は本当に駄目。ロータス王子は誠実そうだから良かったわね」と言われた時も、父の浮気の事を言っているのだと分からなかった。
当時私は既にロータスと婚約していたけど、母は彼なら浮気しないと思っていたのだろうか。
子どものうちからそれを判断するのは難しいだろうけど……。
それはさておき、そういえば行き帰り海の天候が悪く、船が大きく揺れて酷い船酔いをしたのだった。
どちらも偶然同じ医師が乗り合わせて介抱してくれたのを覚えている。
王女だから気を遣ったとはいえ、ずっとついていてくれてとてもありがたかった。
「王女殿下、紅茶をお持ちしました」
「あら、ありがとう、サリー」
現実に戻った時、私は自分の顔に笑みが浮かんでいることに気付いた。
それから数か月後、私はバハルマに嫁いだ。
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「王妃様、夕食をお持ちしました」
メイドはそう言いながらガチャンと乱暴に食器を置いた。
「なんで私がこんな手癖の悪い卑怯者の世話をしなきゃならないのよ……」という文句付きで。
このメイドは来るたびに不機嫌で、毎回ちょっと身構えてしまう。
テーブルの上には一切れの固いパンとほとんど具の入っていない冷めたスープ。
今日は虫は入っていないようだ。
安心して次にパンを手に取ったら裏にびっしりカビが生えていてそっと戻した。
こんな食事はシタールで監禁されていた頃を思い出す。
私は暗い窓の外に顔を向けた。
ガラスには痩せた女が移り込んでいる。
嫁いで来た時はこんなことになるとは夢にも思っていなかった。
ここは王宮から離れた場所にある没風宮。
私はここに一人で暮らしている――というか追い出された。
望んでいるのは難しい事じゃない。多くの女性が掴んでいる普通の結婚生活。
それなのにいつも私はそれから弾かれる。
前世もそうだった――
実は私には前世の記憶がある。
こことは違う世界の日本という国に住んでいた私は一度離婚をしていて、そのあと保育士の資格を取って保育士として働いていた。
その仕事帰りにデートの待ち合わせ場所へ行く途中、交通事故で亡くなってしまったのだ。
これからという時だった。
記憶が蘇ったのは、初夜の儀式を行う前にヴァルコフ国王に殴られて気を失い、数日後に目覚めた時。
王族に嫁ぐ女性は処女でなければならないという古いきまりがバハルマにはあって、私はそうじゃなかったから殴られたのだ。
父は私とロータスの間にあったことを知らなかった。
私はバハルマにそんなきまりがある事を知らなかった。
だからこの結婚を逃げ道として利用した。
しかしヴァルコフ国王の側近に婚約していた過去のある私は疑われ、初夜の前に医師に確認させられてしまったのだ。
掴んだと思った幸せが、自由が、あと一歩の所でだめになった瞬間だった。
メイドがほとんど減っていない食器を取りに来た後、三年前に亡くなった王妃の娘、第一王女のアナスタシアが訪ねて来た。
とりわけヴァルコフ国王から大切にされている彼女は国王と同じ黒髪に赤い瞳で、きりっとした気の強そうな顔をしている。
しかし実際は見かけとは正反対の、とても優しい性格だ。
私より三つ年下の十八歳で婚約者はまだいない。
私に出されている食事がどんなものか知っている彼女は、できたてのパンに肉と野菜を挟んでこっそり持って来てくれた。
「いつもありがとう、アナスタシア」
「いいえ、私にはなんの力も無いことが悔しいです。メイドは父の宮殿から派遣されてきているから私が辞めさせることができなくて……、ごめんなさい」
「あなたは何も悪くないんだから謝る必要なんてないわ」
国王の側室のバーベナには娘のバーバラ、ビエネッタには第一王子のカリアスとその弟ヨセフがいる。
その十六歳になるバーバラの大切にしていたネックレスがなくなったことで、私はこの没風宮で暮らすことになったのだ。