8.狂乱
突然のティハの暴走を止めることは誰にもできなかった。
あまりにも激しい怒気。それを止めようと近づけば、容赦なく、こちらが撃たれるという確信。
その確信を最も近くにいたアニョウが実感していた。
それとも、ルウィン達は別の理由でティハを止めなかったのだろうか。
ルウィン達はティハの怒りが正当であり、この攻撃は看過すべきものであるという顔をしていた。
―ルウィン達は、ティハの過去を知っているのか。この隊で知らぬは俺だけか…。
だが、これは簡単に足を踏み入れてはならぬ領域なのだろう。ティハとは、バディを組んだばかりで親密度は低いと言えるだろう。
ゆえに状況を俺は全く理解していない。状況を理解しているのは、ルウィン達だけだ。
その証拠にルウィン達はティハに声をかけようとしない。
部下の暴走は、指揮官が止めるはずだが、放置している。
余程、デリケートな問題なのだろうか?
それとも最初から許容しているのだろうか?
分からない…。
俺は、ティハから話すのを待つべきなのだろうか。
いや、戦場で考えるべきことではないな。今は戦闘に集中だ。―
アニョウは己を無理やり納得させるとティハが冷静さを取り戻すのを待った。
無論、警戒は緩めない。
敵の反撃があるかもしれない。敵の数を見誤っているかもしれない。派手な銃声で敵を呼び寄せたかもしれない。
様々な危険が考えられた。
―このまま、撤退するのが一番良いのだが、ルウィンにはその気は無さそうだな。―
ルウィン達三人は、罠を避けつつ、敵兵に慎重に近づいていき、銃器を回収していく。
敵兵の多くは死んでいた。生き残った三人の敵に反撃の意思はなく、怪我の痛みと死の恐怖により、こちらに気を回す余裕は全くなかった。
ルウィンは階級章を確認し、もっとも高い階級の兵士を見つけた。その兵士は銃弾に腹をえぐられ、真っ赤な血を腹からドクドクと溢れさせていた。さらに胃から食道を通じて逆流し、口からも多量の血を吐いていた。
―恐らく長くはないな。しゃべることも無理だろう。―
アニョウがそう思っていると、ルウィンも同じ判断をしていたようであった。
尋問をする素振りも見せず、その兵士の全てのポケットを漁り、何か情報は無いかと仕舞われていた紙を集めていく。
ここでゆっくりと読む時間は無い。帰還しない部隊を探しに敵が来るかもしれない。
それとも既に派手な銃声を轟かせたため、こちらへ進攻中なのかもしれない。
早く、この場から去るべきだった。
アニョウは一人の敵の死体の前に立ち尽くすティハを見る。
ティハが暴走し、持ち弾の全てを叩きつけた敵だ。百発以上の銃弾が上半身を細切れしていた。
皮膚は失い、筋肉の大半を消し飛ばし、骨も粉砕され、内臓を周囲にばら撒いた人間でできた真っ赤な花がそこに咲いていた。
骨がめしべとおしべ、内臓が花びらの様だ。その花の種の様に敵の頭部が地面に転がり、引き攣った顔をこちらに晒していた。
その汚い花と種をティハは睨みつけていた。まだ、眦は吊り上がり、眼球は充血している。肩は激しく上下し、胸も前後に大きく膨らんだり縮んだりをしていた。
両手からAK-47は消え、肩からスリングに吊るされ揺れていた。
ティハは突然その場に座り込むと地面を何度も何度も叩きつけ、泣き叫び始めた。
「いや、近づかないで。止めて。許して。お願い、誰か、助けて。嫌、嫌、嫌。」
ティハは同じようなことを叫び続ける。過去の体験がフラッシュバックしているのだろう。
その暴れぶりにアニョウは近づかない。狂乱状態の人間は、普段以上の筋力を発揮することがある。
「ルウィン、どうする?」
アニョウは、ティハを止めるか放置するかを聞いた。
止める人間が怪我をすることは良くあることだ。
力尽きるのを待つというのも一つの手ではある。ただ、敵にこちらの存在を教えることになるという欠点もある。
つまり、アニョウかティハ、もしくは両方が怪我をする可能性があるが、静止させるのか、それとも静かになるまで放置しておくのかを確認したのだ。
「アニョウ、止めろ。できるな?」
ルウィンは迷うことなく、即答をした。
どうやら、敵に存在を知られる方がまずいと考えているようだ。
すでに盛大な銃声を鳴らしたのだから、存在は知られているだろう。だが、今も喚き続けるティハは敵を呼び寄せ続けている。それも正確な場所をだ。
ルウィン達はティハのことをアニョウに任せ、敵兵から情報を収集できないか、確認をして回っている。アニョウを手伝うつもりは無い様だ。
「了解。ティハを無力化する。」
溜息を入れつつ、アニョウは答えた。
―はあ、バディか…。面倒な契約をした方も知れんな。力尽きるのを待つのが楽なのだが…。さて、殴り倒すか。それとも絞めるか。やれやれ、ティハに対して、その選択肢はないか。―
安全地帯であれば、力尽きるのを待つという選択肢を優先しただろう。
だが、ここは戦場であり、更に最前線だ。敵に居場所を知らせるような行為を許すわけにはいかなかった。
アニョウは、ティハの背後へと静かに回り込む。今のティハに気配を消したアニョウを認識できないだろう。
太い両の手をティハの首に巻き付け、一気に頸動脈を絞める。ティハが喉の違和感であるアニョウの腕へ爪を立てる。気道が狭まり、呻き声を発するだけになり、ジャングルが突然、静けさを取り戻す。鳥や動物たちの鳴き声はしない。戦闘から逃れ、息を潜めているのだろう。
ティハは苦しさと同時に力を増大させ、みるみる爪がアニョウの肌に食い込み、血が滲み始める。前触れもなく、突然、糸が切れた操り人形のようにティハは崩れ落ちた。
頸動脈絞めによる脳の酸欠だ。早ければ五秒、遅くとも一分以内に気を失わせることができる。
無論、繊細な技術だ。絞めるポイントが少しでもずれれば、気道を絞めるだけで窒息させるだけになる。そうなれば、気絶するには多大な時間が必要となるだろう。
それに首や後頭部や腹を殴った程度で人は気絶などしない。麻酔薬ですら効果を発揮するのに時間がかかる。
あれらは空想の世界の法則であり、現実にはあり得ない。例外としては、殺す気で殴れば気絶させることは可能だろう。ただその場合、ほぼ死亡することになるだろう。運良く気絶したところで頸椎損傷、脳挫傷、内臓破裂等は避けられないだろう。どちらにしても後遺症が残る重傷を負うことになる。
その点、頸動脈絞めは単純で効果は抜群だ。ポイントがずれれば、単なる窒息になってしまう。だが、的確に技をかけることができれば、無力化は簡単だ。
後遺症の心配もまずない。ただ、いつ気がつくかは個人差、つまり本人の回復力に大きく委ねられるため、この後の拘束が重要になる。
―ティハには拘束は不要だろう。―
ティハが気付いた時、恐らく暴れることも泣き叫ぶこともないだろう。その様に思えた。
アニョウは気を失ったティハを左肩に担ぎ、背中から正面へ頭が来るように調整する。後頭部にティハの腹が当たり、左右のバランスが取れた。そこで両手でガッチリと固定し、ティハを襟巻の様に担ぎ上げる。
―後頭部に弾倉ベルト当たり、硬くて痛いな。そして見た目以上にティハの体重は…。これは軍事機密だな。黙っておこう。―
ティハの体重に関しては、軍機扱いとし記憶を封印する。他の者に漏らすことは無いだろう。
「ルウィン、先に戻っても良いか?」
アニョウはルウィンへ撤退を打診した。人一人を担ぎ、両手が塞がっている状態では戦力とは言えない。それに機動力も落ちている。
「三分待て。一緒に戻る。」
ルウィンは敵の装備を回収しながらアニョウへ答えた。どうやら、集落に戻るまでは団体行動を取るようだ。
「了解。」
ティハを抱え、手持ち無沙汰なアニョウは空を見上げた。青かった空は曇り、一雨きそうだった。
「スコールの中、帰ることになるか。ついているのかもしれん。」
スコールは、一気に大量の雨が降る。視界を悪くし、雨音が全ての音を消し、臭いを流れ落とし、地面にできる水流が足跡を消してくれる。
「集落に戻るまでは大人しくしてくれよ。バディ。」
肩で静かな寝息を立てるあどけない少女の顔へアニョウは語りかけた。