34.狂乱
リトルに案内され、辿り着いた建物は粗末な小屋であった。
広間一つを腰までの壁が囲み、窓ガラスや戸板などは一切ない。
屋根は大きな葉を幾重にも重ねた単純なものであり、ところどころ雨漏りをしている。
床には埃がうっすらと積もり、猿の足跡がくっきりと無数に残っていた。
猿たちは、雨風をしのぐためにここを住処にしていた様だ。
広間の端には、食べ残しや糞尿などがあった。
だが、人の痕跡は何もない。机、椅子、食器、調理器具。この辺りは、人が住むうえで必要であろう。
周囲を見渡しただけで何もないことがわかる。特別に調べる必要すらない。一目で何もない空虚な空間であるとわかる。
しかし、リトルは諦めていない。
「ここに机があって、その上に無線機が載っていたの。ここに椅子が置いてあって、ほら、椅子を引いた時の傷が床に付いてる。」
リトルは身振り手振りでここに何があったかを逐一報告を上げる。
「ここには水屋があったの。食器と調理道具を上段に、飲料水を下段に入れていたの。暑かったから水をコップに汲んで飲んだもの。間違いないの。」
リトルが指し示す場所には何もない。雨漏れで腐った床が広がるだけだ。
「そして、ここから裏に出て船着き場があるの。ほら、見て。」
リトルがアニョウの腕を引っ張り、裏手へと導く。だが、そこには増水し、家の床下にも流れ込む大河の一部があった。水は勢いが良く、茶色く染まり、岸を水流が洗う。河の中には大きな木が数本立っている。恐らく、雨季以外はそこも川岸なのだろう。
そこに船着き場も桟橋も無い。
「嘘!どうしてないのよ!ここに桟橋があったのよ!どうして!私はここから上陸したのよ!」
リトルの感情はヒートアップし、金切り声で叫ぶ。普段のあどけなさが消えうせる。
「私がいつでも帰国できるようにするって、マスター言ってたよね!マスター!私はここよ!帰りたいの!早く迎えに来て!」
目が吊り上がり、腹の底から遠くへ響く声で怒鳴る。
だが、大河の急流と大雨がリトルの声を打ち消す。
周囲の政府軍に知られる恐れは無い。アニョウは、リトルの気が済むように放置する。
大河に向かって叫び続けるリトル。すでに現地語や英語ではなく、どこか別の国の言葉で叫ぶ。
アニョウには何を言っているのか、どこの言葉なのか分からない。
アニョウは、リトルを放置し建物内で待つティハの元に戻った。
ティハは、広間の中央に立ち尽くしていた。リトルの豹変に呆気をとられたのかもしれない。
「ティハ、今から休憩場所を作る。しばし、待っていてくれ。」
返事は期待していない。だが、こちらの言葉は理解している。ゆえに今からアニョウが何をするのかを伝えておきたかった。
「…わ、かっ、た。」
か細い声ではあったが、確かな返事だった。アニョウは振り返り、ティハへと向き変える。
「ティハ、痛いところは無いか?」
「な、い。」
顔色は雨で冷やされたせいか、血色は悪い。ティハの両眼には、少しばかりの生命力が宿っていた。
「そうか。無理をするな。体を休めろ。」
「う、ん。」
アニョウの体が軽く感じられる。先程迄の追いつめられる緊張感が少しほぐれる。
―ティハの心が平常心を取り戻しつつある。思ったよりも早い。良かった。―
アニョウは本心で思った。自然と休憩スペースの設営も早まる。
防水布に包んでいた毛布を取り出し、床に広げる。
リュックより硬い物を取り出し、衣服類のみを中に残し、クッションもどきを作る。
「ここに座れ。」
アニョウはティハへ手を伸ばす。そうすると、ゆったりとした動作でティハはアニョウの手を握る。
アニョウのエスコートに従い、ゆっくりと腰を下ろした。張っていた気が緩んだのか、目を閉じ、すぐに寝息が聞こえてきた。
「良かった。守ってきた甲斐があった。
どうして、突然、正気に戻った。何が原因だ。」
外ではリトルが大河に入り、水を蹴っている。
「そうか、リトルの錯乱が逆に平常心を呼び起こしたのか。他人がパニックになれば、伝染するか、逆に冷静になるかのどちらかだ。
ティハの場合、冷静になる方向に動いたか。」
アニョウは乾いたタオルを取り出し、ティハの顔と髪の水気を取る。一度タオルを絞り全身を服の上から拭いていく。
服が乾くことは無いが、何もしないよりはマシだろう。
そして、防水布の乾いた面を体に掛けた。少しは体温を維持できるだろう。これで疲労回復と正気度が戻れば、言うことは無いのだが、そこまでは期待していない。
外からはリトルの奇声が未だに聞こえる。恐らく母国語なのだろう。アニョウは一度も聞いたことが無い言語であった。
今は論理的に止めることはできない。もう十分、ストレス発散はできたはずだ。これ以上は、敵の目に触れる恐れが高くなる。
アニョウは深呼吸を一つすると気配を断った。ジャングルの空気に同化し、そこに居るはずなのに見えない。何かが居るはずなのに感じない。
そんな奇妙な気配となった。
リトルの背後に音もなく、忍び寄り、頸動脈を太い両腕で一気に締める。だが、格闘戦の妙手であるリトルは反応が遅れながらも頸動脈のポイントをずらす。
頸動脈締めは失敗だ。本来ならば、すぐに脳への酸素が断たれ、失神させられるのだが、ポイントがずれると効果は無い。
そこで体重差を利用して河の中へ引き込む。
リトルの全身は水没し、アニョウは首から上だけを出す。息ができないリトルの爪がアニョウの両腕に食い込む。
だが、これ以上ここで敵を誘引するダンスを続けられては堪らない。痛みをこらえ、リトルが窒息による失神するのを待つ。
非常に危険な行為だと理解している。一歩間違えば、溺死、もしくは頸椎骨折で死亡の可能性があった。
だが、アニョウはここで死ぬわけにはいかない。命の恩人であるティハと一緒に国境を越えると決めている。
せっかく、国境に辿り着いたのだ。
雨季で荒れ狂う大河を泳ぐことは不可能だ。だが、何かしら手段はあるはずだ。
その為にもリトルには一度大人しくなってもらわなければならない。
乱暴な手段であるが、窒息により失神という手段を選択しなければならぬ、己の技量不足を心の中で詫びる。
本来ならば、頸動脈締めでサクッと失神させて終わりの筈だった。
だが、水の中に全身を沈められたリトルは暴れ狂っている。
しかし、暴れる程に酸素を消費し、窒息に近づく。その見極めが難しい。早すぎれば、反逆され、遅すぎれば溺死する。
その目安となるのが、両腕に食い込むリトルの指の力だ。
皮膚を破り、両腕に血がにじむが、すぐに茶色い河の水に洗い流される。
数分後、その力がほんの少し緩む。どうやら、あと少しで失神に辿り着けそうだ。
大暴れするリトルをアニョウは河に沈め続ける。
次の瞬間、リトルの握力が消えた。しかし、アニョウはリトルを引き上げない。演技の可能性を考えたのだ。
―あと一分。―
アニョウは、力が抜けたリトルを水につけ続ける。
そして、きっちり体内時計一分後にリトルを引き上げた。
ぐったりしており、いつも以上に重い。意識を失った人間は、通常時より重く感じるものだ。
リトルの呼吸を確保し、脈を確かめる。
脈は無かった。
「やりすぎたか。」
アニョウは、リトルを担ぎ上げ建物の中と運び入れ、仰向けに寝かせる。気道を確保し、心臓マッサージを始める。
両掌を重ね、心臓を全力で胸の上からリズムよく押す。
一二三、一二三、一二三。
ろっ骨が折れんばかりに上から圧迫する。突然、リトルが咳き込み、大量の水を吐く。
マッサージは止め、リトルの様子を伺う。起きる力は無い様だが、肺に入った水を全て吐き出すべく、咳き込み続ける。
そんなリトルの背中をアニョウは優しくさする。
「先生…。」
「なんだ。」
「殺す。」
そして、リトルは意識を失った。心拍と呼吸は安定している。命の危険は無いだろう。
ようやく、ジャングルに静けさが戻る。
「さて、どうやって国境を越えるべきか。」
アニョウは自分がしたことに疑問も持たず、国境越えに思案を巡らせ始めた。




