33.逃避
アニョウはティハ達と合流した。
「先生、心臓に悪いです。」
リトルが普段の独特のイントネーションで話しかける。どうやら、精神的回復をこの時間で行うことができた様だ。
それならば、アニョウも過去の失敗を掘り返すことはしない。今までと同じ対応をするだけだ。
「すまない。洞から出てすぐに遭遇するとは予測していなかった。」
アニョウは、自分の哨戒不足を素直に謝る。
本当に敵の存在に気づかなかったのだ。無傷で済んだのは偶然にすぎない。誰かが死傷してもおかしくなかった。
「だが、敵はすぐに来るぞ。囲まれる前に早く離れる。」
「了解。速度を上げます。けど、ティハさんは付いてこられます?」
「少し回復し、足取りもシッカリしてきた。それでも、足を引っ張るようであれば、俺が担ぐ。」
「では、走ります。」
「任せる。」
三人は、雨が降りしきるジャングルを走り出した。何としても政府軍から逃げ延び、生き残るために。
雨の中、泥を巻き上げながら、アニョウ達は走る。泥により足を滑らせ、根に躓き、葉が頬を切る。
それでもアニョウ達は足を止めない。強い雨足が足音や姿を消してくれている。
何時雨が弱くなるか分からない。少しでも距離を稼ぐために走る。
国境を越えれば、政府軍は追って来られない。レジスタンスの掃討作戦が実施されているジャングルは死地でしかない。
刹那の時間もこの死地に居たくはない。命の恩人であるティハを生かす。国境を越える手段を知るリトルを生かす。
その二人を守ることが己の生存に繋がる。
その思いがアニョウ達を隣国へ走らせる原動力となっていた。
時折、敵影を捉える。その度に足を止め、窪地や藪に身を隠す。戦闘は回避し、敵が通り過ぎるまで息を潜める。
それを何度繰り返したことだろうか。すでに戦闘から数時間が経過していた。
足の筋肉は痙攣をし、大きく両肩を上げ下げし、少しでも新鮮な空気を肺に取り込もうとする。
心臓の鼓動もピークを迎え続けている。全身が酸素を欲しがっていた。
さらにアニョウの精神は、哨戒行為に擦り切れ、注意力が散漫となりつつあった。
これ以上は危険だということで、今はリトルに哨戒を任せ、気を休めさせている。
ティハは二時間走り続けた。足元の悪いジャングルを二時間も走り続けたのは大したものだろう。今はアニョウに担がれて逃避行に参加している。
アニョウはティハの体重程度であれば、特に支障は無かった。
―ボディアーマーを身に着け、フル装備で行軍することに比べれば、楽なものだな。―
とアニョウは無意識に考えていた。そして、気づく。
―待て。俺はボディアーマーを着けたことは無い。そもそもレジスタンスにそんな装備は無い。何の記憶だ。誰の記憶だ。くそ。俺はいったい誰だ。-
アニョウは幻覚めいた、過去の記憶に振り回されながらも走る。幻覚の様な記憶から逃避しながら。
生き残る為に悲鳴を上げる身体を酷使しながら国境を目指した。
ジャングルを走り続けるリトルが突然足を止め、藪へと身を潜めた。
アニョウもそれに続き、ティハを藪へと隠す。
アニョウは、リトルへ何事かと視線を向ける。
「先生、耳を澄ませてください。」
アニョウは、意識を聴覚へ集中させる。
バシャリ、バシャリ。ドドド。ドドド。という音がアニョウの耳に届く。
「水音。川か。」
「はい、国境の大河です。着きました。家が見えますか。」
リトルが指を指す方向へ目を凝らす。
樹々に挟まれた高床式の粗末な家が見えた。
壁は腰までしかなく、窓は無い。屋根は大きな葉を幾重も重ねたもので所々穴が開いていた。
あの建物がリトルの目指していた物だった。
だが、使われている雰囲気は全くなく、ここしばらくは放置されている様に思えた。
「確認した。あの建物であっているのか?」
疑問が言葉となって出る。
ここまで逃げ延び、終着点がただのあばら屋では目も当てられない。
「ここから入国しました。家の裏に船着き場があります。後は大河を越えるだけです。王国入りですよ。」
疲れ切っている筈のリトルの顔が笑顔で輝く。だが、アニョウは油断をしない。
「あれだけ、目立つ設備を政府軍、国境警備隊が気づかないと思えない。しばらく、ここで様子を見るぞ。」
「え、でも、あそこには仲間がいますし、ゆっくりするなら合流すれば…。」
「使用感が無い。慌てるな。俺達は疲れ切っている。ここで休憩を入れ、正常な判断能力を取り戻す。」
「あそこなら、雨宿りできますよ。」
「罠が仕掛けてあるかもしれない。」
「そんなことを言っていたら、先に進めませんよ。」
「だから、ここで休憩をとり、心身の調子を戻す。無論、同時にあの家も監視する。」
「同じ休憩を取るなら、暖を取れるほうが良いですよ。」
「その思考は、警戒力が落ちている証拠だ。ほんの少しの我慢をするだけだ。何もなければ、安心して家に入れるぞ。今、入るならば中の状況と周囲の状況に気を配り、敵の罠であれば、それを食い破る体力が必要だ。あと少し我慢してくれ。」
リトルは下唇を噛み、黙り込む。アニョウの言葉を反芻している様だ。
「わかりました。先生の言う通りにします。」
リトルは不満げに眉を顰め、納得していない表情だった。
だが、一度失敗をしている身だ。ここでアニョウの言う通りに慎重になり、体力の回復を優先させることにデメリットが無いことに気づいたのだ。
それに三人とも全身泥だらけだ。ここで強い雨で泥を洗い流しても良いだろう。
そんな考えに辿り着くとリトルは、心に余裕が生まれた。
―そうだ、あと少しここで休憩しても今すぐ家に飛び込んでも結果は変わらない。なら、少しでも身ぎれいにしたいかも。―
三人は藪の中から、家を監視するように休憩を始めた。
無論、周囲への警戒は怠らない。政府軍が巡回してくるかもしれない。
マフィアが敵を勘違いして攻撃をしてくるかもしれない。
何もないかもしれない。
しかし、疲れ切った身体を休めることは有意義なことだった。
一時間が経過した。
政府軍は来ず、マフィアも姿を見せない。
家の中から壁に飛び乗り、姿を見せるのは猿だけだった。
アニョウの中では、ほぼ状況が確定していた。
「リトル、体力はどうだ。」
「はい、先生。普段の七割というところでしょうか。」
「俺は八割だな。戦闘には支障は無い。が、ティハは無理だ。これ以上、歩かせることも無理だ。」
アニョウの横で仰向けに寝るティハの顔色は青い。
雨で体を冷やしていることもあるが、一般人よりも体力が有るとはいえ、アニョウとリトルの化け物じみた体力には及ばない。
「二人だけで行くぞ。ティハはここに置いていく。敵の施設を襲うつもりでかかれ。」
「…了解。」
リトルは納得していない様だが、素直に返事をした。
アニョウとリトルはAK-47を腰だめに構え、障害物を利用しジリジリと家に近づいていく。
家の中からは、人の気配はしない。話し声も聞こえない。
だが、代わりにキーキーやカサカサという音が幾つも聞こえてきた。
これは獣の音だ。先程からチラチラ見えていた猿の気配だろう。
猿がそこに居ついているということは…。
アニョウ達は音もなく、壁に取り付いた。そして銃口を差し込むと同時に家の中を確認する。
広々とした広間。四方の壁は腰の高さまで。窓が無く、開放感あふれる部屋。そこには家具の一つもなく、猿の群れがたむろしていた。
猿たちが一斉にアニョウ達へ警戒音を上げる。歯をむき出し、床を叩き、闘志を燃え上がらせる。だが、アニョウの一睨みは、野生の猿には強烈だった。
十数匹いた猿は、一斉に家を飛び出し、雨のジャングルへと我先に逃げ出す。
アニョウの殺意は、野生の獣の生存本能を脅かした。
そして、猿が去った広間に残されたのは、何もない空間であった。本当に何もない。家具も食器も雑貨もない。埃と泥に塗れた床だけが広がっていた。
「うそ…。どうして、誰も、いないの…。」
リトルが茫然と呟いた。




