28.目的
アニョウはジャングルに一人でいた。太陽は燦燦と輝き、迷彩服の隙間から地肌をじりじりと焼く。
周囲の湿度と気温は高く、アニョウの額には大粒の汗が幾つも幾つも貼りついていた。
このジャングルに放り出されて一週間。装備は迷彩服とサバイバルナイフのみ。あと一週間は、この酷熱のジャングルに居なければならない。
軍によるサバイバル訓練だ。熱帯雨林での生存訓練だ。
蛇やネズミはもちろんのこと昆虫も食し、命を繋いできた。
周囲には人の気配は無い。だが、鳥や獣の息吹が聞こえる中、かすかにモーター音と風切り音が混じる。十分前から聞こえてきた。
恐らく本部が飛ばしている監視用ドローンだろう。日に数度、飛来し、アニョウの姿を捕らえ、いつの間にか消えていく。
居場所は細かく変えているが、監視用ドローンは迷いなくアニョウに接近してくる。
恐らく、装備のどこかにGPSでも仕込まれているのだろう。
訓練でなければ、GPSを探して外し、自由を確保している。だが、二週間のサバイバル生活を評価されるにはドローンの力が必要である。
高評価を得れば、軍の中での待遇も上がる。優秀な人材は、優遇される。同時に最も過酷な戦場へと送り込まれるのだが…。
安全な後方任務に就くため、ここで落第点を取る選択肢もある。だが、それは己の立場を弱め、優遇処置を捨て去ることになる。
一階級の降級。個室から大部屋への変更。危険手当の減少。最前線勤務。様々なデメリットが考えられる。
今手に入れた快適な環境をたった二週間のサバイバル訓練で失う訳にはいかない。
アニョウは新たな食料を探すべくジャングルの奥へと進んだ。
この場所での食料は取り終えたのだ。ここに居座る理由がなくなったからだ。
アニョウはふと目を覚ます。
空は雨季特有のどんよりと曇った空であり、肌を焼く太陽は無い。左肩にはティハの頭が乗っており、規則正しい呼吸が聞こえてくる。
目はつむっているが、眠ってはいない様だ。効率の良い休憩をとっているのだろう。
―今のは夢か、それとも過去の記憶か…。恐らく現実だったのだろう。あまりにもリアルな感触だった。ひりつく太陽光線。熱気を帯びた空気。
あれが幻や夢とは思えない。
やはり、俺は軍人だったのだな。だが、どこの軍だ?今までの装備を考えると西側諸国のどこかだろう。
いや、M-4を使用している時点でアメリカだろうか。いや、ジャングルが出てくるならば中南米の特殊部隊の可能性も高い。
特殊部隊であることを考えれば、日本や台湾も採用している。
他にも情報があれば特定できるだろう。
どうして教官や戦友の顔が浮かばない。何故だ。これも記憶喪失の一種なのだろうか。
自分自身は東洋系の肌の色をしている。間違いなく黄色人種だろう。
白人や黒人であれば、レジスタンスに拾われることは無かっただろう。地元民だと思われたに違いない。
さて、俺はどこの国に行くのが正しいのだろうか。それとも、生まれた国に帰るべきではないのだろうか。
分からない。何もわからない。
まずは生き残ろう。隣国に渡り、それから考えればいい。
そうだ、今悩むことではない。ティハの扱いも隣国に渡ってからゆっくり考えればいい。
今は国境突破に専念すべきだ。邪念は捨てろ。―
ようやく、腑抜けていた目に闘志が宿る。目的は決まった。遅いスタートであった。
「リトル、居るか?」
小さな声でリトルを呼びつける。敵に気づかれない為だ。
鳥の声にかき消されそうなか細い声でもリトルの耳には届いた様だ。
「何ですか?先生。」
リトルは音もなく、アニョウの正面に現れた。姿は視認しているのだが、気配は感じない。まるで実体を持たない幽霊の様であった。
「マフィアの傘下に入る。隠し港へ案内をして欲しい。」
アニョウは国境を越えることを最優先にした。マフィアに下れば、足抜けはできないかもしれない。
だが、ボスにレジスタンスからの引き抜きを持ち掛けられたのであれば、好待遇であることは間違いないであろうとの判断だった。
好待遇であれば、ティハ一人を養うことくらい可能だろう。常に貼りつくことはできないが、そこは付き人やメイドを雇うなどすれば対応できることだ。
今、政府軍に殺されるよりも、後でマフィアに殺される方が一日でも多く生き延びることができる。単純な論法だった。
難しいことはわからない。己の直感を信じるだけだった。
「本当に傘下に入ります?国境を越えたら、ドロンと消えたりしませんか。先生。」
「身分証や免許証の一枚も持たない俺がどうやってまっとうな仕事で働けるんだ。その方法があるなら教えて欲しいくらいだ。」
「ほぼ無理ですね。隣国は立憲君主制なので、この独裁国よりは風紀は緩いですよ。ですが、身分を証明するものが無ければ、仕事には就けませんね。
難民キャンプで飢餓と病気に苦しみながらやせ細っていくのが関の山でしょう。」
「ならば、俺に、いや、俺達に選択肢は無い。ボスに会わせてくれ。言われた通りに働こう。」
「後悔は無しですからね。こんな筈では、は通用しませんよ。」
「ああ、覚悟を決めた。俺は命の恩人であるティハに命をもって恩を返す。そうでなければ、生かされた意味がない。」
「やれやれ、難儀なお人や。死にたくないの一言で良いと思いますに。まあ、先生らしくて好感はもてます。」
そう言うとリトルは東へと歩み出した。
ティハを起こし、アニョウもそれに続く。
この国に二人の居場所は無い。失ってしまった。大量の水と政府軍という悪党どもによって。
新天地を目指し歩み出す。政府軍の包囲が先か、国境を越えるのが先か。命を懸けた逃避行が始まった。
時折、強い雨がジャングルに降る。その度に獣道に大量の雨水が流れ込み、小川となる。
そんな足元が悪い中、アニョウ達は東を目指す。国境である大河を目指す。そこにあるとされるマフィアの隠し港を目指す。
リトルの足取りに迷いは無い。何度も通ったことがあるのだろう。
レジスタンスの集落に来た時もその隠し港を使ったのかもしれない。
アニョウは耐水紙に印刷された地図を広げ、現在地を確認する。
間違いなく国境へと近づいている。ただし、向かう方向には集落も軍の検問所も無い。それどころか車が走れる道すら無かった。
―本当にこの方角であっているのだろうか。密輸入をするのであれば、船から車に積み替え、都市部に向かう必要があるだろう。
おかしい。隠し港への車道が無ければいけないのではないか。だが、地図にはこの先に広がるのは開拓されていないジャングルだけだ。
本当に隠し港があるのだろうか。―
アニョウはリトルの後に付きながら、不安を感じた。
だが、リトル本人からは迷いは感じられない。確実に一歩一歩国境を目指している。
―国境に近づいている内は何も言うまい。言ったところで何か効果があるのか。政府軍の包囲を確実に脱出できるのか。
そう、何の意味も無いのだ。リトルを不快にして置き去りにされる方が余程怖い。万の軍を相手に勝てる見込みなど無い。
ここはリトルを信じるだけだ。-
ジャングルの雨は止まない。そのお陰でアニョウ達の痕跡や気配も消してくれている。恵みの雨だと信じたい。
それは同時に、敵の接近も感じさせないことを意味している。
―遭遇戦か…。-
アニョウが最も恐れる戦闘パターンだ。こちらに優位は無く、無数の銃口から銃弾が発射され、この体に幾つもの弾痕を刻んでくれることだろう。
下手すれば、五体が残ることすらないかもしれない。
強い雨音と悪い視界の中、敵を探すのは精神を消耗させることだった。
だが、手を抜くことはできない。アニョウはティハを生かすという目的があるのだから。
 




