22.沼地
「先生、先生。寝ているのですか。」
アニョウはリトルの独特のアクセントの声に目覚めた。いや、現実に引き戻されたというべきか。だが、それをリトルに説明する義務は無い。
「すまん。少し寝ていた様だ。」
「ダメですよ。こんな状況で寝たら監視塔から落ちますよ。」
「そうだな。気が緩んだ様だ。」
「もう、こんな状況でも気が緩むなんて先生は大物ですね。」
とリトルは呆れ声で言う。
足元では、岩と木々が大量に混じる激流は続いている。ここに落ちれば死が待っていることは間違いなかった。
―さっきの夢の鉄砲水なんて可愛いものだったな。あれは現実だろうか。恐らく、過去の経験なのだろう。
あの装備、服装ならば、俺は正規軍の兵士だったのか。
装備はM-16に防水無線と充実していた。
アメリカ軍だろうか。それとも、どこか別の西側の小国だろうか。
いや、痕跡を残さぬ為、世界中に普及しているM-16をあえて使用したのかもしれない。AK-47は命中率が悪く、弾薬がNATOと違う。
それがM-16の使用に繋がったのだろうか。空薬莢を残さぬ為、排莢口に排莢袋をセットすることも珍しい。
ジャムが起きやすくなるというのに。分からぬ…。
今、五体無事に生きているということはあの鉄砲水を生き残ったのだろう。
恐らく、失神した直後にでも川岸に引っ掛かったと考えるのが自然だろうか。
失神することにより、呼吸が浅くなり水を飲まずに済んだか…。悪運だけは強いようだ。
そうか、だから音を聞いて鉄砲水と判断できたのか。なるほど、既に経験済みだったとはな。
どうやら、俺は西側の正規軍兵士であったことには、間違いなさそうだ。
いったい、どこの所属だろうか?
後、何かあれば、重要なことを思い出せるのではないだろうか…。
くそ。記憶喪失がこれほどもどかしいのは、初めてだ。―
胸の中で失神するティハを抱きしめ直し、鉄骨を改めてシッカリと握る。
監視塔の揺れは続く。だが、雷はいつの間にか止み、小雨となってきていた。
しばらくすれば、完全に止むだろう。
水は何時引くか分からない。ここは体力温存し、大人しくしているしかなかった。
夜のジャングル。風の通し良い監視塔。全身水濡れ。その条件が重なり、体が冷えた。
だが、アニョウが抱きしめるティハの温もりが身体を温めてくれた。
雨は止んだが、空の雲は未だに厚い。星どころか月さえも見えない。いや、月は今夜は出ない。
作戦のために月が日中に上がる日を選択したからだ。
暗闇の中、大量の水が暴れる音だけがこの世界を占拠する。
しかし、岩や木々が衝突する音は、いつの間にか消えていた。上流で流されるべき物が無くなったのだろうか。それとも、鉄砲水が治まり、水量が一気に減ったのだろうか。
現状は暗く周囲を見通すことはできない。
監視塔の下で大量の泥水がゆったりと流れていることだけは分かった。つまり、まだ下に降りることはできない。水が引くまで、監視塔に居なければならない。
アニョウ達は、監視塔の耐久度が高いことを祈るしかなかった。
無為に過ごしているうちに、東の空が薄っすらと白く変化を始めた。
夜明けだ。何時間、監視塔の上で三人は大人しく我慢を続けていたのだろう。
尿意を催した時だけ、細心の注意を払い、服を脱いで用を足した。互いに秘所を見せ合うことになったが、兵士の日常で興味も湧かない。
リトルも恥じらいも照れることなく、さっと済ませる。それだけ、過酷な戦場を幾つも体験してきたのだろう。
徐々に太陽が昇り、周囲の状況を見渡すことができるようになってきた。
アニョウは周囲三百六十度を見渡す。
一面の沼地だ。昨晩までは鬱蒼としたジャングルであった場所に木々は無く、茶色い沼が広がっている。所々に岩や流木が残っていた。
前線基地の傍を流れる川も水量は大きく減り、普段より若干増水している程度であった。
前線基地の名残を残すのは、幾つかの監視塔だけだった。建設中だった前線基地の建物は、どこにも痕跡は無かった。あの中に居た人間は、全員建物もろとも流された。恐らく、中に居た人間は…。
十数本立っていた監視塔のうち、造りの荒い監視塔は、鉄砲水に流されどこにも存在しない。
アニョウ達が居る頑丈な造りの監視塔だけが数本沼地に残されていた。
監視塔の足元には流木や植物の蔓や枝が大量に絡みつき、昨夜の鉄砲水の威力を見せつけた。
水は完全に引いている。足元は非常に悪いが、歩くことは可能だろう。
「先生、どうされます。」
強張った身体を伸ばす様に手足を大の字に大きく広げ、ストレッチをするリトルが尋ねる。
「そうだな。レジスタンスの集落に戻ろうか。」
アニョウはティハの額に手を当て熱を測る。熱くは無い。ほんのりと温かい。一晩中雨に濡れていたが、風邪は引いていない様だ。ついでに首筋にも指をあてる。安定した強い拍動が指先から感じられた。
「先生、乳繰り合うのは勘弁して下さいな。私の居ないところでどうぞ。」
「検温と脈を確認しただけだ。ここでそんな気分にはならん。」
「冗談ですよ。武器は身に着けていたナイフだけですけど、辿り着けますか?」
「大丈夫だろう。政府軍もこの鉄砲水では動けまい。状況把握を優先するだろう。」
「了解。では、先に降りて地面を確認します。」
「頼む。」
リトルは監視塔の梯子を滑る様に降り、地面の直前で止まる。
そして、ぬかるんだ地面へとゆっくりと足を下ろす。
ずぶりと足が沈んでいく。まだ止まらない。ずぶりずぶりと沈み、くるぶし当たりで止まった。
リトルは梯子に手をかけたまま、地面の硬さを確認する。何度も足を地面から離しては、別の場所に足を下ろす。結果、どの場所までくるぶしまで埋まった。
リトルは両足を地面に足をつけ、身体の沈み具合を慎重に試す。無論梯子から手は離さない。
もしもの時の命綱だからだ。
「先生、大丈夫です。泥が堆積しているだけで地面はしっかりしています。」
「分かった。俺も降りる。」
アニョウは、気絶しているティハを左肩に担ぎ、いや、引っ掛け、慎重に梯子を下りる。ここでティハを落としては、無傷で助けた意味がなくなる。
地面に降り立ち、大地の感触を確かめる。
くるぶしまで足が埋まるが、リトルの言うように元の地面はしっかりと残っている様だ。
だが、元の地面は平らではなく、凹凸の激しい環境だった。深い凹みであった場所に足を踏み入れれば、土中へ飲み込まれるだろう。
危険は何にも去っていない。
「よし、行こうか。」
ティハを両肩に襟巻の様に担ぎなおしたアニョウは言う。
「はい、行きましょう。先生。」
リトルは普段と変わりの態度で返答をし、レジスタンスの集落に向け、進み始めた。
アニョウもリトルもルウィン隊の仲間を探そうとはしない。そして、話題にすらしない。
二人が冷たいのではない。
周囲には何も無いのだ。
一面の沼。そこに人影は全くない。構造物も無い。
大きな声で呼びかけることは政府軍を呼び寄せる可能性がある。
なによりもあの濁流に巻き込まれたのであれば、この辺りではなく、もっと下流に流れ着いていることだろう。
この付近を捜索する意味が無いのだ。
そして、下流に流されたのであれば、濁流に揉まれ、絶望的であろう。
ゆえに二人は探さない。話題にもあげない。
ここは死と静寂が満ちている。
元はジャングルの木々が茂り、動物達の鳴き声に溢れていた。
だが、今はべちゃりべちゃりと泥から足を抜く音だけが響く。鉄砲水の被害範囲は広かった。沼地を横断し、最短でジャングルへ近づこうとする二人だが、ジャングルはなかなか近づかない。
ほんの三十分ほどの距離を二時間かけてようやく沼地を抜けた。
岩場を見つけ、そこに腰を下ろし、ようやく人心地をつく。
ジャングルに入っても動物達の鳴き声は聞こえない。鉄砲水に恐れ、潜み、隠れているのだろう。
自分達の息だけがジャングルに響いた。