21.突入
アニョウは、深呼吸一つで焦りを消す。
立ちどころに呼吸は一定の周期を取り戻し、乱れた呼吸と思考が規則正しいものへと戻る。
上昇した心拍数もすぐに低下し、平常値と変わらぬ鼓動を刻む。
―こんな技をどこで俺は身に着けた?俺はジャングルで何を無くしたのだろう…。―
アニョウは鉄砲水という災害の真っただ中で、余計なことを考える程、落ち着きを取り戻した。
慌てたところで結果は変わらない。悪くなることはあっても良くなることなどないのだ。
梯子の頂上付近にアニョウは辿り着く。突然、左肩が軽くなる。先に昇ったリトルがティハを監視塔の頂上に引き上げてくれたのだ。
アニョウは頂上に一気に飛び上がる。
アニョウは梯子の下を振り返った。だが、そこには誰も居ない。ルウィン達も上がってくるものだと思っていた。
ゴーという音が体を震えさせる。
「先生、柱に!」
音がする方向を見ていたリトルが叫び、近くの鉄骨に抱きつく。
それを見たアニョウは、虚脱状態のティハを全身で抱える様にし、鉄骨にしがみつく。
次の瞬間、ドーンという音と共に監視塔は大きく前後に揺れた。
その衝撃は、大型トラックが直撃したかのようだった。一瞬、鉄骨から指が離れそうになる。
だが胸の中のティハの温もりを感じると握力が戻り、鉄骨を強く握りしめた。
監視塔は大きく揺れた後、小刻みに揺れ続ける。
アニョウは監視塔の床の隙間から下を見ると、凄まじい勢いの濁流が木々と共に流れている。ルウィン達の姿は最後まで見えなかった。
―他の監視塔に昇っていれば良いが…。―
ゴーという音は、ドガ、バキ、バキバキという音が混ざる様になった。木が折れるだけでなく、岩が割れ、水中を転がり、更にその岩が、木と岩を新たに砕いていく。そして、砕かれた木と岩が更に周囲に破壊を撒き散らす。
そして、かすかに人の悲鳴がチラリホラリと聞こえた。一人の悲鳴が聞こえるほんの一瞬だ。すぐに濁流に飲み込まれ続かない。だが、悲鳴は途切れない。別の者が新たに悲鳴を上げるからだ。そんな負の連鎖が続く。
濁流は人も物も選ばない。平等に無慈悲に建設中の軍事基地を押し流していく。
周囲が土の匂いで充満する。
水が大量の土砂を含んでいる証拠だ。この濁流は危険だ。中に溶け込んだ土がやすりの様に人体を削り、一緒に流れる岩と木々が体にぶつかり人間の体を潰していく。
絶対に落ちてはいけない、入ってはいけない水だった。
流される岩や木が監視塔に衝突する度に大きく揺れる。
―もつのか、それとも壊れるのか…。監視塔の強度が気になる。もつのだろうか。―
もうルウィン達の安否は考えていない。この時点で姿が見えないということは、そういうことなのだろう。
最後は戦死ではなく、災害死の様だ。兵士の死に様としては残念なのかもしれない。
だが、圧倒的質量に圧し潰されることは、本当の即死を迎えられる。銃で体を撃ち抜かれ、痛みに耐え、失血死するよりは楽な死に方だったのかもしれない。
それとも、頭を潰されず溺死するまで苦痛にのたうち、最後まで苦しみ抜いたのかもしれない。
それは本人にしか分からない。ルウィン達の身体が見つかるとは思えないからだ。
アニョウはこんな死に方は避けたかった。そもそも死ぬことは一切考えていない。生き残る方法しか考えることができなかった。
突然、頭痛がし、目の前が白く光る。
―くそ。こんな時に。―
アニョウは、己の記憶の渦に飛ばされた。
アニョウは山の谷間を流れる急流を這い登っていた。
周囲は暗く、日は沈んでいる。夜だろう。左右は急峻な崖となっており、四本足の山岳獣でもないと上り下りはできないだろう。
崖の上は針葉樹が生い茂り、この谷を覆い隠している。空からはポツリポツリ水滴が落ち始めている。
事前のブリーフィングでは、大雨になるという。
森林戦用の迷彩服に身を包み、上流から流された川の中のロープ一本を頼りに数十人の戦友達と黙々と沢登りをしていた。
先行したアルファ小隊がロープを設営し、ブラボー、チャーリー小隊が本隊として川を遡行していた。
ゆえに全身ずぶ練れとなっており、雨に濡れることなど誰も一向に気にしていなかった。
この山の奥にあるゲリラの拠点を叩く作戦だった。
そのゲリラが何をしたのか、何を目標としているのかは知らない。知らされていない。想像できることは、国益に反することなのだろう。
もっとも、その国益が誰にとってのものかは分からない。政治家の為なのか、国民の為なのか、あるいは国家の為なのか。
命じられたことは殲滅。それもこちらの身分が分からぬ様に痕跡を残さぬ様にと厳命されている。
ゆえにゲリラの見張りやパトロール隊から死角となる沢登りルートを進んでいた。
情報部の情報が正しければ、敵の本拠地まで戦闘なく、近づけるはずであった。
雨足が強くなるとともに川の流れも強くなる。
水の冷たさと川の勢いが体力を奪う。だが、屈強な兵士達は不平の一つどころか、表情を変えることなく黙々と沢を登り続ける。
二時間ほど川を遡上続けたところで兵士達は上陸を開始した。近くの草むらに身を隠し、全員が上陸するのを静かに待つ。
一分隊が警戒に当たり、小休止に入る。
小休止中に兵士達はM-16の分解清掃を始める。防水布に巻いていたとしても機関部に砂が入り込んでいるかもしれない。
それが元による動作不良を起こす可能性がある。歴戦の兵士達は、そんな些細な可能性すら許せない。
己の命だけでなく、戦友の命にも関わるからだ。
小休止が終わる前に整備を終え、静かに体を休める。ここから針葉樹の森の中を一時間歩く。そこにゲリラが拠点としている山荘がある。
その裏手と二階から同時に侵入し、敵を殲滅する。逃げ出した敵は、あらかじめ正面に展開したアルファ小隊が逃さない。
小休止後、兵士達は作戦通り展開し、山荘へと静かに突入する。
深夜の為、酔いつぶれたゲリラをナイフで静かに屠っていく。だが、一階から銃声が響く。その音でゲリラが続々と起き出す。
「敵襲、敵襲。撃て撃て。正規軍だ。」
「迷彩服は敵だ。殺せ。」
アニョウは廊下の壁に張り付き、身を隠す。
アサルトライフルの銃弾が傍を通過していく。バスバスと背中の壁から聞こえる。どうやら壁に良い材質を使っているのか貫通することは無い様だ。
銃弾の方向は確認した。ならばと、M-16の一斉射を敵の射点へばら撒く。短い悲鳴と共に射撃音が聞こえる。銃弾がこちらに来ないところを見ると死の間際に引き金を引いたのだろう。銃声が鳴り止むと同時に部屋へ滑り込む。
素早く周囲を確認し、ゲリラを探す。動いている人影があれば、即座に射撃をする。動く人影は無くなった。
「クリア。」
アニョウの報告で仲間が突入し、この部屋を占拠する。
「マガジン交換をする。」
報告を上げるとアニョウは物陰に隠れ、マガジンを交換する。そして、排莢口に取り付けられた排莢袋を取り外し、中の空薬莢を回収する。
排莢袋は全員が装着している。痕跡を残さない為だ。その為、マガジン交換も通常よりも時間がかかる。交換できる余裕があれば、交換を済ませた方が良いのだ。
建物内の銃撃戦が加速する。同時に無線も活発化する。
現状では、被害なく作戦を進めている様だ。しばらくすると、屋外からも散発的な銃声が聞こえる。数人が逃げ出したのだろうが、待ち構えていたアルファ小隊に撃たれたのだ。流れる無線の内容で手に取る様に分かった。
唐突に静寂が訪れる。銃声も悲鳴も聞こえない。耳が痛くなる程の静けさだ。無線も沈黙していた。
「敵の掃討を確認。痕跡を残すな。全隊確認。」
「アルファ、クリア。」
「ベータ、クリア。」
「チャーリー、クリア。」
「撤収。」
一斉に兵士達は沢へと走り出す。
沢に辿り着くと沢下りを始める。下りは足を滑らせると一気に何メートル、何十メートルも落ちる。余計に神経を使う。
そんなおり、ゴーという音が隊に迫ってきた。上流からだった。
誰もが何の音かと訝しんだが、足を止めてよいとの命令は出ていない。
黙々と聞いたことが無い音を耳にしながら沢を下る。
「水。鉄砲水。注意。」
無線に警告が流れる。アニョウは上流を見上げる。大量の水が頭上に迫り、巻き込まれた。
身体のそこら中に小石が当たり、四肢を捻じ曲げようと水が暴れる。
小石はボディアーマーがある程度守ってくれたが、四肢を奪われるのを防ぐため、達磨の様に身を丸くする。
呼吸は止めている。このまま五分間は耐えられる。後は、水流から逃れられるかの偶然に任せるしかない。
途中の岩に引っかかるか、川岸に打ち上げられれば、助かる可能性はある。
そんな偶然を祈りながら、アニョウは窒息により意識を失った。




