20.殺人
アニョウは呆けているティハの頬に平手打ちを喰らわせた。
―時間が惜しい。これで正気に戻るか?―
ティハは緩々と顔をアニョウへと向ける。頬だけ赤く腫れているが、顔面は蒼白であった。視点は定まっていない。アニョウとティハの間を彷徨っている。
―ちっ!衝撃が足りないか。気は進まんが…。―
アニョウはティハが抱きかかえる少女を力一杯壁へと蹴り飛ばす。四肢をバタつかせながら、少女の死体は壁に叩きつけられた。四肢は曲がらぬ方向に折れ曲がり床へとずり落ちていく。
「なんてことを!」
身体が軽くなったティハがアニョウを睨みつける。その目は力強く、怨嗟に満ちていた。これほどの憎しみの視線をアニョウはティハから浴びたことは一度も無かった。
「ほう、一瞬で正気に戻ったか。次の部屋に行く。後悔は作戦に生き残ってからしろ。」
アニョウは敢えて嘲る様な口調でティハを見下ろす。その目と口調にティハは唇を強く噛む。一筋の赤が流れる。
雷光が部屋を再び照らす。ティハの目にも部屋の惨状と返り血を浴びたアニョウとリトルの姿が目に入った。
「二人は何も感じないの。子供だよ。非戦闘員だよ。どうして、民間人を殺せるの?」
「民間人が非戦闘員とは限らない。俺は正確には民間人だ。だが、レジスタンス、いやゲリラに参加し、兵士として戦っている。民間人は全員もれなく非戦闘員とは限らない。」
「それでも子供は関係ない!」
ティハの感情が爆発し大声となる。アニョウは議論をするつもりはない。すかさず、平手打ちを加える。体重の軽いティハがよろけ、膝をつく。
「騒ぐな。静かに話せ。ちなみにアフリカでは、子供も兵士として銃を握っている。ここで意味のない議論をする時間は無い。俺は死にたくない。」
アニョウの突き放す冷徹な声にティハがようやく正気を、いや、現実を噛みしめる。
顔は全く納得していない。だが、この場に留まり続けることで良い結果が生まれることは無い。それだけは理解できた。
動かなければならない。
アニョウとティハのやり取りで腑抜けていたルウィン達も何とか気迫を取り戻す。
「アニョウの言う通りだ。作戦を続行する。」
ルウィンはそう言うと廊下を窺うため、立ち上がった。
「すまん。俺がやるべきことを押し付けた。」
ルウィンがアニョウの横を通り過ぎる時、小さな声で耳打ちをした。
廊下に人影は無く、次の部屋の前にルウィン隊は立った。聞き耳を立て、物音をしないことを確認すると静かに室内に侵入する。
先程同じ様に二段ベッドに更衣ロッカーが置かれた素っ気ない部屋だ。六人は分かれて、すばやくナイフを急所に突き立てる。
人影が男か女か確認しない。毛布の膨らみが大きいか小さいか見ない。急所と思われるところへ一気に刺す。もう考えたくないのだ。
アニョウが刺した人影が苦しさから四肢をバタつかせる。毛布が床に落ち、十代後半の少女が泡を吹きつつ、全身を痙攣させた後、静かになった。
どうみても兵士ではない。筋肉は細く、満足な食事をとっていなかったようで痩せ気味だ。
アニョウはティハの方を見る。ティハがナイフを突き立てたのは、総白髪の老婆だった。
皮膚は皺だらけで枯れ木の様な四肢をしていた。恐らく戦場に立つことなどできない。銃を撃てば、その反動に吹き飛ばされることだろう。
ティハは床に崩れ、両手をついていた。そして、その場で腹に入っていた物を全て口から逆流させていた。
明らかに非戦闘員だった。またしても、兵士とは違う守るべき民間人に牙を突き立てていた。
ティハは、出せる物をすべて出すと服の袖で口を無造作に拭く。普段の理想に燃える目は、血走り、瞳孔は開き、視点が定まっていないように見えた。
「これで正しい。レジスタンスは正しい。私は正しい。」
ティハは、口の中で呟く。正気を保つのが精いっぱいの様だ。それはルウィン達も同じだった。父親と思しき人物を除くと戦闘に耐えられるような人物はこの部屋には居なかった。そんな人物達をルウィン達は、無抵抗の人間をナイフで殺した。
一刺しする度に己の魂を削り取っているかの様だった。
「ねえ、先生。あれら、限界と違いますか。」
独特のアクセントで話しかけてくるのはリトルだった。
戦意の低下。士気は最低。正常な判断能力は皆無。言われた作戦を操り人形の様に反復する。それがルウィン隊の現状だった。
「そうだな。発砲音も聞こえないところを考えるに他の部隊も同じ状況だろう。ここで無理をして、これ以上心を壊す必要は無いだろう。」
「なら、撤退ですね。こんな状況では、敵前逃亡に当たりませんよね。」
「ああ、継戦不能だ。ルウィン隊の皆の精神が崩壊する前にここを離れよう。」
「おやおや、先生は素直じゃありませんね。ティハさんの為でしょ。」
リトルが意味深な顔でにやついている。
―人が虫の様に殺される状況で笑えるとは、こいつは殺人鬼か?それとも、出会った時から壊れていたのだろうか。
俺も同じだな。この惨状を見ても何も感じない。
間違いなく地獄が広がっている。
記憶が無いせいなのか、それとも、俺も記憶を失う前から壊れているのか。つまり、リトルと同類の殺人鬼なのだろうか。―
まともに真っ直ぐ歩くこともできなくなったティハを左肩に担ぎ上げる。右手には安全装置を外したAK-47を構える。
この状態ではナイフを使った隠密戦闘や格闘戦など出来はしない。自衛能力を優先すべきと判断をした。
ルウィン達の精神状態は悪いがアニョウについて行くだけの判断力は残っていた。
アニョウが歩き出すと一列になってその後ろを幽鬼の様に青い顔でついて来る。周辺警戒もおざなりだ。戦意喪失をしている。
敵に撃たれても反撃できる様には見えない。いや、不可能だろう。
リトルはルウィン達の周りを一周し、アニョウの左側に立った。肩をすくめる。ルウィン達は役に立たないという意思表示だろう。
左側に立ったのは、アニョウの死角をカバーするつもりなのだろう。
アニョウ達は、元来た道を辿る。それが敵と会う確率がもっとも低いからだ。
耳を澄まし、目を凝らし、敵の気配を探る。闇夜の中、時折光る雷が周囲を明るく照らす。
その都度、アニョウ達がしてきたことを赤裸々に映し出し、罪の意識を押し付けてきた。
自然までも敵だ。そうとしか思えなかった。
雷鳴の合間に聞きなれぬ重低音がかすかに耳に入った。ゴーっという音だ。初めて聞く音だった。
重機や兵器の音ではない。それらの音であれば、即座に判断がついただろう。
だが、切れ目なく続くゴーという音はアニョウの少ない記憶の中には無かった。
アニョウとリトルは顔を合わせる。互いに何の音か分かるかという表情をしていた。
つまり、これは政府軍の攻撃や作戦行動ではないということだろう。
では、考えられることはなんだろうか。
「雨季による長雨。」
「激しい雷雨。」
「基地に沿う川。」
「上流にあるダム。」
交互に思いつく言葉を並べる。そして、二人の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
「鉄砲水。」
二人の声がはもる。
「ここは駄目です。平屋です。それに安普請です。」
「ならば監視塔か。」
「外、出ましょう。一番頑丈そうなところに。」
アニョウとリトルは廊下を全力で走り出す。音が小さいということは、まだ鉄砲水は遠くだ。しかし、到達は早い。
高所に逃げれば、生き残るチャンスはある。
敵に発見されることも気にしない。全力で逃げられる場所を探すために外へ飛び出す。
激しい雷雨の中でもゴーという音は良く聞こえた。それは確実にアニョウ達へ近づいている証であった。
「先生、二時方向。」
リトルが指差す監視塔を見る。他の監視塔と違い、鉄骨が三角に幾重にも組まれ、いかにも堅牢そうだった。
高さも十分ありそうだ。他の選択肢は無い。
「行こう。」
アニョウとリトルは、ぬかるんだ広場を全力で走る。転びそうになろうが、躓こうが関係ない。一秒でも早く堅牢な監視塔に辿り着かねばならない。
背後のルウィン達をちらりと確認する。千鳥足ながらも懸命にアニョウを追いかけている。
現在の状況は理解していないだろう。アニョウの真似をしているだけだ。
アニョウにルウィン達の面倒をみる余裕は無い。ティハだけで精一杯だ。下手するとティハすらも見殺しにする可能性すら残っている。
ドロドロの地面に足を取られながら懸命に走る。何とか監視塔の元へと辿り着くとゴーという音は雷の音すら消すほどに大きくなっていた。
だが、闇夜のせいで見えない。アニョウはリトルを先に梯子を登らせるとティハを担いだまま梯子を昇り始める。
AK-47はこの場で捨てた。梯子を昇るには邪魔なだけだからだ。一段一段確実に雨で滑らぬ様に慎重に昇る。
ここで落ちて、手足を捻挫するだけで死亡率が跳ね上がる。
アニョウを焦らせる様にゴーという音は益々大きくなる。その中にはジャングルの木々をへし折る音が混ざっている。
目には見えぬが、もう目の前まで鉄砲水が迫っているのだろう。
アニョウに焦りが生まれる。




