2.名前
男は目隠しをされたまま、ジャングルを歩かされ、途中で荷台か何かに乱暴に放り込まれた。居心地の悪い体勢を直そうとすると動くなと止められた。
幸いなことに大怪我をしていたのは顔面だけであった。
全身の痛みは打ち身によるものであり、骨折は無かった。
強制的に歩かされることで己の身体の状況を知ることができた。
だが、顔の怪我はひどい。鼻は捻じ曲がり、顔の中心は手榴弾の破片で抉られていた。
ただ、眼球に負傷が無いことと出血が余りないことが有難かった。
男は、どのくらいの時間、車に揺られただろうか。トラックなのか、装甲車なのか。
視界を奪われた男は、何も分からぬまま泥濘と凹凸がひどい道に身体を傷めつけられつつ、目的地に着いた。
荷台から降ろされ、無理やり立たされる。荷物の様な扱いだ。いや、荷物よりも格下だ。壊れても良い粗大ごみと同等だった。
未だに目隠しは外されず、周囲を目にすることはできなかった。頼りになるのは耳だけだった。鼻は、鉄の匂いしか嗅げないからだ。
歩きながら、男は聞き耳を立てていた。
女子供の団欒の声。火が弾ける音。包丁の規則正しい音。水が沸騰する音。どうやら、食事の準備をしている様だ。
―ここは集落なのだろう。恐らくゲリラの拠点となっているのだな。時間からして夕食の準備か。そういえば、腹が減ったな。虜囚の身で夕飯は出るのだろうか?―
男は連行されながらも、周囲の状況を探れるほど落ち着き払っていた。
男はその思考が異常である事に気づいていない。
一般人がゲリラに捕えられたにも拘らず、身の安全よりも食事の心配をしていることなど有り得ないのだ。
男は、背後から銃で突かれながら歩みを進める。右だ、左だ、と声を掛けられ、目隠しのまま歩かされた。
時折、何かに躓き、こけそうになるも両側から力強い手が、後ろ手に拘束された男の腕を掴み支えられた。まるで怪我を考慮していない乱暴な介助だった。
そして、扉を開く音が聞こえると男は乱暴に押し倒された。尻もちをつくかの様に体勢が崩れるが、そこには椅子が待ち構えていた。椅子に座らされると、すぐに手足にロープが巻きつく感触が加わる。
男は椅子に座らされた状態で拘束された。これで益々逃亡する機会は失われた。
―まあ、逃げる気は最初から無いがな。どこに向かえばいい?どちらが安全地帯だ?それすら分からん。ここで大人しく言う事を聞くしか選択肢が無いな。記憶が無いというのは、これ程やっかいだとは…。―
未だに目隠しは外されない。男が周囲の状況を知る手段は聴覚だけが頼りだった。
嗅覚は怪我により自身の血の匂いに占拠されている。他の匂いを嗅ぐ余裕は無かった。
部屋の中の足音を男は数える。正面に二つ。右に二つ。
―なるほど、十字砲火を形成しているのか。これならば、味方を誤射することはないな。
俺は何を冷静に分析しているんだ。今、殺されそうになっているんだぞ。
怖いはずなのに、なぜ、冷静なんだ。俺はいったい何者なんだ?やはり…。―
現在の状況に男の背中に寒気が走った。恐怖ではなく、冷静でいる自分自身が一般人とは思えず、己の正体を考えると思わず身震いしてしまった。
「ほう、流石に恐怖を感じるのか。震えているぞ。さて、尋問の続きだ。所属と名前を言え。」
先程の兵士の声が正面から聞こえてきた。男の身震いを恐怖によるものと勘違いした様だ。
だが、現実は己の存在が何者か分からない恐怖であった。
男の答えは変わらない。変えることができないのだ。
「分からない。俺は誰なんだ。誰か教えてくれ。」
「ふざけた奴だ。もう一度聞く。お前の所属と名前を言え。」
「本当に何も覚えていないんだ。だから答えたくとも答えられないんだ。
信じてくれ。いや、信じて下さい。」
「記憶喪失だとでも言いたいのか。馬鹿馬鹿しい。遊んでやれ。」
「了解。」
兵士達が代わる代わる男に暴行を加えていく。腹を殴り、脛を木材で叩く。
骨折や内臓破裂をせぬ様に加減をして、強い痛みを与えていく。内出血はしているだろう。
流石に重傷の顔は狙わない。既に重傷であり、自白させる前に殺す可能性があるからだ。
「所属と名前を。」
「わ、からない…。おもい、だせ、ない…。」
痛みを堪え、何とか答えを吐き出す。記憶が無い男の答えは変わらない。変えようが無いのだ。
その後、男は二時間に渡り兵士達による可愛がりを受けた。
無論、夕食にありつくことなど無かった。
男が目覚めた時、仰向けに寝かされていた。
背中の感触は柔らかく、布の肌触りも感じた。どうやらベッドの様だ。
目隠しはされたままで、周囲の状況は見えない。顔の傷は、痛いより熱いに変わっていた。
全身を殴打されたはずなのだが、そちらの痛みは感じなかった。
目隠しを外そうと手を動かそうとするがジャラリと金属の音がし、数センチで腕を動かせなくなった。
―手枷か。どうやら鎖で繋がれている様だ。―
男が身じろいだことにより、すぐ傍で若い女の声が聞こえた。
「先生、アニョウが起きたみたいだよ。」
「今行く。」
中年男性の声がし、足音が一つ男に近づいてくる。そして、傍で止まった。
「アニョウ君、起きたか。状況が分からないと思うが黙って聞いて欲しい。」
「その前に一つだけ聞きたい。何がアニョウだ?何のことだ?」
アニョウとはこの国の言葉で茶色を表す。
―茶色、茶色と呼んでいるものは何だ?―
「ああ、それか。そうだな。君は初めて聞くんだったな。君の仮の名前だよ。名無しのままでは、話がしづらくてね。こちらで勝手に名前をつけさせてもらった。」
「私が名付けたんだよ~。だって、君を発見した時、全身泥まみれの茶色一色だったからね。だから、アニョウだよ。」
若い可愛らしい女の声が割って入った。
「君がアニョウと言う名が気に入らなければ、名前を教えてくれたらいい。名前は有るのだろう。」
「だめだ。思い出せない。…アニョウでいい。」
「では、話を始めようか、アニョウ君。
私はここで医者をしているチーだ。
尋問後、身体を洗い、傷の手当てをしておいた。無論、着替えも済ませてある。服は洗濯中だ。後で返そう。まだ、アニョウ君の疑いは晴れていない。ゆえに拘束している。
これはお互いの為だ。私達は安心したい。君は殺されたくない。ならば、君の自由を奪うのが当然のことだと理解できるね。」
「無論だ。生かされるのならば、拘束でも牢屋でも構わない。」
「物分かりの良い子は好きだよ。
さて、アニョウ君の身体の状況だが、顔の傷が一番ヒドイ。
君の写真があれば、元の顔に戻すことも可能だったろうが、参考になる物が無い。ゆえに一般的な風貌で復元した。
形成手術をしたばかりだから、包帯は取らないでくれ。また、顔に触ることも禁止だ。まあ、顔が歪んでも良いなら好きにすれば良い。私には、君の顔がどうなろうが気にする事ではないからね。
まあ、ベッドに拘束されているので、顔に触れることは不可能だろうがね。
勝手に顔を弄ったことは謝ろう。だが、傷がひどくてね。破傷風になれば、顔面を無くす恐れもあった。手榴弾の破片を丁寧に取り除いておいた。
アニョウ君の同意は得なかったが、緊急避難だよ。アニョウ君も顔無しにはなりたくないだろう。
お詫びにそこそこ男前にしたつもりだ。ただ、ここの設備では限界があり、多少の傷は残るかもしれない。
顔が気に入らなければ、期間を空けて、顔が安定してから大きい病院で再手術をしてくれたまえ。ここでは今以上に良くすることはできない。
断っておくが、私の腕が悪いんじゃないぞ。設備が無いだけだからね。そこは間違えないでくれたまえ。
他には、後頭部を強打している。かなり腫れているが、頭蓋骨は割れていないだろう。ここにはCTもレントゲンも無いが恐らく大丈夫だろう。アニョウ君は今のところ、生きているし、嘔吐もしていないからね。脳に損傷を受けていれば、今頃死んでいるだろうね。
恐らく、その打撲が記憶障害の原因かね。何かのきっかけで記憶は戻ると思うよ。
ただ、いつ戻るかは分からない。五分後かも知れないし、十年後かもしれない。あるいは、死ぬ直前かもしれない。
トリガーとなる体験をすれば、それに関係づけられている記憶が戻る可能性はあるだろうね。
無理に思い出そうとせず、気長に記憶の回復を待った方が良いとだけ言っておこうか。」
―やはり、俺は記憶喪失なのか。俺は何者なのだろう?―
「さて、アニョウ君の待遇だが、現在は捕虜扱いだ。政府軍なのか、別の解放軍か、ただの民間人なのか、さっぱり分からない。ゆえに野放しにできない。しばらく、軟禁させてもらう。ただ、治療はさせてもらおう。
内の者達が手荒に扱った詫びだ。治療と衣食住は保証する。
アニョウ君のお世話係にティハ君をつける。何かあれば、ティハ君が近くにいるから声をかけてくれれば良い。」
「アニョウ、ごめんね。それとよろしく。私がティハだよ。見えないだろうから、声覚えてね。」
ティハと呼ばれた女の声は、若かった。恐らく十代後半だろう。少しおどけた口調が特徴だった。
―この声の持ち主が、俺の生殺与奪を握っているのか…。―
「ごめんて、何だ?」
「お腹、しこたま殴っちゃった。えへへ。ごめん。」
「俺を拷問にかけてくれた一人か。」
「拷問じゃないよ~。尋問だよ。大きな怪我はさせてないでしょ。」
「その詫びを兼ねて、ティハ君が看病に立候補してくれたわけだ。大目に見てやってくれると助かる。
他に聞きたいことは無いかね。」
「俺は解放されるのか。」
「君がシロだと確認できれば、解放しよう。クロならば捕虜のままだ。捕虜交換にでも使わせてもらおう。それに記憶が無ければ、何処に行くこともできまい。
私としては、この集落に馴染むことをお勧めするね。」
「わかった。俺には選択肢が無いということが…。好きにしてくれ。」
「では、拘束は続けさせてもらうが、ゆっくりしたまえ。あ~そうそう。もうすぐ麻酔が切れる時間だね。精々、痛みに耐えてくれ。」
「待て!鎮痛剤は無いのか?」
「アニョウ君、この程度の痛みに貴重な薬は使えないのだよ。頑張ってくれたまえ。」
そう言われるとアニョウの全身が痛み始めてきたような気がした。全身打撲による鈍痛が始まり、顔は整形手術による切り刻まれた痛みと熱さを感じる。
とたんに額に脂汗が浮き出し始める。
その汗を誰かがタオルでふき取ってくれた。
「がんばってね。アニョウ。」
「ふざけんな。ティハ…。」
そこで男=アニョウの意識は、激痛によりブラックアウトした。