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16.親指

 アニョウはマウントポジションという圧倒的優位を得ていた。しかし、それでも命の危険を感じさせる気配をアニョウの腰の下からリトルは漂わせる。

 リトルの目は野生の虎と同じく、獰猛さを湛えていた。

 アニョウのパンチを首だけ動かし、急所に当たらぬ様に微妙に調整を続ける。

 ―眼球の破裂、歯の破損だけは避けたい。この部位は、二度と元には戻らない。―

 強烈なパンチを喰らいながら、頬や額を用いてアニョウのパンチを冷静に受け止める。

 前半に不意を喰らい、鼻に直撃を受けたものの軟骨が折れただけで済んでいる。この程度であれば、後でいくらでも形成できる。

 赤い血が糸を引いているが、見た目ほど出血は激しくない。破損しやすい毛細血管が切れただけだろう。鼻の中を逆流する気配は無かった。

 アニョウは微妙にずらされるパンチの着弾点に不満を感じていた。

 完璧なマウントポジションを取っているにもかかわらず、未だに仕留めきれずにいた。

 急所である眉間、鼻の下や下唇の下を狙っても首の角度だけで上手くいなされてしまい、パンチの威力が逃げていく。

 ―うっとうっしい奴め。止めだ。―

 アニョウは右拳を握り直し、リトルの顔面へと振り下ろす。

 だが、背後からナイフで刺されるような気配を感じた。咄嗟に上体を左に反らし、背後からの攻撃を躱す。

 アニョウの頭があった場所には、リトルのコンバットブーツがあった。

 リトルは、殴られながらも足が自由に使える態勢を作っていた。そして、寝たままの姿勢で放った前蹴り。恐るべき柔軟性。

 だが、アニョウの野性的な勘が危険を嗅ぎ取っていた。

 アニョウが気づかなければ、それは延髄に綺麗に決まったことだろう。蹴りの威力は低いが、コンバットブーツの重みと硬さは、リトルが扱うと凶器に等しい。

「ほう、身体の柔らかさを生かした蹴りを放つとは恐れ入った。まさか、この姿勢から蹴りが放てるとは想像もしていなかったぞ。」

「あらあら、ありがとう。褒めて頂いて。でも乙女の顔を無遠慮に触るのは止めた方が良いです。状況を知らない人が見たら、変態さんに思われますよ。」

 お互い表情に余裕を浮かべせる。互いに勝つ気で居た。


 アニョウは蹴りを放てぬ様に臍から座る位置を下げた。丁度、リトルの膀胱の上あたりくらいだろうか。これで蹴り上げようとしても物理的に腿が上がらず、蹴りを放つことはできない。多少、四肢の拘束が甘くなるが、優勢を失ったわけではない。

 アニョウは右拳を再び固め直し、振り上げる。

 誰もがまたサンドバッグが始まるかと思われた。だが、その姿勢のまま、アニョウは微動だにしなかった。

 アニョウの尻の中央に親指一本が軽く押し込まれていた。

「先生、どうしました?もう、おしまいですか?」

 にこやかにリトルがアニョウへと話しかける。その間も親指の力はゆっくりと増大し、繊維の糸が一本また一本とピリピリと切れていく。

 このまま指を放置しておけば、ズボンはもちろん下着を突き破ることは間違いないだろう。

 その先に待つのは、未だ誰も到達したことが無い未知の穴が待っている。

「そこが切れたり、えぐれたりしたら、毎日のお不浄が大変でしょうね。

 痛みに苦しみ、真っ赤に染め上げる。

 治りかけては自分で傷を抉る繰り返し。完治するまで何日かかることでしょうね。ふふふ。」

 更に親指に力が入る。ズボンの上からでもそこに菊座があることは分かるだろう。

「俺は構わん。その程度の傷ならば、四肢や目を失うこと比べれば些細なことだ。では、いくぞ。」

 アニョウがパンチのモーションを再開する。

「負けで結構です。」

 アニョウの拳がリトルの眼前で止まる。

「こんな事で大怪我はしたくありません。先生の実力と覚悟はだいたい分かりました。

 負けで構いません。ちゃんと先生の言うこと聞きます。」

 リトルの親指がアニョウの尻から離れる。

 戦意喪失を確認したアニョウは静かにマウントポジションを解き、立ち上がった。

 リトルも上半身を起こし、いつの間に取り出したのか、きれいなティッシュペーパーで鼻血を拭っていた。

「ああ、鼻梁がまた崩れています。また、形成してもらわないと。はあ、高くつく勉強会でした。よっ。」

 小型の手鏡で傷口を確認していたリトルはひしゃげた鼻を自力で戻す。

 脱臼を直すだけでもかなりの激痛が発するにもかかわらず、リトルは己の鼻梁の歪みを指の二本で摘まんで治した。

 さらに微調整も加える。

 かなりの激痛が走っているはずだ。しかし、リトルは油汗一つ額に浮かばせることなく、爪を切るかの気軽さで鼻梁の形を修正した。

「まあ、これなら街に戻ってから手術しても鼻筋が歪むこともないでしょう。まあまあの出来ですな。」

「お前、痛くないのか?」

 アニョウは思わず聞いてしまった。

「ふふふ。痛いですよ。でも、人間、痛みには慣れるんですよ、先生。」

 笑顔で答える。

 ―中華か日本か知らんが、極東人は何を考えているか分からん。―

 麻酔無しで骨折の手術を自分でするような芸当はこの辺りの人間にはできない。そして聞いたこともない。

 もしかしたら、失った記憶の中にはそんな人物が居たかもしれない。だが、そんな人間とはお近づきにはなりたくないのが本音であった。

「一度、治療に帰らなくても良いのか?」

「はい、大丈夫です。今、応急処置しました。これで放置しておいても問題ありません。」

 リトルの鼻は、痛々しく赤く大きく腫れている。これはアニョウが殴った威力よりもリトルの応急処置が引き起こしたと言った方が正確だろう。

「本人が問題ないなら良い。近々前線に出る。覚悟をしておけ。」

「覚悟?何を今更です。この稼業を始めた時にしっかり腹をくくっています。」

 少しリトルの目が吊り上がる。気に障った様だ。

 表情から感情が汲み取りやすいのは、アニョウには助かった。人の機微に疎いからだ。感情を表情や態度出してもらえるともえらえないので有れば、表にドンドン出して欲しい。そうでなければ、アニョウは人の気持ちを理解できない。

 ―本当の自分ならば、その様な些事に悩まずに済んだのだろうか。本当の自分?本当とはなんだ?今の俺は嘘なのか?分からない。分からない。―

 気が付けば、周囲に村人達が集まり、結果はどうなったか聞いてきた。

 アニョウは答えず、静かに首を横に振る。

 ―実戦なら、間違いなく抉られていた。そうなれば、まともに歩けず、走れず、密林の養分となっただろう。ならば、負けたのは俺じゃないか。―

 そんな気持ちもあり、素直に勝ったとは言えなかった。

 認めるわけにはいかなかった。

 村人がリトルにも群がる。

「小さい体でよくやった。」

「意外に強いな。」

 などと褒め称えている。

 アニョウが数ヶ月かけて、集落になじんだのに対し、リトルは即日でなじんでしまった。

 ―リトルの掌の上で踊らされていたのではないか。―

 そんな考えすら浮かぶ苦い勝利。

 左裾を摘まむ感覚に今頃気づいた。どうやら、格闘戦の熱気で正気を失っていたようだ。

 ―こんな時、人間はどうすべきなのだろうか?―

 ふと、アニョウは空を見上げる。

 青空は消え、厚く暗い雲が立ち込め始めていた。

 スコールが間もなく来るのだろう。

 火照った身体と頭と心を冷やすには丁度良いのかもしれない。アニョウは広場に立ち続け、スコールが来るのを待った。

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