15.乱打
広場で大勢の村人に囲まれる中、アニョウとリトルの二人は対峙していた。
今回は、お互いに無駄な動きは取らずに静かに正対している。
―一度犯した失敗は繰り返さない。せっかく、リトルが指摘してくれたことだ。早速実践してみようじゃないか。―
アニョウは、人の意見に対して素直に聞ける性格であった。年下であろうが、年長者であろうが関係ない。己の利になることであれば貪欲に取り入れる。
ゆえに今までの戦闘で怪我をすることなく、生き延び、周囲から戦闘巧者であるという評価を得るようになった。
この柔軟な思考がアニョウの長所であったが、それは記憶喪失による自分自身という基盤を失った弊害なのかしれない。
本来のアニョウの性格を知る者はここにはいない。
アニョウはこの広場を俯瞰で考えていた。
―確か、あそこはああで。こっちはこうか。ならば、あそこにあれが。となると、そうすればこうできるか。―
声にならぬ声で口の中で考えをまとめていく。
如何にしてリトルに勝つか。その一点だけを考える。このまま、負けを認めるわけにはいかない理由があった。
アニョウ自身は、正直なところ勝敗には興味は無い。リトルが繰り出す技や攻防の組み立てには非常に興味があった。それを知ることにより、己の生存率が上がるかもしれないからだ。つまり、知ることができれば、負けても良いのだ。勝つ必要性は全くない。生死がかかっていないのだから。
だが、そういう状況になるわけにはいかなかった。
背後から感じる熱い視線が一つ。熱く、篤く、勝利を信じる強い視線が一筋。アニョウの背後をグイグイと押してくる。
視線に体を動かす力は無い筈なのだが、その応援の熱さと信頼の篤さにアニョウの鳩尾の当たりで熱い空気の塊の様な物が贓物を灼いていた。
―腹が熱い。内臓が焼かれる様だ。勝たなくともリトルの戦いを知るだけでよいのに…。くそ、何だ、この感情は。なぜ勝利を求める。―
その視線に答える必要性は全くない。ないのだが、アニョウはそこに込められた思いを裏切る気にはなれなかった。
逆にその視線の思いに応えたいと思っていた。
「いい顔になりましたね。勝つ気が溢れていますよ。良い傾向です。私も楽しめそうです。」
リトルがジャングルの熱気にも負けず、涼やかに言い放つ。次に始まる攻防戦が楽しみで仕方がないようで口角が上がっている。
どうやら戦闘狂の毛があるようだ。
「俺には、勝敗はどうでも良かった。だが、どうやら負けることは許されていない様だ。俺の勝ちを心から信じる者がバディであるのならば、それに応える必要がある。そうでないとバディを名乗るわけにはいかない。」
「う~ん、お二人さんの価値観に齟齬があるようですけど、バディとしての相互関係はしっかり確立しているのですね。でも、私、わざと負けるみたいな真似は上手にできません。許して下さいね。」
「知らん。」
アニョウは会話を打ち切ると静かにゆっくりとリトルとの間合いを詰めていく。足運びは地面から浮かせぬように摺り足に近い。膝も軽く曲げ、上や下への屈伸に素早く対応できる。上体は先の戦闘では防御のため、猫背の様に身を固めていたが、今は空から紐で吊るされているかのように背筋が伸びている。
両腕は正面で胸を守る様に構えているが、先ほどと違い、脇をしっかり締め、蹴られても動かない様に固定している。だが、無駄に力を入れている訳ではない。
その証拠に握り拳には、空間が開いており、力が入っていないことが見て取れる。
大きな戦闘スタイルの改良がこの数分でされた。
「驚きました。この短時間で軍隊格闘術から武術に近い物に変わりましたね。それも段位者と同じくらいの実力を感じます。あなたの格闘センスはどうなっているのです。普通は、自分のスタイルを大きく変えたりできませんよ。」
「俺には記憶が無い。つまり、無だ。どうとでもなる。」
「ま、さっきよりはマシになりました。楽しみです。」
リトルは自然体のまま直立している。構えは取らない。
お互いの距離が二メートルまで近づく。すでに互いの攻撃可能圏内、つまり間合いの中だ。だが、二人とも攻撃は始めない。
リトルは微動だにしない。口角を上げたまま、可愛いらしい顔を維持している。
アニョウは無表情でじわりじわりと近づいていく。そしてゆっくりと右手を前へ伸ばしていく。リトルの左手首を掴もうという意図が見えた。
だが、それにしては動きが緩慢だ。意図がハッキリと見えており、回避することはあまりにも簡単だった。
お互いの距離が手を伸ばせば触れ合う距離まで詰まる。
周囲の観客たちも静かに何が起こるか、成り行きを楽しみに見つめている。
アニョウの掌がリトルの左手首に触れる。アニョウの動きが切り替わる。素早く手首を握る。
だが、リトルはそれを手首の回転力だけで払いのける。そのまま、リトルの両掌がアニョウの腹部に添えられる。
「発!」
リトルの口から裂帛の気合が叩きつけられる。同時にアニョウの腹部がハンマーで殴られるような衝撃が伝わる。
アニョウは殴られることを覚悟しての接近だったが、その痛みは想定以上のもので、またしても肺の全ての空気を体外に強制的に吐き出される。
―痛い。息ができない。だが、今!―
攻撃が来ることが分かっていれば、反撃は可能だ。己の体の頑健さを信じ、反撃を試みる。
腹部を強打されたことにより、自然と上半身が前とつんのめる。ならば、その動きを活かし、利用するのみ。
アニョウは痛烈な痛みを我慢し、頭部をリトルの顔面へと振り下ろす。
リトルはその動きを読んでいた。上半身を後方へ反らせ避ける。これでリトルの視界は塞がれた。
アニョウは伸ばしていた右腕で迷彩服のズボンに通されているベルトをしっかりと握り、全力でリトルを引き寄せる。
リトルが体を後方に反らせたため、顎がむき出しだった。
そこへアニョウの頭部が食い込み、ガツン。と、鈍い音が広場に広がる筈だった。
だが、リトルの柔軟性は想像を超えていた。背中を弓なりにし、身体を更に反らせてアニョウの頭突きを避ける。
アニョウの眼前にリトルの小ぶりな双丘があった。
だが、ベルトを握った腕は振りほどけていない。空いている左腕も腰のベルトを握る。
これで完全にリトルの自由を奪えたはずだ。
アニョウは力いっぱい両腕でリトルを引き寄せる。互いの下半身がぶち当たるが、どちらも気にしない。
アニョウは一歩前進する。リトルは不自然な態勢であるため、それを受け入れる。一歩だけ足を引き、踏み止まろうとする。
だが、その足は宙を踏み抜いた。地面に穴が開いていた。その穴に誘導されたのだ。
リトルの体はアニョウに押し倒されるように地面へと倒れていく。手を使おうにもアニョウとリトルの体に挟まれている。
体を捻ろうとするもアニョウの両の手にベルトをガッチリと握られ、下半身の自由が利かない。
アニョウは遠慮なく顔面をリトルの双丘に埋める。そして、全体重を乗せ、地面に叩きつけた。
アニョウの八十キロを超える体重と倒れる勢い。そして追い打ちに倒れた場所は、地面にビッシリと石が埋まる箇所だった。
リトルは胸をアニョウの頭蓋に強打され、背中を地面の石へと叩きつけられる。
「けはっ。」
今度はリトルが肺の空気を絞り出される。遅れて後頭部を地面に叩きつけられる。
前後からの痛みに後頭部の痛みが加えられる。
これはリトルがアニョウに与えたダメージを超えている。特に後頭部の地面への当たり方はまずかった。受け身を取っていないところに石が埋まった地面だ。致命傷に至る可能性があった。
アニョウは呼吸をすることなく、止めたままリトルに馬乗りとなる。いわゆるマウントポジションだ。両腕も両足と体重で動かぬ様に固める。
ここで初めて深呼吸をし、肺にジャングルの濃密な緑の香りを含んだ空気を送り込む。
「ゴホ、ゴホ。」
新鮮な酸素に肺がむせる。だが、アニョウは気にしない。いや、気にできない。リトルの目は死んでいない。攻撃色が溢れている。
容赦なく顔面に拳を叩き込む。リトルの小顔とアニョウの大きな拳は、顔との大きさと等しい。その拳が左右入れ替わりで顔面に叩きつけられる。
アニョウの拳が顔面から離れる時、赤い細い糸の様な物で繋がる。
血だ。リトルの可愛らしい鼻はひしゃげ、血にまみれている。だが、アニョウは攻撃を止めない。
リトルの攻める意思が残っているからだ。歯を食いしばり、リトルはアニョウの乱打を耐える。
殴られながらも隙を伺う。まだ、ここから勝てると目が言っていた。