13.訓練
翌日の軍事訓練からリトルは参加した。
集落を取り囲むように張り巡らされた障害物コースを十周する。準備運動の後、軽く体をほぐす訓練だ。
塀、堀、砂場、網などの様々な障害を乗り越え、走り続ける。落伍者にはティハからゴム弾を見舞われる。基本的には威嚇なのだが、使用している銃がAK-47のため命中率が悪く、たまに命中するのが程よい緊張感を保っていた。
そして、先頭を走るのはアニョウだった。怪我から完全に回復してから数ヶ月が経過している。さらに日頃から体力トレーニングを己に課していた為、今ではこの集落のレジスタンスの中でもっとも体力が有った。
涼しい顔でアニョウは、先頭を走る。今は速度よりも体を効率よく動かすことを念頭に置いていた。
つまり、身体の動作の最適化である。
例えば、コップを取る時に人は真っ直ぐ最短距離でコップを取っているとは限らない。円弧をかいたり、手先が上下しつつ、コップを握る。
無駄な動きを無意識に含んでいた。些細な無駄である。ほんのコンマ何秒のロス。だが、それを積み重ねていけば、一秒となり二秒となる。戦場の一秒の差は大きい。
頭を蛸壺の中にひっこめる動作に一秒の差があれば、優に数発の弾丸が通り過ぎる。
膝、くるぶし、股関節を的確に無駄なく動かすことができれば、危険察知から一秒早くしゃがみ込める。他人よりも早く動けるのだ。
これは大きなアドバンテージとなる。敵を発見して狙って撃つ動作もそうだ。一秒早く先制攻撃ができるのだ。
その為、アニョウは訓練において全ての動作の最適化を目指していた。
その積み重ねがレジスタンスの中で一目を置かれる存在へとなり、先生役を上層部から押し付けられたのだ。
その押し付けられた生徒は、幼い容姿をした少女だった。だが、歳は十八歳だと言い、成人していると本人は言っていた。
自己紹介で名乗ったリトル・スプリングは間違いなく偽名だろう。マフィアの人間が堂々と本名を明かす訳がない。
ビジネスネームといったものだろう。しかし、小さなバネとはよく言ったものだった。英訳の意味は違うのかもしれないが、アニョウの背後でリトルはバネの様に元気に飛び跳ねていた。塀や堀は軽快に飛び越え、網は小さく縮んで潜り抜け、アニョウの後方五メートルをピッタリと追尾していた。すでに三周目を超えているが、ペースが落ちる気配はない。
ジャングル特有の湿度と温度により汗は掻いているが、スタミナが減っているようには全く見えない。疲れを感じさせない軽快さであった。
―大口を叩くだけのことはあるな。シールズの訓練をクリアしたというのも本当かもしれんな。―
リトルの走りを見ていれば、自己紹介の口上は信じられるものであった。
―待て。おかしい。なぜ俺はシールズの訓練内容を知っている。あれは軍事機密の塊だろう。映画にもなっているがあれは脚色と省略の塊だ。あの程度ではない。なぜ、それを俺は知っているのだ…。映画だと。そんな物をここで見たことは無い。くぅ、頭が痛い。―
後頭部に鈍痛を感じると同時に視界が白く染まった。
アニョウは迷彩服のままジャングルの中を流れる川の中にいた。アサルトライフルM-16を水に濡らさぬ様に頭上に両手で掲げ、静かに川の中を歩いていた。
周囲には戦友達が同じ様な格好で静かに水音を立てぬ様に歩いていた。
かれこれ三十分は同じ格好で川を遡上していた。潜入作戦の訓練だ。川の両岸に指導教官が実弾の入ったM-4の銃口をこちらに向けている。
水音を立てた者、銃を水に濡らした者には容赦なく実弾が叩き込まれる。至近弾で抑えられているが、何かの拍子で命中するかもしれない。
もしくは、流れ弾が襲うかもしれない。そんな緊張感の中、アニョウは泥で濁った川を歩き続けていた。M-16は約四キロほどあった。それを頭上に掲げ続けていた為、腕の筋肉は引き攣り、痙攣を起こしていた。
しかし、手放さない。手放せば、水音と水濡れによる制裁が待っている。教官の命令が無い限り、アニョウ達は現状の命令を守り続けねばならない。
―くそったれ。明日からシールズとの共同訓練だというのに休ませろ。体力を使い果たして、明日の訓練で実力が発揮できないだろう。
いや、それが狙いか。こちらの練度が低い様に見せかける為に、あえてしごいているのか。ああ、思考がまとまらん。仕方ない。今はこの訓練を完遂するだけだ。―
「先生さん、先生さん。どうかしましたか。訓練に身が入っていない様ですけど。」
いつの間にかアニョウと並走しているリトルが声をかけてきた。その声でアニョウは正気というか、記憶のかけらから戻ってきた。
―くそ。今、何か大事なことを思い出そうとしていたのに。もう少しで俺が何者かの片鱗が掴めたかもしれない。忌々しい奴め。―
と、心の中で悪態をつきつつも表情には出さない。
「お前に何を教えれば良いのか分からず困っていたところだ。」
事実、何を教えるべきなのかアニョウには分からない。体が出来ていなければ、基礎トレーニングをひたすらやらせるつもりであった。
だが、最初の障害物競走から優れた敏捷性、卓越した体幹、しなやかな柔軟性を発揮していた。つまり、基礎体力という土台はしっかりと作りこまれていたのだ。それもここ数年のトレーニングではなく、生まれた時から日常がトレーニングであったのではと思わせる程であった。
アニョウがその土台を手直しする必要性は全くなかった。
「いいのです。私が勝手に先生の技を盗みますから。技は見て盗むのが流儀です。先生さんは普段通りにして下さい。」
「では、そうさせてもらう。」
アニョウはそう言い放つと訓練へと意識を向けた。
障害物競走を終え、広場へと場所を移した。格闘戦の訓練だ。格闘技経験者はいないため、泥臭い殴り合いだ。一対一で相手を降参に追い込む。それがここでのやり方だ。
普段通り、アニョウはティハと格闘戦の訓練を行う。アニョウにとってティハは素早く小柄で捕まえにくい相手であった。さらに体操経験者ということもあり、アニョウが想定しない柔軟性でアニョウのパンチを躱したりもする。
逆にティハにとっては、力が強く体も大きく、パンチやキックの一、二発では沈まない頑丈な敵であった。
丁度、お互いが苦手とする敵であった。ゆえに格闘戦の訓練は常にこの二人で取り組んでいた。
別の一面もある。お互いの動きを知るということは連携が取りやすいということだ。バディになって会話ではなく、雰囲気でお互いがどの様な行動を次に起こすか分かる様になったのも大きかった。
アニョウが力の籠ったパンチをティハの顔面へと繰り出す。ティハは柔軟性を生かし、背中に大きく反りそのままアニョウの顎を蹴り上げる。バク転の要領だ。
全身の回転力がのった蹴りはアニョウの両腕に阻まれる。アニョウが顔をほんの少ししかめる。
ティハはバク転が終わると同時に全身の柔らかなバネを生かし膝蹴りを放つ。アニョウのガードごと吹き飛ばすつもりだった。アニョウは膝頭を右手で握りしめ、ティハの全体重を受け止める。
右手の指が吹き飛びそうになるほど痛い。だが、ここで手を離せば、鼻を潰されるだろう。勢いを殺すことに成功しても鼻血を出したくない。
完全にティハの膝を掴んだところで左手でティハの胸を狙い撃つ。
そこでティハは驚くべき軽業を披露した。アニョウが右手でティハの右膝を固定したため、自由な左足で顎を蹴り上げに来たのだ。
地面や壁を足場にしての蹴りは基本だが、人間が固定する腕力を足場にするなど聞いたことは無い。
アニョウがガチガチに固めた右手のお陰で足場にできたのだ。
アニョウは膝から手を離し、バックステップで前蹴りを避ける。足場を失ったティハは蹴りが不安定になったにもかかわらず、バランスを崩すことなくその場にふわりと立った。
一攻防目は引き分けだった。
次の攻防をアニョウは考える。
―打撃ではなく、締め技を狙うべきか。ベアハッグからの頭突き。これならば、柔軟性や体幹の良さも活かせないだろう。―
ティハも次の攻防を組み立てた様だ。じわりじわりとお互いの間合いが狭まっていく。
―ここだ。―
アニョウはラリアットに見せかけたベアハッグをティハへ仕掛ける。
ティハはラリアットを躱すべく、進行方向をずらす。だが、それもアニョウの読み通り。隠していた瞬発力を生かし、一気にティハを抱きしめ、腕ごとギリギリと締め上げていく。
ティハはベアハッグから逃れようと身じろぐがアニョウの力には及ばない。胴体を絞められ、顔が苦しみに変わっていく。アニョウが頭を後方へ反らし、振り下ろそうとした。
「先生さん。いちゃつくなら夜に二人きりの時に頼みます。もっと戦場がひりつく様な攻防が見たいのですけど。」
いつの間にかアニョウの背後を取り、耳元に息を吹きかける様にリトルが声をかけた。
アニョウは油断していなかった。だが、簡単に背後を取られてしまった。
アニョウの戦意は、ティハからリトルへと移った。やさしくティハを解放する。ティハは軽くふらついただけで直立した。深刻なダメージが入る前であった様だ。
アニョウはリトルへ振り返り言い放つ。
「では、その身で確かめるがいい。」
アニョウのこめかみに太い血管が浮き出していた。本気のティハとの攻防を馬鹿にされたのだ。
誰も遊んでなどいない。次の戦場ではどちらかが命を散らすかもしれない。そんな覚悟のもとに格闘戦の訓練をしていた。
だが、目の前の少女は、遊びだと断言した。
絶対に許せることではなかった。