1.喪失
男が目を開けると濃い緑が茂り、その隙間から青く碧くどこまでも高い空が見えた。
蒼空には雲一つ無かった。
「ああ、綺麗だな。」
と男は呟いた。
だが、男の意識がハッキリしてくると空を奇麗だと言っていられる状況ではなかった。
周囲360度からは乾いた銃声が途切れることなく聞こえた。
時折、周囲に着弾し樹々に弾痕を刻み、樹皮が弾け飛び、小枝や葉が吹き飛ばされている。
―何が起きている?なぜここにいる?…それよりも、俺は、誰だ…。―
男は仰向けに倒れていた。
周囲は、熱帯性の樹木が生い茂り、地面は泥の様にぬかるんでいる。スコールが通り過ぎた後だろうか。
肌に貼り付く湿気と熱気、背中から伝わる纏わりつく泥の感触が男の肌を這いまわる。いわゆる不快感だ。
そこはジャングルだった。男は銃弾飛び交う戦場で目覚めた。
男が深呼吸をしようとすると、全身の筋肉と骨が悲鳴をあげた。
特に顔は熱く呼吸すらままならない。口の中に鉄の味と臭いが充満する。
それらの痛みと後頭部の痛みにより男の意識がはっきりしてくる。
「全身が痛い。特に、頭痛と顔の痛みがひどい。」
顔が痛いのは当たり前だろう。
目の下から口元にかけて手榴弾の破片などが喰い込み、ズタズタに皮膚を食い破っていた。
ところどころ筋肉と骨が露出していた。真っ直ぐであるはずの鼻はひん曲がり、顔の骨が削れていた。
酷い傷の割に出血は少なかったが、それは重度の火傷によるものであった。火と熱により血管が焼かれ、止血されていた。
その傷は、男の人相どころか、若いのか、年を重ねているのかも判別させなかった。
ただ、首の肌の滑らかさや張りから見て二十代半ばであろう。
日焼けで良く焼けた肌と黒い髪が、アジア系であることを示していた。
男は手を動かそうとするが痛みが邪魔をする。しかし、四肢は問題無く付いている様だ。
指が動く感触でそれは理解できた。
左側から温かい物が流れ落ち、男の左手に触れた。
それが何かを確かめるために痛みを我慢し、左手を何とか少しだけ上げる。泥まみれの手の甲には赤褐色をした粘度のある液体が付着していた。
血だった。まだ生暖かい。
流れてきた方向へ目を向けると、人間が一人すぐ傍にうつ伏せに転がっていた。首や四肢はあらぬ方向に捻じ曲がっていた。
男の方に向いていた顔を見ると、中心から吹き飛ばされている。かろうじて男だと分かるだけだ。こちらも日焼けと黒髪でアジア系だと思われる。
粗末なシャツとズボンを着ており、その服には、無数の穴が刻み込まれ、血がゆっくりと流れ出していた。その血が男のところに流れついたのだ。
恐らく死んでいる。ピクリとも身動きをしない。四肢はだらりと力が抜けていた。
―友人?知人?誰だ?こいつは?―
まだ、頭がぼうっとしており、判断能力が低い。
さらに痛みで身動きが上手く取れない。
そんな体で死体を確かめようと男が身体を起こせば、頭上を飛び交う熱い鉄の奔流に身を晒すことになる。
ここは戦場なのだ。四方八方から鉛玉を浴びることは間違いない。
背中がヌルヌルした泥で気持ち悪いが、仰向けの姿勢のまま静かにポケットを探った。痛みは続いているが、思考と身体の自由は戻りつつあった。
―身分証明書でもないだろうか?それがあれば、俺が誰か分かるだろう。―
男は幾つものポケットをまさぐる。どうやら着ている服は前開きのボタンシャツとズボンの様だ。要は隣の死体と同じ様な服装であった。
所持品は、財布どころかハンカチすらなく、スマホだけがポケットに入っていた。
だが、電源は入れられない。画面が光れば己の居場所を伝えることになる。そうなれば、隣で倒れる男と同じ運命が待っている。蜂の巣だ。
自分が誰なのか、現在地はどこなのか、色々と確認したいところだが、戦闘が終わるまで我慢しなければならない。
男は覚醒したことにより尿意を催した。しかし、戦闘が途切れる気配は無い。未だに無数の殺意の籠った弾丸が眼前を縦横無尽に飛び交っている。
―我慢をするだけ無駄か…。いつ終わるか分からんからな。―
仕方なく、ズボンを履いたまま、小を済ませた。股間に生温かい感触が広がっていく。
―大人になってお漏らしとは情けない。―
そして、男はふと気づいた。
―なぜ、冷静なのだろうか?
なぜ、落ち着いているのだろうか?
なぜ、不安にならないのだろうか?
何も思い出せない。
どうして、戦場に居るのか?
どうして、ジャングルに横たわっているのか?
どうして、財布や身分証明書を持っていないのか?
分からない。
頭痛と関係があるのだろうか?
記憶障害が起きているのだろうか?
俺は民間人なのか?それとも兵士なのか?
俺は何者だろう。
俺はジャングルに全てを失くしたのか?―
男は激しい銃声が響く中、心静かに何があったのか、自分が誰なのか思い出そうとしていた。
男が幾ら思考を巡らしても記憶の手掛かりは得られなかった。だが、一つの結論には辿り着けた。
―記憶喪失なのだろう…。―
男が思い出せたことはそれだけだった。
ゆっくりと手を動かし、周囲に何か無いかと探り始めた。
もしかすると、倒れた折に近くに所持品を落としたかもしれないと考えたからだ。
すると右手に固い物が触れた。冷たくて硬い鉄の感触。だが、撫でまわすと細長く、ところどころに木材が使われている。
―AK-47か。―
すぐにピンと正体がわかった。ソ連製のアサルトライフルだった。全世界にコピー品を含み一億丁以上生産されている。つまりアサルトライフルの5丁に1丁はAK-47になる。
―なぜ、見もせずに触っただけで分かった。
俺は兵士なのか。だが、私服を着ている。
AKを使っているのならば、ゲリラだろうか。
いや、俺が使っていると決まった訳では無い。たまたま近くに落ちていた。
そう、隣の死体の持ち物かもしれない。それとも故障で破棄されたのかもしれない。
下手に触らない方が良いだろう。―
男はライフルから手を離した。
他の場所の捜索を行うも空振りだった。
男の周囲には、AK-47とその弾倉二つが転がっているだけだった。
―身元を明かす物は無いか。AKは手にしない方がいいな。俺の物じゃない。武器を手にしていれば、即座に殺されるだろう。―
男は周辺のアイテムの捜索に疲れ、泥の上に寝転び続ける。全身が泥に塗れ、茶色に染まっていた。
体の痛みが引いたとはいえ、顔の熱さが取れない。
ただ、直感的に泥に塗れた手で傷口を触れてはならないことは理解していた。
体の上を虫や小動物が跨いでいくが身動きは取らない。
―発見と同時に掃射されるのが恐ろしい。死体と勘違いしてもらえる方が有難い。―
その思いが気持ち悪さを耐える理由となった。
どれだけの時間が経過しただろうか。
青かった空は赤みがかり、周囲が暗くなってきたところで、ようやく射撃が止んでいる事に気づいた。
―気を失っていたのだろうか。―
こちらに近づく複数の足音により我に戻った。
数は四。慎重な足取りで近づいてくる。
―逃げるべきか。いや、この状況じゃ、碌に走れない。背中を撃たれるに決まっている。ならば、このままでいよう。―
男は自分自身の運を信じた。
―隣の男は死んだが、男は生きている。幾分か運が良い筈なのだ。―
「動くな。胸が上下している。生きていることは分かっている。動けば撃つ。」
男は言われるまま動かない。視界には何も映らない。接近者達は、男の視界に入らない様に気を付けていた。
男は、完全に取り囲まれた。
近くにあったAK-47が回収されるのが一瞬だけ視界に入った。
「よし、そのまま両手を上げろ。ゆっくりとだ。」
兵士に言われるまま、両手をゆっくりと上げる。掌は広げておく。暗器、つまり隠し武器は持っていないという意思表示だ。
「そこで止まれ。」
言われるままに男は手を止める。
「よし、上体を起こせ。ゆっくりだ。」
男は言われた通り、腹筋に力を籠め、上体を起こそうとした。
「ぐわっ!」
だが、身体に激痛が走り、起こしかけた状態が地面に落ちる。
「よし、動くな。こちらが起こす。用意。よし、起こせ。」
兵士の命令で二人の兵士が男を挟むように上げた手を掴み、無理やり引き起こす。
全身に激痛が走る。そこは歯を喰いしばり、漏れそうになる悲鳴を懸命にこらえた。
男が体を起こすと、兵士四人がライフルの銃口を向け警戒していた。
兵士は男三人、女一人だった。年齢は三十代から二十代だろうか。
迷彩服らしきものを着ているが統一感は無い。全員の左腕には、灰色のバンダナが巻かれていた。所属の識別の為の物だろうか。
武器は全員がアサルトライフルAK-47だけを装備していた。
手榴弾もハンドガンも無い貧弱な装備だった。腰に差さっているのは貧弱なナイフ一本。
これは、軍用ではなく包丁代わりに使われる様な民生品だ。かろうじて、まき割りができるくらいだろうか。
そのAK-47も純正品や改良品ではなく、どこかの第三国が勝手に作ったコピー品だった。
AK-47の単純な構造ゆえにコピーされ普及している。普及すれば、専用弾も普及し手に入れやすくなる。
AK-47は、ソ連で使うことが前提の為、北極圏から砂漠までどの様な過酷な環境でも使用できる。多少のゴミが内部に入り込んだとしても正常に稼働する恐ろしいまでの堅牢性を持っていた。
そして、何よりも安く、操作が簡単。世界中に広がるのは無理がないことだろう。
正規兵ならば、もっと良い装備をしているだろう。恐らくゲリラやレジスタンスだろうか。
兵士の一人が荒々しい手で男の体中をまさぐる。身体検査だ。他の兵士達の銃口は男に向かっている。抵抗する余地は全く無い。
―スマホしか持っていない。大丈夫だ。…うん?何が大丈夫なのだ?分からん。―
男は疑問が浮かんだが、それに対する答えを導き出す記憶を持っていなかった。
部下の一人が男のポケットからスマホを取り出し、隊長らしき者に渡す。
さらに他のポケットをまさぐり、低額紙幣数枚を取り出し、隊長に渡した。
―金を持っていたのか。そうだよな。当たり前だよな。―
男は金を持っていることすら覚えていなかった。
隊長は両方を受け取り、スマホを観察する。
スマホの画面は蜘蛛の巣の様に砕け、さらに背面カバーが外れ内部が剥き出しになっていた。
まるでバッテリーが爆発した様だ。中の基盤が焼け焦げていた。恐らく使い物にならないだろう。
「持ち物はこれだけか?」
隊長が男の目の前に壊れたスマホをチラつかせる。
男は触っていたスマホが壊れていることに気付いていなかった。
「わからない。何も覚えていないんだ。ここはどこだ。俺は誰だ。何か知らないか。」
男は脇腹を隊長に強く蹴られた。
「ガハッ。」
脇腹に爪先が喰い込み、男の口から呻きが零れる。
「質問にだけ答えろ。持ち物はスマホだけか?」
「本当に分からないんだ。信じてくれ。」
隊長は再度、男の脇腹を蹴る。
「グホ。」
男はむせ、痛みに全身の神経を焼かれる。
「思い、出せ、ない。記憶が、ない。」
何とか途切れ途切れに意思を伝えた。
「ちっ。記憶喪失のふりか。ここでは面倒だな。まもなく夜が来る。」
隊長は周囲を確認し、腕時計を見た。夕暮れが迫り、密林は漆黒に包まれようとしていた。
「撤収する。その男は目隠し、両腕を背後にて拘束。尋問にかける。連れて行く。」
「了解。」
「あと、その死体の遺留品も確認だ。」
「それは俺に任せろ。」
「ブービートラップに気を付けろ。」
「分かってますよ。」
「よし、お前。ゆっくりと起きろ。こちらが危険だと判断すれば撃つ。」
隊長のAK-47が男の心臓を狙う。この距離であれば粗悪なコピー品の悪い集弾率でも致命傷を確実に負わせることができる。貫通力の高さだけは折り紙付きだ。
男は抵抗することは無駄と考え、素直に隊長の指示に従った。
―もしかすると、治療をしてもらえるかもしれない。俺は絶対に生き残る。―
そんな甘い楽観的観測もあった。だが、男は死の危機から何も脱していない。