『小雪の降る日、言えなかった言葉』
# 汚れちまった悲しみの彼方へ
雨は止まない。野村はアパートの窓から外を眺めながら、指先でガラスに水滴の跡をなぞった。季節は秋だった。空は灰色に染まり、世界は濡れていた。
"汚れちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる"と、彼は呟いた。口にした詩の言葉が、不思議と自分の心情と重なるように感じた。
「野村くん、これ」
最初に菜緒子に声をかけられたのは、大学の図書館だった。彼女は文学部の学生で、野村は工学部。交わることのない二つの世界。しかしその日、菜緒子は野村の席の前に立ち、一冊の本を差し出した。
「落としたみたいだから」
中原中也の詩集だった。野村は文学などに興味があるタイプではなかったが、謝意を示すように軽く会釈した。菜緒子の指先が本の背表紙に触れた瞬間、野村は何かが動き出すのを感じた。
「中原、読むの?」
次に会ったとき、菜緒子はそう聞いた。学食でのことだった。野村は黙ってうなずいた。実は読んでいなかったが、彼女の前では嘘をついてしまった。
「『汚れちまった悲しみに』好きだよ。なんだか...現代にも通じる感覚があるというか」
菜緒子の言葉は静かに、しかし確かに野村の心に届いた。その日の夜、彼は本当に詩集を開いた。
*汚れちまった悲しみに*
野村は言葉の一つ一つが、自分の心に刻まれていくのを感じた。
"どこへ行っても帰りたくなる"—その一節が胸に刺さった。奇妙なことに、菜緒子の声で詩が読まれるような錯覚に陥った。
冬になった頃には、二人は友人と呼べる関係になっていた。共通の知人は少なかったが、それがかえって距離を縮めた。菜緒子が好きな喫茶店で過ごす時間が増えた。野村は工学の話をし、菜緒子は読んだ本について語った。
「野村くんってさ、感情を言葉にするの、苦手だよね」
ある日、彼女はそう言った。野村は苦笑いするしかなかった。彼女の言う通りだった。
「でも、それがいいんだ。素直というか...」
菜緒子の言葉に、野村は胸の奥で何かが震えるのを感じた。彼女の髪が夕日に赤く染まり、野村はその美しさに言葉を失った。
春が来た。桜が咲き、新学期が始まった。野村は菜緒子への想いを押さえきれなくなっていた。しかし、言葉にできなかった。どうすれば良いのか分からなかった。
研究室に籠もる日々。菜緒子とは以前より会う機会が減った。それでも彼女からのメッセージは途絶えなかった。
「新しい詩集見つけたよ。今度貸すね」
短い言葉だったが、野村は何度も読み返した。彼女の存在が、彼の日常に光をもたらしていた。
雨の日だった。野村は勇気を出して菜緒子を食事に誘った。彼女は嬉しそうに頷いた。野村の胸は高鳴った。
小さなイタリアンレストラン。ろうそくの明かりが二人を照らした。
「なんだか、緊張するね」
菜緒子がそう言うと、野村はただ微笑んだ。言いたいことがたくさんあった。しかし、喉まで出かかった言葉は、いつも飲み込んでしまう。
「菜緒子さん」
やっと口にした彼女の名前。しかしその瞬間、菜緒子のスマートフォンが鳴った。彼女は申し訳なさそうに電話に出た。
「ごめん、帰らないと...家族のことで」
野村は理解を示すように頷いた。言葉にできなかった想いは、また胸の奥にしまい込んだ。
それから菜緒子は忙しくなった。連絡は続いていたものの、会う機会はほとんどなくなった。野村は彼女が避けているのではないかと思い始めていた。
ある日、大学の中庭で菜緒子を見かけた。彼女は男性と話していた。笑顔で、楽しそうに。野村の知らない一面だった。
野村は声をかけられなかった。その代わりに、足早にその場を離れた。
彼の想いは一方通行だったのかもしれない。そう思うと、胸が痛んだ。
「野村くん」
図書館で再会した。菜緒子は少し痩せたように見えた。彼女の目には、疲れの色が浮かんでいた。
「元気? 最近顔見ないから心配してた」
野村は無理に笑顔を作った。「研究で忙しくて」と嘘をついた。
「そっか...」
菜緒子は何かを言いかけて、止めた。野村も何も言えなかった。二人の間に沈黙が広がった。
「あのね、実は...」
その時、菜緒子の友人が呼びに来た。彼女は慌てたように立ち上がり、「また今度」と言い残して去っていった。
野村は彼女の背中を見送りながら、自分の気持ちを伝えるべきだったのではないかと後悔した。
"寂しさのうしろに何もかもあるような気がする"—中也の言葉が頭をよぎる。しかし、あの男性のことを考えると、もう手遅れなのかもしれないと思った。
季節は再び秋になった。野村は卒業研究に追われる日々を送っていた。菜緒子とは時々メッセージを交換する程度の関係になっていた。彼女も卒業論文で忙しいようだった。
中原中也の詩集は、野村の本棚の中で静かに眠っていた。時々、一人の夜に読み返すことがあった。菜緒子の声を思い出しながら。
彼はある日、大学の近くの公園でばったり菜緒子に会った。彼女は一人でベンチに座り、本を読んでいた。野村は声をかけるべきか迷った。
そのとき、菜緒子が顔を上げた。二人の目が合った。彼女は微笑み、手を振った。野村は思わず足を止めた。
「久しぶり」と菜緒子は言った。野村はベンチに座った。また二人で話すのは何ヶ月ぶりだろう。
「元気だった?」
野村の質問に、菜緒子はゆっくりと頷いた。「うん、まあね...」
沈黙が流れた。以前は会話が途切れることなく続いたのに。今は言葉が見つからなかった。
「あのさ、前に言いかけたこと覚えてる?」菜緒子が切り出した。
野村は頷いた。図書館でのこと。彼女が「実は...」と言いかけたあの日。
「私、留学することになったんだ。来月から一年間」
野村は何も言えなかった。心の中で何かが崩れていくような感覚があった。
"みにくい今日を" "空虚な明日"。中也の言葉が心の中で反響した。
「おめでとう」やっとそう言えた。菜緒子は微笑んだが、その目は少し寂しそうだった。
「実はね...」菜緒子は言葉を選ぶように話した。「ずっと言えなかったんだけど、野村くんのこと...」
そのとき雨が降り始めた。「"いよよ帰るが雪の中"」—空から落ちてくる雨粒を見つめながら、中也の詩が野村の頭に浮かんだ。突然の雨に、二人は慌てて立ち上がった。
「近くに喫茶店あるよ」野村が言った。しかし菜緒子は時計を見て首を振った。
「ごめん、約束があるの。今日は行かなきゃ」
また一つ、言葉にならない何かが二人の間に残された。菜緒子は急いで立ち去った。野村は雨の中、彼女の姿が見えなくなるまで立ち尽くした。
菜緒子が出国する前日、野村は彼女からメッセージを受け取った。
「明日の朝、空港に来れる? 最後に会いたい」
野村は返信した。「行くよ」
その晩、彼は眠れなかった。
"ふらふらと歩いた、石ころだらけの道"—中也の詩が彼の不安を表すようだった。言うべき言葉を何度も考えた。しかし、どれも適当ではないような気がした。
朝が来た。野村は空港へ向かった。人混みの中、菜緒子を探した。そして見つけた。彼女は両親と一緒にいた。野村は少し離れたところから見ていた。
菜緒子が気づいて手を振った。彼女は両親に何か言い、野村のところへ歩いてきた。
「来てくれたんだ」
菜緒子の声は柔らかかった。野村は頷いた。
「行っちゃうんだね」
他に何も言えなかった。菜緒子も黙っていた。二人は空港の騒がしさの中で、静かな島のように立っていた。
「野村くん、私...」
菜緒子が何かを言いかけたとき、搭乗案内のアナウンスが流れた。彼女は振り返り、また野村を見た。
「もう行かなきゃ」
野村は言った。「元気で。向こうでも頑張って」
菜緒子は少し悲しそうな顔をした。そして、予想外のことが起きた。彼女は一歩近づき、野村の頬にキスをした。ほんの一瞬の出来事だった。
「一年後、また会おう」
菜緒子はそう言って走り去った。野村は呆然と彼女を見送った。言葉にならなかった想い。伝えられなかった感情。
アパートに戻った野村は、本棚から中原中也の詩集を取り出した。
"酔生な夢とも知らず"—彼は小さく呟いた。ページを開くと、一枚の紙が挟まっていた。菜緒子の筆跡だった。
「野村くんへ
これを読んでいるということは、私はもう日本を離れているんだと思います。言葉にするのが苦手な私たち。でも、あなたのことを好きでした。いえ、今も好きです。でも怖かった。あなたの気持ちがわからなくて、一歩踏み出せなくて。
あの日、イタリアンレストランで何か言いかけてたよね。私も言いたいことがあった。でも、いつも何かに遮られて。
一年後、もしあなたの気持ちが変わっていなかったら、改めて話しましょう。もし変わっていたとしても、あなたの大切な友人でいたいです。
菜緒子」
野村は何度もその手紙を読み返した。窓の外では雨が降り続けていた。彼の頬を伝う一筋の涙が、手紙の上に落ちた。
"汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる"
"わたしはこの世のものでなくなる"と感じる虚無と
"すべて懐かしく思はれる"という希望の狭間で、彼は窓に額をつけた。冷たいガラスが彼の熱を吸い取る。
"ゆきずりの人と言葉をかわし"それでも彼女を待つ決意。野村は深く息を吸った。一年後。彼女が戻ってくるまで、彼は待つだろう。そして今度こそ、言葉にするだろう。
"北にな 南にな 風は吹く"—窓の外の雨は、いつか上がる。