第9話 理性の境界
朝が来ても、空気の重さは変わらなかった。
明石町ナイト・ケアセンターの照明は、外の光とは無関係に淡く灯り続け、時間の感覚を狂わせる。
玲司はロビーの片隅で、昨夜から変わらず座っていた。紗世は診察のあと、処方された鎮静剤を服用して眠っている。
その時だった。待合スペースの端にいた若い女性患者が突然椅子から立ち上がり、診察室のドアを激しく叩いた。
「開けて……!おかしいの、わたし……っ、誰か……!!」
彼女の声は叫びというより、切迫した悲鳴だった。周囲の患者たちは顔を伏せ、誰一人反応を見せない。スタッフも奥から即座に現れ、女性を静かに押さえつけ、すぐさま別室へと連れて行った。
騒ぎは三分もかからず終わった。何事もなかったかのように、空調の音だけが戻ってくる。
玲司は、その女性の顔を見ていた。昨晩、目が合った時と同じ、あの“理解の気配”がそこには確かにあった。
スタッフは、患者の搬送について一言も触れなかった。誰も聞かないし、誰も話さない。それがこの施設の“暗黙の了解”なのだろう。
紗世の体調は、言葉にはできないほど不安定だった。
時折、部屋の中で突然立ち止まり、壁を見つめたまま動かなくなる。声をかけると「……今、音がしてたの」と呟く。
視覚、聴覚、そして“気配”に対する異常な反応。
「怖くないの?」と玲司が尋ねた時、紗世はほんの少し微笑んで言った。
「ううん。……どこかでずっと、これが“本当の自分”なんじゃないかって、そんな気がしてるの」
彼女の言葉に、玲司は返すことができなかった。
その夜。
玲司は再び、施設の奥にある資料室の端末を調べていた。
昨日見た“削除された記録”が気になっていたのだ。
患者リストの中に、確かに存在していたはずの女性――午前中に錯乱したあの人物の名前が、跡形もなく消えていた。
代わりに表示されていたのは、一つのコード。
> 【症例除外:観察不能対象 No.1142】
「除外……?記録すら、なかったことにするのか……」
画面を閉じようとしたその時、背後で誰かが言った。
「その端末は職員用です。……ここにアクセスできる方は限られていますよ」
静かな声。低く抑えられた圧。振り向いた先にいたのは、白衣ではなくスーツ姿の男だった。
黒いネクタイ、銀縁の眼鏡。どこか医者にも、官僚にも見えるその男は、警戒心を持たせない絶妙な距離を保ったまま歩み寄ってきた。
「志村玲司さんですね。ようやく、お会いできました」
男は笑みを浮かべた。
「彼女のことですが……一度、正式に話をさせていただけませんか?」
その瞬間、玲司の背筋に冷たい何かが這い登る。
それは敵意ではない。 もっと厄介な、"情報を持つ側が差し出す選択肢"の気配だった。