第8話:目覚めの兆し
照明を落とした室内に、わずかな微熱が漂っていた。
紗世はベッドの上で眠っている。額には冷たい汗。けれど熱感はない。むしろ、玲司の手に触れるその肌は、氷のように冷たかった。
彼は手元のモニターで、眠る彼女のバイタルを確認していた。
脈拍は平常値を保っているが、心拍のリズムが微かに乱れていた。呼吸も浅く、時おり小さく身体が痙攣するような動きを見せる。
「まだ、初期症状……だよな」
だが確信は持てなかった。
午前4時。
玲司はベッドの端に座ったまま、タブレットに保存された「潜在症例リスト」と、Project NOAHの試験記録を照合していた。
《症例No.0338:感染経過第4日目。睡眠時の心拍変動幅増大。
第6日目より視覚過敏、嗅覚拡張の兆候。
第7日目、欲求の“転化傾向”あり。自制は可能。》
まるで、紗世の現在をなぞるような経過記録だった。
ロビーには、玲司たち以外にも数名の患者がいた。誰もがマスクをつけ、黙ったままソファに腰掛けている。テレビは消されており、空調の静かな唸りだけが空間を満たしていた。
一人の中年男性が肩を小さく震わせながら水を一口飲んだ。その音に反応するように、別の女性が顔を上げ、鋭い視線を彼に向けた。だが、すぐに何事もなかったかのように視線を逸らす。
「……寒くないですか?」
ぽつりと呟いた声がどこからか聞こえたが、それに応える者はいなかった。むしろ、皆がその言葉を“聞かなかったこと”にしたような気配さえ漂っていた。
受付のスタッフが笑顔で呼びかける。だが、その笑みはどこか上滑りしていて、目線がこちらに合わない。
「診察が済んだら、なるべく滞在時間を短くしてくださいね」
それは“優しさ”ではなく、どこか“関わりたくない”という感情の裏返しのようだった。
看護師同士がカウンター裏で小声で何かを囁き合い、そのまま一人がタブレット端末を手にどこか奥の区画へ消えていく。
玲司は、紗世の名前が呼ばれるのを待ちながら、隣に座った若い男性患者と一瞬だけ目を合わせた。相手はすぐに視線を逸らしたが、その目の奥には、玲司と同じような“理解”が宿っていた。
診察を終えた紗世が、待合に戻ってきた。
部屋に戻ると、紗世は窓辺に座っていた。
カーテンの隙間から差し込むわずかな朝日を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「朝の光が、こんなにまぶしいなんて……初めて思ったかもしれない」
彼女の横顔は、どこか儚げだった。
だがその眼差しの奥に、確かに“異なるもの”が宿っていた。
玲司はその横顔を見つめながら、自問する。
「彼女は、まだ人間なのか。それとも――」
答えはまだ出ない。
けれど、確実に何かが進行していた。
そしてその背後では、誰かが彼らの全てを見ている。