第7話 監視者の影
施設の一室。
ベッドの上で眠る紗世の寝息が、かすかに響いていた。額には微かに汗が滲み、呼吸は浅く、体温は明らかに低下していた。だが、本人にその自覚はない。
「気温のせいかな……」と、眠る直前にそう呟いた。
玲司は、黙って彼女の額にタオルをあてがいながら、その言葉がどうにも胸に引っかかっていた。
……これは気温なんかじゃない。
玲司はベッドの横で座り込むと、リュックから小型のタブレット端末を取り出した。昨夜、研究所から持ち出したUSBの中には、Project NOAHに関する膨大な臨床記録が入っていた。
その中のファイル群「Early_Symptom_Case#20〜」を開くと、そこには紗世の症状に酷似した報告が複数見つかった。
睡眠中に心拍数が上昇
食欲の異常な変化
視覚と聴覚の高感度化
日中の無気力・夜間の覚醒
「……紗世だけじゃない。すでに、あちこちでこの症状が出ていたのか。」
玲司は深く息を吐いた。
誰も知らないところで、感染は既に「第二段階」に入っている。だが、なぜメディアは沈黙しているのか。
なぜ、誰も“警鐘”を鳴らしていないのか。
……答えは、わかっている。
この施設…明石町ナイト・ケアセンター。
それは、国と研究機関が密かに動向を観察するための“観察囲い込み拠点”だった。
病院ではなく、診療所でもなく、“観察室”。
そう名付けるのが最も正確だった。
玲司がふと立ち上がり、部屋の外に出た。
夜の廊下は静まり返っている。だが、どこかで「何か」がこちらを見ているような、そんな気配を肌が感じ取っていた。
彼は、備え付けの廊下端の給湯器で水を汲みながら、意図的に振り返った。
……誰もいない。
だが、背後の壁にわずかに残された“濡れた足跡”だけが、見間違いではないことを伝えていた。
その頃。
施設最奥の「職員立入禁止区域」。
数台の監視モニターが無人の部屋で静かに光を放っていた。
画面には、玲司と紗世の部屋、診察室、待合スペースが淡々と映し出されている。
しばらくして、そのモニターの前に一人の男が現れた。
白衣ではなく、黒のスーツ姿。IDカードには名前が書かれていない。
彼は無言で椅子に腰かけると、玲司の映る画面に目を据えた。
> 「Project NOAH……志村玲司。やはり彼は、観察対象としては特異だな。」
男は淡々とつぶやき、デスク上の端末に打ち込む。
> 【対象SY-87:感染安定期突入】
【対象R-01:接触済・経過観察中】
【外部通知:保留】
その目に、感情はない。
ただ、規定通りに事象を処理していくだけの“管理者の目”だった。
同時刻。
紗世が静かに目を覚ました。
部屋は薄暗く、玲司の姿は見えない。彼が部屋を出て行った直後だった。
彼女は喉の奥に妙な渇きを感じ、水を求めて立ち上がった。だが、その時……
左腕の血管が、薄く青白く浮き上がっていることに気づく。
心臓の鼓動が、体中に響く。まるで自分の中に別の生き物がいるようだった。
「……なんで、こんな……」
震える声が漏れる。
けれど、その言葉を遮るように、部屋の天井に取り付けられた小さな赤いランプが、ごく微かに点灯していた。
彼女は気づいていない。
だが、その時点で彼女はもう“潜在症例”ではなく、要監視対象へと記録されていた。
玲司もまた、施設の裏手にある資料室の扉の前で立ち尽くしていた。
扉にはこう書かれている。
【管理者専用:NOAHアクセス端末保管室】
彼の胸中に去来するのは、恐怖でも怒りでもない。
ただ、知ってしまった責任から逃げられないという事実だった。
「……俺は、ここで何を見ることになる?」
扉を開けようとした瞬間、背後から足音がした。
彼が振り返ると、そこには、紗世がいた。
だがその瞳は、わずかに……蒼く、光っていた。