第5話 牙の記憶
玲司は、自宅の部屋に鍵をかけたまま、コピーした「Project NOAH」のファイルを凝視していた。モニターの光だけが机を照らし、室内には硬質な緊張感が漂っている。
《吸血衝動は、進化に組み込まれた欲望——。》
その一文が脳裏から離れない。
吸血者とは、ウイルスによって“進化”した存在。人の形をしていながら、人とは異なる生態に変容した新たな人類。
しかし、では彼らは本当に「怪物」なのか?
昨夜の路地裏で助けた彼女——あの恐怖に震えた目は、明らかに人間のそれだった。
玲司が考え込んでいると、突如インターホンが鳴った。
時計は午前2時を指している。
「……誰だ、こんな時間に。」
警戒しながらモニターを覗き込むと、そこに映っていたのは、昨夜助けたあの女性、藤咲紗世だった。彼女はフードを被り、やつれた顔でこちらを見つめていた。
「お願い……開けて……時間がないの。」
玲司は戸惑ったが、やがて意を決してドアを開けた。
「どうして、俺の居場所が分かったんですか?」
紗世は怯えた目をしながらも、落ち着いた声で答えた。
「……あの夜、私が倒れた時、あなたの名札が落ちてたの。『志村玲司・医学生』って書かれてた。帰り際、あの名札を……私は無意識に握ってたの。」
「それで……?」
「救急搬送された先の病院で、意識が戻ってから名札を見た。『志村』って名字、どこかで聞き覚えがあって——それで調べたの。NeoSerumの開発者の中に、志村貴之って名前があるって。」
玲司の背筋に冷たいものが走った。
「あなたと志村博士は、やっぱり……」
「叔父です。」
「やっぱり……。だから、知ってるんでしょう? この“体の変化”の理由を。」
紗世は玲司の前でフードを下ろし、首筋を見せた。そこには、明らかに回復しつつある咬み跡があった。そして何より——彼女の瞳が、微かに青白く輝いていた。
「私は……自分が“変わってきてる”のを感じるの。夜になると目が冴えて、鼓動の音が聞こえて、血の匂いがわかるようになってきた……」
玲司は黙って彼女を見つめていた。今ここにいる彼女は、紛れもなく人間だ。しかし、その身体の奥で何かが確実に変わりつつある。
「ねぇ、玲司さん……私は人間のままでいられると思いますか?」
その問いに、彼は答えられなかった。
そのとき、静寂を破るように、外で“コン、コン”と窓を叩く音がした。
玲司が窓を開けると、そこには黒ずくめの男たちが二人。片方は、昨日研究所で出くわした加賀谷主任だった。
「くそ、ここまで嗅ぎつけて……!」
玲司は急いでノートPCとUSBをバッグに詰め、紗世の手を取り言った。
「ここはもう危険だ。出よう。」
「でも、追われてるのは私のせいじゃ……」
「違う。これは俺が知ってしまったせいだ。でも君を巻き込んだのは俺の責任だ。」
夜の街へと逃げ出す二人。まだ明けぬ夜の中で、玲司は思った。
人は進化に耐えられるのか?
人間であることを、自らの意思で選び続けることができるのか?
そして、紗世の手の温もりを通して、彼は“吸血者”という存在の奥に、何かまだ知らぬ可能性を感じていた。