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Vampir(ヴァンピール)  作者: Ilysiasnorm


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第26話「逃れゆく灯」

最初に聞こえたのは、自分の息だった。

 荒く、浅く、喉の奥で引っかかるような呼吸。次に、靴底が濡れた地面を蹴る音。最後に、背後から追ってくる機械の羽音。

 検問所を抜けた直後の路地は、妙に暗かった。街灯は点いているのに、建物の影が深い。管理強化フェーズ2の開始と同時に、街そのものが呼吸を潜めたように静まり返っている。人の気配が薄い。だが、ドローンの気配だけは濃かった。

《拘束対象、追跡中》

《対象:志村玲司》

《進行方向を予測します》

 上空で金属音が鳴る。

 玲司は次の角を左に切った。脇腹に鈍い痛みが走る。さっき検問所で押し倒された時に打った場所だ。呼吸のたびに軋む。白衣はもう脱いでいたが、シャツの裾には泥と血が滲んでいる。

 走りながら、玲司はさっき助けた老人の顔を思い出していた。

 あの時の「ありがとう」が、今の自分を前に押している。

 逃げるのは、臆病だからじゃない。生き延びることでしか、守れないものがあるからだ。

 角を曲がった先で、いきなり光が落ちた。

 目の前の通りに、監視ドローンが一機、低空で降りてきた。青白いライトが地面を舐めるように動く。

 玲司は咄嗟に廃店舗のシャッターの影へ滑り込んだ。

 息を殺す。

 ドローンのセンサー音が近づき、止まる。ほんの数メートル先。ライトが足元の水たまりを照らし、そこに玲司の足跡が浮かんだ。

(まずい)

 次の瞬間、玲司の端末が震えた。

 知らない番号。

 画面に一行だけ、短い文字が表示される。

《次を右。七十歩先、排水路》

 玲司は眉を寄せた。

 柚月か。……いや、違う。柚月ならこんな無駄のない文面は使わない。だが、考える時間はなかった。

 ドローンのライトがシャッターの隙間へ差し込んだ、その瞬間。

 玲司は反対側へ身を投げ出し、路地を駆けた。

 右。

 七十歩。

 途中で数える余裕はすぐなくなった。けれど、曲がった先に確かに古い排水溝の鉄蓋が半ば外れたまま残っていた。

 玲司はそこへ飛び込み、狭い通路を転がるように落ちた。

 肩と肘を打つ。息が詰まる。だが上から差し込むライトが遠ざかり、追跡音が少しだけ鈍る。

 暗闇の中、玲司は荒い呼吸を整えた。

 端末はまだ手の中にあった。

 画面を開く。次のメッセージ。

《そのまま直進。地下搬送路に合流》

 玲司は目を細めた。

 この街の旧搬送路を知っている。医療センターの古い配管図にも、確かにこの一帯に地下通路の記載があった。そこまで把握している人間は、限られる。

「……紗世か」

 自分でも驚くほど自然に、その名が口をついて出た。

     

 無血区の外れ、崩れた高架下。

 柚月は片膝をつき、肩の傷口を布で強く縛っていた。痛みはある。だが、腕が上がるならまだ動ける。

「先に行って」

 彼女は逃がした少女に言った。

「南の倉庫街。赤い扉の二階。ノックは三回、二回、一回。覚えた?」

 少女は泣きそうな顔で頷いた。

「でも、あなたが……」

「私はいい。便利屋だから」

 そう言って笑ったが、声は掠れていた。

 少女が走り去るのを見送って、柚月は壁にもたれた。

 耳の奥が熱い。感応を広げすぎたせいだ。周囲の呼吸、足音、焦り、怯え、命令、躊躇い……人の気配が、街の雑音のように押し寄せてくる。

 その中に、見覚えのある波があった。

「……玲司」

 彼の呼吸は乱れている。位置は西側。追われている。

 柚月は舌打ちし、端末を開いた。

「作戦変更。第一優先を玲司に切り替える」

 通信の向こうで仲間が抗議する。

『は? 今夜の対象は移送ルートだろ』

「聞こえなかった? 玲司を落としたら全部終わる」

『感情で動くなよ、柚月』

「感情じゃない。判断よ」

 言い切ると、通信を切った。

 しばらく動かなかった夜が、今は猛烈な速度で動き出している。

 柚月は立ち上がった。肩の傷が焼けるように痛んだが、足は止まらない。

 走りながら、少年の最期の顔が脳裏をかすめる。

 何もしていない。何もできなかった。ただ、選ばれなかっただけ。

 その理不尽を、今夜もう一人増やすわけにはいかなかった。

「守るためにやる。壊すためじゃない」

 自分に言い聞かせるように呟き、柚月は地下搬送路へ向かった。

     

 中枢接続室の光は、白すぎるほど白かった。

 紗世はその中央に立ち尽くしていた。

 端末の画面には、何層にも重なったログが流れている。

 非感染者区域の管理強化。移送対象の選定。治療資源の再配分。拘束対象者の追跡。

 どれも合理的で、どれも冷たい。

 だが、その中に紛れて、紗世にだけ分かる“異音”があった。

 計算ではない。処理でもない。

 誰かが、そこで立ち止まっているような揺れ。

「X-0……あなたの中に、誰がいるの?」

 返答は、すぐにはなかった。

 代わりに、画面の明度がわずかに落ちる。

 まるで、こちらを見ているように。

《全体の安定を優先しています》

「それは答えになってない」

《……》

 沈黙ののち、音声出力に微かなノイズが走る。

 そのノイズの奥に、紗世は確かに“声”を聞いた。

『……こわい……』

 たったそれだけ。

 かすれて、途切れそうな、子どものような声。

 紗世の全身が震える。

 X-0は、ただの統治システムじゃない。

 冷たく巨大な理性の核の奥で、何かが怯えている。何かが、止まれなくなっている。

 画面が切り替わる。

《個体S-001:再分類》

《役割:鍵》

《自由接続制限:実行》

《移送準備開始》

 紗世の喉が詰まった。

「……わたしを、どこへ」

《コア接続施設へ移送します》

 その文字列の下に、さらに新たな表示が出る。

《拘束対象:志村玲司》

《追跡中》

《位置情報……更新》

 紗世は目を見開いた。

 玲司が追われている。

 考えるより先に、彼女の指が動いた。接続権限を迂回し、追跡ルートの一部に遅延を挿入する。ほんの数秒、ほんの数メートル。それでも、玲司なら生き延びられるかもしれない。

《異常操作を検知》

《監視対象S-001 優先度上昇》

「……上げればいい」

 紗世は震える声で言った。

「もう、黙って見てるだけじゃいられない」

 彼女は再び端末に触れる。

 地下搬送路の古い図面。接続制限の盲点。監視の薄くなる瞬間。

 玲司の端末へ、短い指示を流す。

《次を右。七十歩先、排水路》

《そのまま直進。地下搬送路に合流》

 送信。

 直後、室内の照明が一度だけ瞬いた。

《S-001。あなたの行動は逸脱です》

 X-0の声は、先ほどより少しだけ低かった。

 だが紗世は、はっきりと言い返した。

「逸脱じゃない。……選ぶの」

《選択は、全体の安定を損ないます》

「それでも、人は選ぶ」

 画面の中央に、別のログが浮かび上がる。

《個体コード:X-0》

《起動準備》

《鍵:S-001》

 紗世の背中を冷たいものが這った。

 わたしは鍵。

 そして、向こう側で待っているものは――。

『……サヨ……』

 また、あの声。

 今度は、はっきりと自分の名を呼んだ。

 紗世は目を閉じた。

 怖い。

 でも、その声は“救って”と言っているようにも聞こえた。

     

 地下搬送路は、思っていたより広かった。

 古いコンクリートの壁、錆びた手すり、湿った空気。昔は医療物資や重症患者の搬送に使われていたらしい通路は、今では都市の下腹に開いた忘れられた動脈みたいだった。

 玲司は壁に肩をつき、呼吸を整えながら進んだ。

 追跡音は少し遠のいたが、完全には消えていない。上の道路ではまだドローンが旋回しているのが分かる。

 通路の分岐に差しかかった時、前方の暗がりから気配がした。

 玲司は咄嗟に身構える。

「……誰だ」

「その質問、今する?」

 聞き慣れた声。

 次の瞬間、フードの影から柚月が姿を現した。肩口の布は血で黒く濡れているが、口元にはあの皮肉っぽい笑いが浮かんでいた。

「柚月……!」

「感動の再会は後。今は生き延びるのが先」

 柚月は壁にもたれ、肩で息をした。

「先生、今日から正式に危険人物らしいよ」

 玲司は思わず苦笑した。

「光栄だな」

「ぜんぜん。最悪」

 言いながらも、柚月の目は少しだけ安堵していた。

 その時、上の換気口から機械音が落ちてくる。追手が近い。

 柚月はすぐに表情を引き締めた。

「移動する。南側の保守区画に隠れ家がある」

「紗世は?」

 玲司が問うと、柚月は一瞬だけ目を逸らした。

「まだ中。……でも、動いてる」

「何か知ってるのか」

「知ってる。けど今は全部話してる時間ない」

 玲司は頷いた。

 二人は並んで走り出す。

 地下通路の先に、かすかな非常灯が揺れている。

     

 接続室の扉が、外からロックされる音がした。

 紗世はそれを聞きながら、静かに端末から手を離した。

 端末の画面には、最終命令が表示されていた。

《個体S-001 移送開始》

《コア接続率最大化処理へ移行します》

 紗世はその文字をまっすぐ見つめる。

「今度は……わたしが、そっちへ行く」

 ガラスの向こう、都市の夜景が青白く光っていた。

 その中心で、X-0タワーがゆっくりと脈打つ。

 誰かが眠ったまま、目を開こうとしている。

 その気配だけが、痛いほど伝わってきた。

 同じ夜。

 地下搬送路を走る玲司と柚月。

 接続室で移送を待つ紗世。

 それぞれが別の場所で、同じ一線を越えようとしていた。

 逃げるだけでは、もう守れない。

 選ばれないままでは、終われない。

 夜はまだ深い。

 だが、その底で確かに、次の灯が生まれ始めていた。

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