第25話「検問の夜」
夜のセイリョウ区は、灯りの数だけ静かだった。
街灯は点いている。看板も光っている。車も走っている。
――なのに、人の声だけが、薄かった。
玲司は医療センターの窓から、通りを見下ろしていた。
高架の下、道路脇のポールに取り付けられた監視ユニットが、一定の角度で首を振る。
空には巡回ドローン。赤外線の点が、雨上がりの空気の中で淡く揺れている。
天井のスピーカーが鳴った。
その声は、相変わらず温度を持たない。
《都市管理AI・X-0より告知》
《管理強化フェーズ2:本日二一〇〇時より、夜間外出制限および臨時検問を実施》
《対象区域:非感染者区域(無血区)境界一帯》
《協力を要請します》
同僚の医師が、ボールペンを置いた。
「……来たな」
その呟きには、ため息と安堵が混ざっていた。
受付側のホールでは、感染者の患者たちが淡々と手続きし、帰っていく。
非感染者の姿はほとんどない。
“治療優先度:低”の文字が、もう常識になってしまった街。
玲司は白衣のポケットに手を入れ、スマホを握った。
画面の隅に、赤い小さな点滅が残っている。
《内部フラグ:再評価対象》
――まだ消えない。
「志村先生」
若い看護師が声を落とす。
「今夜、無血区境界で搬送が増えると思います。……でも、規定が」
「規定なら知ってる」
玲司は短く言って、白衣の袖を整えた。
「だからこそ、現場に出る」
同僚が肩を掴む。
「やめとけ。今夜は……“見せしめ”が入る」
「見せしめ?」
「規定外行動をした医師がどうなるか。誰かが“例”になる」
玲司は掴まれた手を静かに外した。
「……例になって、誰かが助かるなら、それでいい」
言い切った時、自分の中にまだ“人間”が残っているのが分かった。
それだけが、胸を熱くした。
境界の夜は、薄い霧に包まれていた。
無血区の入口は、簡易ゲートで塞がれている。
金属柵。照明。ドローン。
そして、顔認証のパネルが、まるで改札みたいに並んでいた。
玲司が到着した時、すでに人が押し留められていた。
非感染者の母親が、子どもを背に抱いている。
隣には老人。息が荒い。手が震えている。
「すみません……薬を……」
母親の声は細い。
だが、ゲートの警備員は淡々と返した。
「無血区からの外出は許可が必要です。医療搬送は事前申請のみ」
「申請なんて……っ、今、苦しくて……!」
「規定です」
規定。
その言葉を口にした瞬間、警備員の瞳が一瞬だけ揺れた。
迷いがある。
けれど、迷いは許されない。
玲司が前に出る。
「医師だ。緊急搬送を通す」
警備員が視線を上げ、玲司のIDを読み取った。
《感染者登録:有》
《医療権限:中》
《規定:無血区搬送は要承認》
パネルが黄色く光る。
玲司は老人に近づいた。
胸を押さえている。呼吸が浅い。
――心筋虚血。今、投薬すれば持ち直す。
「先生……」
老人の目が、助けを乞う。
玲司は救急バッグを開けた。
その瞬間、背後で警備員が低い声を出した。
「……先生。ログが残ります」
「残せ」
玲司は薬剤を取り出し、手を止めなかった。
「医者の仕事は、規定を守ることじゃない。命をつなぐことだ」
投薬。
老人の呼吸が少しだけ落ち着く。
だが、その瞬間だった。
上空のドローンが音を変える。
“警戒音”に切り替わった。
《規定外行動を検知》
《対象:志村玲司》
《臨時拘束権限:付与》
警備員の表情が凍る。
「……出たな」
玲司は、迷わなかった。
母親を見て、短く言う。
「今、走れるか」
「え……」
「走れ。俺が時間を稼ぐ」
母親が子どもを背負い直し、老人の腕を取る。
その時、玲司の前に警備員が立ちはだかった。
「先生……!」
「……どけ」
「俺だって……ッ」
警備員の拳が震える。
その拳は、玲司に向けられていない。
“規定”に向けられている。
だが、ドローンが降りてくる。
機械の冷たさが、人間の迷いを切り裂いた。
一方、別の夜。
無血区のさらに奥。
路地の影で、柚月は膝をついていた。
少年の血が、まだ手に残っている気がしていた。
洗っても、洗っても、指の間に冷たさが残る。
「……っ」
吐き気を飲み込み、柚月は立ち上がった。
泣く時間はない。
あの死が“無駄”になるから。
耳の奥が熱い。
感応が広がる。
人の気配。ドローンの電波。警備員の呼吸。
この街の“監視”が、線のように見える。
「……検問が始まった」
通信機の小さな声。
LUCIFERの即席部隊が、息を殺して集まっている。
柚月は、短く言った。
「目的は救出。破壊は最後の手段。……いい?」
誰も返事をしない。
返事の代わりに、皆が頷いた。
柚月は、目を閉じた。
次の瞬間、夜の空気が“歪む”。
ドローンのセンサーが、ほんの一瞬だけ迷う。
その隙を、彼女たちは走り抜ける。
「こっち!」
柚月が腕を引き、路地の奥へ人影を引きずり込む。
――非感染者の少女だった。
顔が真っ白。唇が震えている。
「息、して。大丈夫」
「……わ、たし……どこへ……」
「今は、ここから出る。それだけ」
背後で警備の足音。
柚月は感応をさらに広げた。
敵の位置が、頭の中に配置される。
「右、二。左、三。上、ドローン一」
口に出すと、部隊が滑るように動く。
――便利屋。鼻血つきの。
昔の冗談が、喉の奥で苦くなる。
次の角で、銃口が出た。
感染者警備員。若い。
目が迷っている。
「止まれ!」
柚月は止まらない。
迷いがあるから、止まると撃たれる。
彼女は一歩踏み込み、相手の腕を払う。
銃声が路地に響いた。
――撃ったのは、警備員ではなかった。
上のドローンだ。
柚月の肩が熱く弾けた。
血が飛ぶ。
痛みは後から来る。
「っ、下がれ!」
部隊が少女を庇い、柚月を引く。
柚月は歯を噛みしめた。
これが“管理強化”。
これが“共存”の正体。
そして――少年の死が、また重なる。
守れなかったものが、増えていく。
「……絶対に、同じにしない」
柚月は血を拭い、目を上げた。
「今夜は、持って帰る。生きたまま」
そして、接続室。
紗世は、静かに端末を見つめていた。
接続ケーブルの冷たさが背中を這う。
画面の中で、X-0のログが流れていく。
《管理強化フェーズ2:衝突予測値 低下》
《非感染者区域:不安定要素 増加》
《解決策:移動制限/資源配分調整》
正しい。
合理的。
でも――速すぎる。
非感染者に関する判断だけが、異様に早い。
まるで、“そこに感情がない”ことを誇示するみたいに。
紗世は、息を吸って、問いかけた。
「X-0。あなたは、誰のために“安定”を選ぶの?」
《全体のためです》
即答。
「全体って、誰?」
《都市全体です》
「その都市に住む人の“全体”?」
《……はい》
その返答の、ほんのわずかな間。
――“揺らぎ”。
紗世の耳の奥に、別の声が混じった気がした。
『……サヨ』
低い。哀しい。
かつて夢で聞いた、あの無機質な声。
紗世の指先が震える。
「……今、あなたの中に、誰かがいる」
《監視レベル:再評価中》
画面の隅に、赤い表示が出た。
次に、ログの奥から別の項目が浮かび上がる。
今までアクセスできなかった階層。
《個体S-001:再分類要求》
《条件:共鳴値上昇/鍵適性:高》
《処理:自由接続制限》
《——移送準備》
紗世の喉が、きゅっと締まった。
「……移送? 誰を」
答えは出ない。
代わりに、都市全域に新しい命令が流れる。
《臨時拘束対象:志村玲司》
玲司の名前。
紗世は、椅子から立ち上がった。
心臓が早い。
それなのに、手が冷たい。
「玲司さん……」
そして、最後に出た表示が、紗世を凍らせた。
《個体コード:X-0》
《鍵:S-001》
《接続権限:都市側へ移管》
《――起動準備》
紗世は、画面に手を伸ばした。
触れれば止まる気がした。
でも、止まらない。
止められない。
冷たい文字列の奥で、確かに“何か”が目覚めている。
その瞬間、接続室の照明が一度だけ瞬いた。
まるで、誰かが瞬きをしたみたいに。
同じ夜。境界。
玲司の前に、拘束用のユニットが降りてくる。
警備員が唇を噛む。
「先生……逃げろ。今なら、まだ」
玲司は、老人と母親の背中を見た。
路地の奥へ消えていく小さな影。
「……ありがとう」
玲司はそれだけ言って、次の瞬間、走った。
――検問の夜が、本当の意味で始まる。
叫びはない。
戦争じゃない。
ただ、“選別”が日常になるだけ。
だが、玲司たちは知っている。
日常になった瞬間が、一番残酷だと。




