第16話「選択の猶予」
夜明け前。
紗世はベッドの中で、握りしめた一枚の紙から目を離せずにいた。
《……逃げろ。真実に呑まれる前に》
玲司の字だ。
昨夜、中庭で風に舞い落ちてきたそれを拾った瞬間から、心臓の鼓動は早まったままだ。
同じ部屋で眠っているはずの彼が、なぜ直接言わなかったのか。
――いや、それ以上に、この言葉の意味を考えるのが怖かった。
やがて、ドアが静かに開く。
外気の冷たさをまとった玲司が入ってきた。
薄暗い中、目が合う。けれど彼は何も言わず、ベッドへ腰を下ろし、毛布をかぶった。
「……どこに行ってたの?」
「散歩だ」
「嘘」
返事はなく、ただ背を向ける。
その沈黙は、紗世の口から次の言葉を奪った。
午前の訓練。
弓の弦を引き絞った瞬間、耳の奥で微かな“声”が響いた。
『……サヨ』
脳裏に流れ込む氷の底の映像――砕けるガラス、赤く漂う液体、誰かの影。
思わず矢を落とし、弦が乾いた音を立てる。
「紗世、大丈夫?」
駆け寄った柚月の声に、紗世は苦笑いを作った。
「……平気。ただ、少し変な感じがして」
だが胸のざわめきは、訓練が終わっても消えなかった。
夜。
静かな部屋で、紗世は意を決して切り出した。
「……あのメモ、どういう意味?」
読んでいた本を閉じた玲司が、しばし無言のまま見つめ返す。
「読んだ通りだ」
「なぜ直接言わないの?」
「……言えない。ここでは」
その声には、何かを押し殺す響きがあった。
「でも私は逃げない。柚月も、この施設の人たちも置いていけない」
玲司の目がわずかに揺れる。
「……なら、せめて俺を信じろ」
そう言って灯りを消すと、暗闇が二人を包んだ。
深夜。
再び夢が紗世を襲う。
氷の中で眠る“自分と同じ顔”の少女が、泣きながら囁く。
『……こっちへ来るな』
次の瞬間、施設全体が低く唸りを上げた。
ベッドが震え、蛍光灯が一瞬だけ明滅する。
玲司が跳ね起き、低く呟く。
「……始まったか」
遠く監視室で、志摩が薄く笑った。
「目覚めの合図だ――」




