プロローグ
プロローグ:破滅の序曲
世界の崩壊は静かに、しかし確実に訪れた。
かつて人類を脅かした新型コロナウイルスの流行は、NeoSerumワクチンという救世主の登場で制圧された。RNAレプリコン技術を活用したそのワクチンは、従来の免疫療法を凌駕する革新的な成果と謳われ、わずか2年で世界中のほとんどの人口に接種された。
その開発の中心人物であり、ウィルス学の権威であった志村貴之博士。彼はワクチンの設計者として、未知の脅威から人類を救う英雄となるはずだった。しかし、わずか5年後、その英雄の名は人類史上最大の悲劇と結び付けられることになる。
科学がもたらした祝福
NeoSerumはRNAレプリコン技術を基盤にしていた。
「RNAレプリコンとは、自己複製型の遺伝子システムだ。ウイルスの感染メカニズムを模倣しつつ、それを無害化し免疫を誘導する画期的な技術だ」と、当時の記者会見で貴之博士は熱弁を振るった。
この技術により、従来のワクチンでは成し得なかった短期間での量産化と効果的な免疫形成が可能となり、特に低所得国や医療資源の乏しい地域での普及が飛躍的に進んだ。死亡率は劇的に低下し、経済活動も回復へ向かった。「NeoSerumは奇跡だ」と新聞は書き立て、全世界がその恩恵を享受していた。
しかし、その奇跡の裏側に潜んでいた小さな亀裂に、誰も気づいていなかった。
異変の始まり
最初の異変が報告されたのは、NeoSerum接種が完了して2年が経過した頃だった。一部の接種者が、原因不明の貧血や異常な食欲増進を訴え始めたのだ。
「特に肉料理が食べたくて仕方ないんです。それも、生に近い状態のものを……」
「目が異常に冴えて夜眠れない。逆に日中に頭がぼーっとするんです。」
これらの症状は当初、ストレスや栄養不良といった一過性の問題とされ、大きな注目を集めることはなかった。しかし、同様の報告は次第に増え、さらに奇妙な共通点が浮かび上がる。患者たちは皆、NeoSerumを接種していたのだ。
貴之博士はこの現象を知り、急遽調査チームを編成した。しかし、彼が発見した真実は、科学者としての自信を根底から揺るがすものだった。
吸血ウィルスの誕生
NeoSerumの中核であるRNAレプリコン技術には、想定外の問題があった。ワクチンのRNAは、宿主細胞内で複製される際に非常に不安定で、環境要因や遺伝的個体差によって突然変異を起こす可能性があったのだ。
さらに、地球温暖化や都市部の汚染物質といった外的要因が、RNAレプリコンの変異率を予想以上に加速させていた。
結果として、一部の接種者の体内で新たなウィルス型が誕生する。それが、**吸血ウィルス(Hemophage Virus)**だった。このウィルスは、以下のような特性を持っていた:
1. 代謝の異常な活性化
吸血ウィルスは宿主の身体能力と知能を劇的に向上させる。しかし、その代償として、特定の血液成分を必要とするよう改変された。
2. 感染力の高さ
ウィルスは体液を介して感染し、感染者は新たな宿主を求める衝動に駆られる。これが、吸血行動として現れる。
3. 人間性の保持
皮肉にも、このウィルスは宿主の外見や理性をほとんど損なわない。感染者は見た目も行動も通常の人間とほとんど変わらないため、社会内での識別が困難となった。
終焉への序曲
感染者は当初、自分たちが「吸血衝動」に駆られていることに気づかなかった。異常な空腹感とエネルギーの枯渇感を、ただの体調不良だと思い込んでいた。しかし、ある日、最初の事件が起きる。
大都市の地下鉄で、ひとりの感染者が隣に座っていた若者に襲いかかり、その首筋に噛みついたのだ。周囲の人々が悲鳴を上げる中、感染者はすぐに拘束されたが、その瞳は青白く光り、どこか理性的であった。
その事件を皮切りに、同様のケースが各地で報告されるようになる。感染者たちは、自分たちが他人の血液を必要とする存在になったことを自覚し始め、社会の隅に追いやられていく。
一方で、政府と製薬会社はこの事態を徹底的に隠蔽した。「これはワクチンとは無関係な現象だ」と説明し続けたが、事態は制御不能となりつつあった。
玲司の視点
医学生だった玲司もまた、この異常現象の拡大を目の当たりにしていた。
実習中、彼は吸血衝動を訴える患者を目撃する。血を求めるその姿は恐ろしくも哀れであり、彼の胸に医師としての使命感と激しい恐怖を刻み込んだ。
「なぜ、こんなことが起きているんだ……」
玲司の叔父・貴之から届いた一通の手紙には、以下の言葉が記されていた。
「玲司、この世界は変わる。誰が正しいか、間違っているかではなく、どのように生き抜くかが問われる時代だ。」