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『恋するお菊さん』で登場した新入りスタッフのお話です
この世には、絶対に変えられない運命がある。
それが家庭環境であると知って絶望したのは、十歳にも満たない頃だった。
偏差値がそこそこ高い桜庭大学に通っている、ベージュに染めた癖のあるふわふわな髪と茶色のタレ目が特徴的な童顔の大学生。安倍明良を知る人はたいてい、このように認識している。そこに自ら手を加える必要があるとすれば、『童顔がコンプレックスで家庭に難ありの苦学生』ということだろう。
そんな彼は現在、おんぼろアパートの一室に残された一枚の紙を見下ろし、途方に暮れている。
『会社が倒産したので夜逃げします。許してね』
大人が書いたとは到底思えない丸まった文字は、その人の頭の悪さを体現している気がした。許しを乞う言葉からも全く反省の色が感じ取れない。
明良はぐしゃりと置手紙を握りつぶし、力いっぱい丸めて壁に投げつけた。
どうりで最近、家の中の荷物が少なくなっていくと思った。てっきり生活資金のために売り払っているのだと勘違いしていた。親としても大人としても無能なやつらは、ついに我が子を切り捨ててとんずらしたのだ。
両親が起業したのは半年前。短期間の研修で明良が不在だった頃、その計画は実行されていた。勘のいい息子がいると、自分達の思い通りに事を進められないと考えたのだろう。
早熟だった明良は周りをよく観察しており、直感力も鋭い。日頃からあれこれと口出しされることの多い両親からしてみれば、頭のいい息子は会社にいる上司のような目の上の瘤扱いだったのだ。
「ふざけんな!」
はらわたが煮えくり返る思いで叫ぶと、薄い壁の向こう側からドンッと音がした。うるさい、黙れ。そういう抗議の合図だ。
ちなみに、隣人は無職の男である。壁紙がはがれた部分を睨みつけ、ろくに働きもせずのらりくらりと生きている人間のくせに、と明良は心の中で毒を吐いた。
明良は高校生になってからすぐにアルバイトを始めた。家族の一員として、必死に自分と両親の生活費を賄っていた。さらに血反吐を吐くような努力をして、なんとか優秀な成績を保ち続けてきた。そのおかげで返済不要の多額の奨学金を借りることができ、大学にも通えているのだ。
お前はどうなんだ、と怒鳴りたかった。これだけの努力をお前はしているのか、と叫んでしまいたかった。声に出さなかっただけ、まだ冷静だ。
冷静だから、ぽっかりと空いた心の穴に気づいてしまった。
膝から力が抜けていく。
俯いた明良の弱音はもう、震えを隠せなかった。
「俺が、なにしたってんだよ……」
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