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一般向けのエッセイ

「ガチ」は存在するか、どうか

 元プロレスラーで前田日明という人がいる。前田日明は私が思っていたよりも教養があって、話が面白いのでちょこちょこ動画を見ている。

 

 私が見た動画には、前田日明のアンチから「前田日明はガチの試合は一回もやっていないから駄目なんだよ」といったコメントが寄せられていた。

 

 アンチがどうして前田日明をそんな風にくさすかと言うと、前田日明はプロレスラーで、プロレスは「ガチ」の格闘技とは違うのだから、格闘技について偉そうな発言をする権利はない、という意味のようだ。

 

 私はそのコメントを見て(でも、ほんとうの「ガチ」は存在するのかな?)と思った。

 

 私は格闘技を見るのが好きで、そこそこ試合を見ている。しかし見ている内に、本当の意味での「ガチ」の試合はないのではないかと思うようになった。特に感じたのが、那須川天心と武尊の試合だ。

 

 もちろん、格闘技はできるだけ「ガチ」でやろうとしている。その為に、体重制限をして、お互い同じ道具、同じルールが適用され、衆人環視の下、ズルができないようになっている。格闘技が「ガチ」を目指しているのはたしかだろう。

 

 しかし、本当の本当の意味での「ガチ」とはなんだろうと考えた時、私はそういうものは存在しないという結論に達した。それについて説明してみようと思う。

 

 ※

 例えば、野球というスポーツにおいて、バッターがファウルを打つのはズルでも何でもない。ファウルを打って、球数を投げさせて、相手ピッチャーを疲れさせるのは一つの戦術だ。

 

 ここに一人のバッターがいて、そのバッターは最初から、ファウルだけを狙っているとしよう。このバッターは相手ピッチャーを疲れさせる為に何十球と、ファウルを打つ事ができるとする。彼はヒットを打つ気はまったくない。実際、このバッターがそんな風にファウルを打ち続けたとしたら、どうだろうか。ルール上は問題ないが、私は何らかの形でこの選手は譴責を食らうと思う。

 

 というのは、そんなにファウルばっかり打たれて試合が長引いたら見ている方もつまらないし、打つか打たれるかという野球の醍醐味はどこかへ行ってしまうからだ。このファウルばかり打つ選手は、ルール上は全く問題ないにも関わらず、私は問題視されると思う。

 

 今出したのは一つの例だが、本当に「ガチ」で、勝負の為なら何でもありならば、ルールすれすれの反則というのがたくさん考え出せるだろう。しかし、それをする事は果たして「ガチ」なのか、それとも「ガチ」の闘いから逃げているのかと考えると、頭が混乱してくる。

 

 那須川天心と武尊の試合を見ていても同じように感じた。那須川天心は無敗のチャンピオンで、武尊も無敗だったが、試合は那須川天心の圧勝だった。しかし、私は見ていて、武尊の方を応援したい気持ちになった。

 

 ボクシングのフロイド・メイウェザーも那須川天心と同じく無敗の選手だ。二人の闘い方は似ている。つまり、勝ちに行くのではなく、負けない闘い方だ。ヒットアンドアウェイで、リスクを負わない闘い方をする。無理にKOは狙わない。KOできないと判断すると、判定で勝つ試合に徹する。客は派手なKO劇を見たいわけだから、メイウェザーや天心のようなプロフェッショナルは、そういう客の意向についてはある程度無視する。倒されるリスクがある時は前に出ない。

 

 一方で、武尊は、相手との打ち合いの最中にニヤッと笑ったりする選手で、彼は自分が負けるリスクを感じながらも、相手との打ち合いを楽しもうというタイプだ。武尊は負けない闘い方ではなく、勝ちに行く闘いをする。そうすると、当然負けるリスクも発生する。魔娑斗も武尊と似ていたように思う。魔娑斗が判定を見越した闘いをしていたら、もう少し楽に勝てていただろう。

 

 勝ち負けで言えば、メイウェザーや天心の方が圧倒的に有利だ。実際、二人は無敗だ。しかし私は試合を見て、二人をそれほど応援したいとは思わなかった。二人共、天才と言っていいほどの才能だが、私が格闘技に求めるものは、肉体の運動を通じて現れる精神性なので、最初から判定試合を念頭に置いた闘い方はそれほど好きではない。

 

 もちろん、それは私の好き嫌いに過ぎない。ただ、メイウェザーや天心を見て、改めて思ったのは、彼らは一番「強い」選手ではなくて、ボクシングとか、キックボクシングというルールに則った上で一番効率のいい闘い方をしている選手だという事だ。彼らは「最強」ではなく、効率のいい選手なのだ。

 

 本当の意味での「ガチ」の試合というのは存在しないし、ルールに則った上で、そのルール上、一番効率のいい闘いをする選手が一番強い、良い選手だとされる。スポーツというのは本質的にはそういうものだと思う。

 

 そういう意味において、私はそういう効率からやや外れたものの方にスポーツ選手の面白さを見出す。私は、効率的にゴールを決めるリオネル・メッシよりも、ダンスのような動きで、身体の自由を表現するジネディーヌ・ジダンのような選手の方が好きだ。しかし、勝ちに直結するという意味ではメッシの方が上だろう。

 

 私は、自分の好き嫌いが正しいと言いたいわけではない。ただ、あくまでもスポーツという、ルールに則った上でのゲームの勝ち負けをすぐに「最強」とか「無双」とかいう人達が間違っていると思うだけだ。「最強」とか「無双」とかいうのは一体、何を意味するのだろうか。「最強」を決める為には完全なる「ガチ」で試合を行わなければならないが、完全なる「ガチ」を定める為の土台を決めようとすると、それは決めきれない。

 

 スポーツは、その進化の過程、ルールの改定で「ガチ」を目指してきた。しかし、本当の意味での「ガチ」には決して到達しない。スポーツがどれだけ進化しても、結局は、ルールに則った効率の闘い方をする人間が一番強いという事になっていく。そしてそれが本当の意味での「最強」かどうかはわからない。

 

 最強とか、ガチはない、というのを別の例で説明してみよう。ここに一人の最強の選手がいるとする。彼は、完全に公平なルールで彼以外の人間を打ちのめして勝った。彼は「最強」だ。

 

 ところが、彼は、ある美女に、すっかり惚れ込んでしまう。美女に告白して、付き合い、その後、結婚する。結婚生活が始まると、すっかり彼女の尻に敷かれてしまう。彼女には逆らえない。そうすると、この美女は最強の戦士に勝った、さらなる最強という事になるのだろうか。

 

 あるいは、最強の武術の達人をいきなり、背中から包丁で刺して殺したら、それは最強に勝った最強だろうか。「それはズルい」という見方もあるだろうが、「武術の達人なら背後からの気配に気づいて対処すべきだ」という意見もあるだろう。どこに基準を求めるのがわからないので、最強は決めようがない。

 

 それでは公平なルールの反対は「ガチ」だろうか。戦争は「ガチ中のガチ」だろうか。しかし、戦争にすらルールがある。クラスター爆弾を使ってはならない、だとか。

 

 戦争が完全にガチだとしても、それこそ、核爆弾の打ち合いなどは、一体、どうなるのだろうか。核爆弾を打ち合う事は、互いを決定的に破壊する行為だ。核戦争で相手に勝ったとしても、もうその時には勝者は、勝って得られるものよりも、遥かに多くの物を失っているだろう。秩序のない闘いは、そもそも勝ち負けというゲームの土台そのものを破壊してしまうのだ。

 

 完全なる「ガチ」の戦い、絶対的な勝ち負けにこだわるのであれば、ルールにない微妙な反則行為をするのが有利だという事になるだろう。あるいは、ルールに則った効率のいい戦い方を練習する事になる。そしてその戦いが観客の望むものとずれていても、問題にはならない。


 結局の所、人間が定めるガチの戦いには限界がある。私はスポーツを見るのが好きで、子供の頃から長らく見てきたが、自分の中で記憶にあるのは、勝ち負けではなく、イメージとか情景だとかというものだとある時気づいた。

 

 例えば、弱かった頃の阪神の新庄が、敬遠球を打ったサヨナラヒットであるとか、最近だと、村田とゴロフキンの試合だとかだ。そこでは、私自身の心的状態と、スポーツの現場で起こっている状況とが一つに結びついて、あるイメージとなって私の中に沈殿している。


 特に、当時の阪神は圧倒的に弱かった。だから勝ち負けにおいては全くお話にならないはずだ。にも関わらず、見てきた野球の中で最も強烈に印象に残っているのは、弱小阪神の新庄のサヨナラヒットだ。

 

 スポーツというものが、我々に与えてくれるのは、「記録ではなく記憶」だろう。長い目で見ると、そういう事になるはずだ。そうしてスポーツに求められるのは、選手や審判の持っている精神性であって、「何が何でも勝ちたい」という気持ちではなく、「ガチの戦いで勝ちたい」という気持ちの方だろう。この二つは同じであるようだが、微妙に違う。

 

 もちろん、さっきからずっと書いているように「本当のガチ」は存在しない。だからこそ、選手は「ガチ」を求めるべきなのであって、「本当のガチ」は得られないのはわかっていながらも、選手はそれを追求するのを止めるべきではないと思う。


 「本当のガチ」は現実には存在しないが、「本当のガチ」を追求する事なく、ただ勝ちに徹した試合をする選手はおそらく、本人の予想よりも、早く忘れ去られていくだろう。観客の記憶に残るのは、勝ち負けの数字ではなく、あるイメージ、情景、物語などだからだ。


 人というのははイメージや物語を核にして生きており、スポーツ選手はその物語の一部になれるような形に向かって努力するのがいいのではないかと思う。その為には選手も、また観客も「ガチの戦い」というフィクションを希望してもいい。私はそんな風にスポーツというものを見ている。



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― 新着の感想 ―
[一言] 小説における「リアリティ」ですね。
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