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スマイル  作者: レミィ
9/12

夏の街の少女 2/4

 女の子が帰った後も僕はずっと公園にいた。何時間いたのかも定かではない。けれど長い間そうしていた。雨が止むことはなかった。

 階段を下りて、家に向かった。玄関の扉を開けると、そこには人が転がっていた。

 僕の父親だった。

「……おぅ、ユウト」

 どうやらずっと眠っていたらしい。僕の姿を認めると、父さんは恥ずかしそうに頭をぽりぽりと掻いた。そうするのが彼の、昔からの癖だった。

「今日、ちゃんと出してきたぜ、離婚届」

「そっか。お疲れ様」

「俺は別に疲れちゃいねぇよ。紙切れに名前書いただけだ」

「そういうことじゃない」

「分かってるよ、そんくらい……」

 僕と女の子は、似ている。

 呆れてしまうくらいに、似ている。

 僕の理不尽は、そうして束縛は、長い年月をかけて解決した。解決をしたというより、ボロボロになって崩れ去ったと言う方が正しいのかもしれない。

 女の子の理不尽もいずれこうやって解決されるのかもしれない。どちらにしろ、僕自身の理不尽は解決しても解決しなくてもどちらでもよかった。もうとっくに慣れてしまっていたから。

だからやっぱり、慣れるのが一番なんだ。

 ……僕には一体なにが残ったのだろう?

 ふと、そんな疑問が浮かんでくる。

 自分の手のひらをまじまじと観察してみる。別になんの変哲もない、ただの手のひらだ。大きな傷がついているわけでも、特段きれいなわけでもない。ごく普通の、男子高校生の手。

 そんな手を見つめていたら、なぜだか急に悲しくなってくる。

「ねえ、父さん」

「ん?」

「なにが残ったんだろう」

「と、言うと?」

「僕ら家族には、一体なにが残ったんだろう?」

 僕がそう訊くと、父さんはまた頭をぽりぽりと掻いた。そうして雨に濡れたスーツを乱雑に脱ぎ捨てると立ち上がり、脱衣所へと向かって行った。

「なにも。なに一つ残らなかった」

「ねえ、父さん」

「今度はなんだ?」

「バイクのキーを貸してほしい」

「……ああ、いいぜ」

 廊下にあるキーケースからそれを取り出して、父さんは僕に投げて寄越した。あの頃はまだきれいだったカエルのぬいぐるみのキーホルダーは、いつの間にか薄汚れてしまっていた。

「乗り方は分かるか?」

「何回乗せてもらったと思ってるのさ」

「あははっ! そういや、そうだったなあ!」

 そう言うと、父さんは大声で笑いながら脱衣所へと消えていく。僕はガレージに置いてあったバイクにキーを挿すと、左に半回転させた。

 慣れてしまえばいいんだ、そんな理不尽なんて。どうせ逃げてもどうにもならないし、現状が変わるわけじゃない。より深い絶望を味わうだけだ。かつての僕がそうだった。

 けれど、すべてが終わって僕にはなにが残った? 僕の家族にはなにが残った? そう考えてみると、なにも一切残りはしなかった。本当に一切、なにも残らなかったんだ。かけら一つですらも残らなかった。僕という人間には、なに一つとして確かなものが存在しない。

 僕と女の子は、似ている。

 悲しくなるくらいに似ている。

 けれどあの子には、こんな思いをしてほしくはない。

 誰も許してくれないのなら、僕だけは許してあげればいい。一人じゃ壊せないのなら、一緒に壊してあげればいい。

 僕はあの子の、そうしてかつての僕自身の味方をしてあげようと思った。



 まだこの街のどこかにまだあの子はいる。それは憶測でも推測でもなく、れっきとした確信だ。けれどどれだけバイクを走らせてもその影すら掴めない。雨は勢いを増して僕の身体を叩きつける。心臓の鼓動がうるさく響いて、焦りだけがうず高く積もり続ける。

「とりあえず、落ち着いた方がいいな……」

 手が震えてしまっている。雨に濡れた寒さと、そうして焦りや恐怖という感情のせいだ。僕はバイクを止めて数回大きく深呼吸をすると、またグリップを捻ってバイクを発進させた。

 別に広い街じゃない。隅々まで探せばいずれは見つかるはずだ。とにかく僕が知っている道を中心にしらみ潰しに見て回っていった。

 けれど、どれだけ探しても女の子の姿は見えない。このままじゃ埒が明かないので通ったことのない道にも入っていく。バイクの操作に慣れないから何度も転びそうになった。その度に僕は止まって深呼吸をする。落ち着くことがなによりも肝心だ。そう自分に言い聞かせる。

 僕は公園に行ってみることにした。僕たちが出会った公園に。雨を掻き分けるようにバイクを進ませ、アスファルトの上を駆けていく。ヘルメットが邪魔で仕方がない。身体に貼りつく雨が筋肉の動きを鈍らせているように思えてならない。

 公園へと繋がる階段の下に、女の子はいた。それは幸いだった。

 けれど、それだけじゃなかった。

 女の子の手を掴んで引っ張っている人間がいて、恐らくそれが女の子の父親だっていうのは、叩きつけるような雨の音でも消し切れない二人の言い争う声で分かった。

 僕はスピードを少しだけ緩めて、その男に向かって行った。男はこちらを認めると最初は不審な目を向けたが、僕がバイクを止めずにこのまま自分に突っ込むつもりなのだと悟ると、大きく目を見開いて避けようとする。けれど僕の方が少しだけ早かった。

 男の左足にバイクの前輪がぶつかる。その反動で転びそうになったがなんとか耐える。男は後ろに吹っ飛ばされた後、自らの左足を押さえ込んだままうずくまった。

 後でいくらでも傷害罪なり誘拐罪なりで訴えてくれていい。ちゃんと償うし、その覚悟だってある。だから今この瞬間だけは、どうか目をつぶっていてほしい。

「え、な、あっ……」

「お迎えに上がりましたよ、姫」

「ゆ、ユウトさ……」

「いや、ごめん、さすがに気持ち悪いな。でも僕は今まで生きてきた中で、今この瞬間が、一番興奮しているんだよ。だからちょっとくらいの気持ち悪さは、許してほしい」

「どう、して……」

「逃げるんじゃなかったの?」

「逃げる……」

「逃げないの?」

「逃げる……逃げる、逃げるっ!」

「後ろに乗ってしっかり掴まって。ちゃんと僕のお腹に両手を回して、絶対に離しちゃダメだよ。そうやってしっかり掴まっていれば、きれいな海の見える街まで連れていってあげる」

「ほ、ほんとっ?」

「しっかり掴まっていれば、ね」

「分かったっ!」

 女の子の敬語が崩れている。それだけ余裕がないということだろう。

 僕はヘルメットを脱ぐとそれを女の子に被せ、バイクの後ろに乗っけた。それと同時に男がよろよろと起き上がってくる。エンジンを吹かせ急発進する。風雨が顔面を直撃してまともに目が開けられなかった。

 それからは、一体どの道を通ったのかなんてことは一切覚えていなかったし、もちろん法定速度だとかウィンカーだとかに気を配ることもできなかった。とにかく道を通って、ここではないどこかへと行こうとしていた。

「海が、海が見たいっ! 海の見える街に行きたいっ!」

 僕の身体に両手を回してしっかりと掴まっている女の子は、風の切る音にも負けないくらいの大声でそう叫ぶ。

「いいねっ! 海の見える街は最高だっ!」

 僕も大声で答える。

「早く梅雨が明けてほしいっ! 雨なんて一生降らなくていいっ!」

「全くその通りだっ! 梅雨なんて今すぐ明けちまえっ!」

 叫ぶ。叫ぶ。世界は僕たち二人だけのものだった。他に誰も邪魔なんてしない。なにをしたって怒られない。なにを言ったって非難されない。ただただ自由で、ただただ痛快で、ただただ爽快だった。僕らに張りついていた汚れや枷や重りは何十キロものスピードで後方へと吹き飛ばされていった。

「きれいな空が見たいっ!」

 女の子は叫ぶ。

「クリームパンをいっぱい食べたいっ!」

 願いはどんどんと膨らんでいく。僕はそれを肯定し続ける。

「お魚釣って食べたいっ!」

 なんでもいい。なんでも叶えてやる。どんな願いでもいいんだ。どんな願いでも叶えられる。僕たちはこの世界を、自由自在に操ることができるんだから。

「探検したいっ! 後は、えっと! えっとっ! ……ああもうっ! よく分かんないっ!」

「よく分かんなくていいんだよっ! 分からなくたっていいっ! それだって全然構わないんだっ! だって僕らの行く街は自由で、そうして暑くて、のどかで、どこか幻想的で、きっとそういうところだからっ! ときどき自分がなにをしたいか、分からなくなるときだってきっとあるんだっ!」

 永遠に逃げ続けよう。理不尽があるなら、束縛があるなら、逃げ続ければいい。目を背け続ければいい。背け続ければ、それを見る必要なんてないんだから。前を見ようとするから、歩みを止めようとするから見えてしまうんだ。だから永遠に逃げ続けて、背き続けて、そうすればいずれ脅威は過ぎ去る。その後でも逃げ続ける。そうして背き続ける。そうしてこっちの世界を本物にしてしまえばいい。理不尽な、束縛のある世界を捨ててしまえばいい。きっとそうなんだ。僕はこの世界に慣れてしまって、結果としてすべてを失った。僕にはなに一つとして形あるものが残らなかった。ヒステリックな母親は財産を食いつぶし家庭を崩壊させて牢屋にぶち込まれ、その言いなりであった父親は脳みそがアルコールに浸されて人間じゃなくなった。そうして今日、すべてが終わった。理不尽も束縛も痛みも苦しみも過ぎ去った。たったの一枚の紙切れと、司法の力によって。そうして僕の手元には、なに一つとして形あるものは残らなかった。僕の十七年という月日を振り返ってみると、そこにはなにもないんだ。一面の更地。僕の十七年間は空白だ。なにもない。なに一つとしてない。楽しい思い出も、忘れられない出来事も、なにかに涙を流したことも、なにかに本気で怒ったことも、なにかに一生懸命に打ち込んだことだってない。僕は生まれて、ただ生きてきただけだ。命を食べて、息を吐いて、時間を数えて過ごしただけだったんだ。

 彼女には、そんな思いをしてほしくない。僕みたいになってほしくない。僕らはとても似ている。だからこそ、かつて僕が諦めた、逃げるという手段を彼女には全力で行使してほしい。命がけで行使してほしいと思った。

 僕はもう二度と、逃げることを失敗しない。これは女の子への約束。そうして逃げることに失敗した、かつての僕への償いでもある。

 日が昇って、そうして雨の勢いは次第に弱まってくる。僕らが今どこにいるのかなんて分からない。けれどきれいな海の見える、そんな夏の街には確実に近づいている。方向なんて関係ない。近づこうと思えば近づける。僕たちはそこに行くことができる。

 空が白んで、雨の勢いが弱まって、アスファルトの道は日の光を反射して透明に輝き続けた。もう少しできっと着く。夏の街までもう少しで着く。僕は右手のグリップを捻りスピードを徐々に上げた。夜ならよかったが、日が昇ってくると色々と不都合が出てくる。こんな朝っぱらから小学生を後ろに乗せてバイクを走らせている高校生なんて、どう考えてもおかしい。無免許だし、それに一番の問題は、僕がヘルメットを被っていないという事実だった。

 バイクを止められたらかなわない。置いてきたものたちに追いつかれてしまう。僕はまた失敗を重ねてしまう。そうして女の子に、かつての僕以上の絶望を与えてしまう。

 だからこそ、僕にはスピードを緩めるという手段はなかった。

「ねえ、速すぎるよっ!」

 後ろの女の子がそう言うが、その言葉を素直にはいそうですかと受け入れることなんてできない。

「大丈夫だっ!」

「でもっ!」

「すぐそこには夏の街が待っているっ! だから――」

 失敗するわけにはいかなかった。

 ここで失敗をしたら、僕は『本当の意味ですべてを失う』ことになると分かっていたから。

 スピードメーターを確認する。けれど頭の処理能力が限界に達していてメーターが読めなかった。もうわけが分からない。僕はなにをどうすればいいのか分からない。全部が全部悪意に見えて、あらゆるものが僕らを邪魔しているように見えた。肌にまとわりつく濡れたシャツも、白み始めた地平線も、身体を切り裂く風の刃も。正しいものなんてこの世にはなに一つ存在しなくて、すべてが大きく、あるいは小さく、けれど等しく狂ってしまっているように思えた。僕ら二人だけがこの世界で正常に生きていて、後の全部はおかしくなってしまっていた。

 意識が連続せず、断続的になる。呼吸が荒くなる。心臓のリズムがおかしくなる。視界がモノクロになる。

 僕は無意識に、その名を呼んだ。

「――カモメ」

「な、なにっ?」

「飛んでいって。僕より先に――」

 雨に濡れたアスファルトはいとも簡単に、そうして残酷に僕らのスピードを殺した。痛いなんて感覚はほんの一瞬でなくなって、頭の中は混乱だけが支配した。

 森のざわめきが聞こえたような気がした。セミの合唱かもしれない。

 もしかしたら波の音かもしれない。

 目の前をバイクがカーリングみたいに滑っていく。そこで僕は初めて、バイクから落ちたのだということに気がついた。

 声が出ないし、身体も動かない。

 息は、少しだけできた。

 苦しくはなかった。

 僕は声を上げて笑う。

 けれど、口からは血ががぼっがぽっと噴き出すだけで、上手く笑えはしなかった。

 僕の最初で最後の心からの笑いっていうのも、結局はそういうオチだった。

 息をすることは決められてしまっているくせに、笑うことは許されなかったんだ。最後の最後の瞬間まで。

 ほんと、怒りを通り越して呆れてしまう。

「――っ!」

 カモメ……いい名前だと思う。日の光が燦々と降り注ぐ、海がきれいな、そんな夏の街にピッタリの名前だ……。

 そんなことを考えて、僕は昔見た鳥類図鑑のことを思い出していた。

 カモメとウミネコの違いについて。

 気になったんだ。夏の海でくわーくわーと鳴く鳥の正体について。あれはカモメだって言う人もいれば、あれはウミネコだって言う人もいた。だから僕はその本当の正体を探るために、街の図書館に出向いて、鳥類図鑑を読んだんだ。

 えっと、なんだっけ。昔のことだからよく覚えていないけれど、確か見た目にあまり違いはないんだ。羽だかくちばしだかで見分けることができる。鳴き声も似ているから、一見しただけじゃどっちがどっちか分からない。

 けれど、大きな違いが一つある。

 それは、カモメは冬に飛ぶ鳥で、ウミネコは夏に飛ぶ鳥だってこと。

 だから、夏の街にカモメはいないんだ。

 夏に、カモメは飛ばない。

 ……ほんと、呆れてしまう。

 なにもかも上手くいかない。

 初めから終わりまで、なに一つとして上手くいってはくれない。

 カモメ、いい名前だと思うけれどな。

 どうして夏に飛ばないんだろう。

 そんな、僕が言ったところでどうしようもない問題なんだけど。

 身体が温かい。その温かさの正体が女の子……カモメだと気づいても、僕はもう彼女になにもしてはあげられなかった。結局僕がしてあげられたことっていうのは、弱い希望を与えて、それから深い絶望を与えたってことだけ。

 ねえカモメ。慣れるっていうのは、初めは上手くはいかない。けれどすぐにできるようになる。頭の悪い僕でもできたんだ。僕よりも数段優秀なカモメなら、簡単にできると思うよ。まずコツとしては、周りを見ないこと。僕らの世界が世界のすべてだと思い込むことで……。

 あー、えっと……よく考えがまとまらないな。なんだっけ、それから、えっと……それから僕はどうしたんだっけ……昔のことだからな、中々思い出せない……。

 寒いな、どうしようもなく寒い。それと、そんなに泣かないでほしい。それと、大分小降りになったとはいえまだ雨降ってるのか。いい加減もういいだろ、早く梅雨明けてくれ。このまま八月になるのはいやだよ……。

「――夏の、街に」

 夏の街。

 ……夏の街か。

 すてきな響きだ。

 いいところだといいな、夏の街。

 雨なんて一切降らない場所だといい。

 毎日青空でいいよ。毎日暑くていい。それくらい許すよ。

 それくらい許すから、そんな場所に行かせてほしい。

「一緒に、行きましょう…………ユウトさん……」

 そうだな。

 行ってみるのもいいかもしれないな。

 ちょっとくらい行っても怒られないだろ。どうせ僕はすぐ死ぬんだから、ちょっとくらいそこに行ったって誰も怒りはしない。

 だから、行こう。

 夏の街に。



夢を見ていた。

 悲しい夢。けれど悲しいだけじゃない、楽しくもあった。

 すごく不自由で、そうしてすごく自由でもあった。

 涙が溢れ、けれど笑ってもいた。

 そんな夢を見ていた。

 僕には記憶がなかった。この夏の街に来た理由も、そうしてこの街に来る以前の記憶も僕にはなかった。

 僕の名前はユヅキユウト。どうしてか分からないけれどこの街に用があって、遠方からはるばる徒歩でやってきた。ふと気がついて隣を見ればちょっと憎たらしい小学生の女の子、クリームがいて、僕の手には缶コーヒーが握られていた。クリームはクリームパンにもふもふとかじりつきながら、僕と一緒に夏の街までの道のりを歩いていた。

 夏の街に着くと、そこでヘビースモーカーのおばあさんが経営している民宿を見つけ転がり込んでお世話になった。光を反射して透明に輝く海ではシーグラスを集めている日焼け跡が眩しい活発で溌剌で尻尾がぴょこぴょこ揺れる、ウミという名前の女の子に出会った。山の上の飛行場では十匹の猫を探している夏にも関わらず長袖でストッキングを履いている無表情で抑揚がなくて世間とは四十度くらい角度がずれている、ソラという名前の女の子に出会った。

 どれもこれも、確かに僕が経験したことだ。この事実に偽りはなかった。

 そうして今この瞬間、僕がどうしてこの夏の街にいるのか、そのすべての理由を思い出した。

「全部わたしのせいなんです」

 民宿『夏休み』の僕の部屋で、クリームは絞り出すようにそう呟く。

「この夏の街は、わたしが作りました」

 普段の僕だったらクリームのそんな言葉を本気だと受け取らなかっただろうし、ツッコミの一つでも入れていたかもしれない。

 けれどその言葉は紛れもない事実。それは僕が一番分かっていた。

「ウミとソラも、作られた存在?」

「いえ、そうではないんです。二人はわたしがまったく予想していない二人でした。あくまで憶測なんですが、ウミちゃんもソラちゃんも、元は一人の人間だったのだと思います。そして二人ともユウトさんと同じで死ぬことが決まってしまっていて、そうして夏の街を……いえ、別に夏の街である必要はないですね。ウミちゃんはウミちゃんの『夏の街』を、ソラちゃんはソラちゃんの『夏の街』を願っていた。逃げる場所というよりは、きっとなにかやり残したことを消化する場所だったのだと思います。ウミちゃんのやり残したことがシーグラスのお葬式で、ソラちゃんのやり残したことが十匹の猫だった。二人はそれをやり遂げるために、この夏の街で『ウミとソラ』になった。この夏の街は、ウミちゃんとソラちゃんと、そうしてわたしたちの願いのかけらを繋ぎ合わせて形成されたんです」

「ウミもソラも僕と同じで死ぬことが決まっていた。僕がバイクで事故を起こして死ぬその一瞬の隙間に夏の街を強く願ったように、ウミもソラも死の隙間にそれぞれのなにかを強く願った。二人ともやり残したことがあったから。そうしてそのやり残したことをやり終えたから、二人はこの夏の街から消えた。正確には、この夏の街から消えて……死んだ」

「恐らく、としか言えませんが。わたしはそう考えています」

「なるほどね……」

 民宿『夏休み』から、ハツミさんが消えた。けれど驚くことではなかった。クリーム……えっと、カモメの話を聞いてからならその理由もなんとなく想像できる。

 この夏の街はカモメが作った。そうしてウミとソラの二人はカモメも予想していなかった二人だった。つまり裏を返せば、それ以外の人間……ハツミさんは、カモメが予想していた人間ということになる。

予想していた人間。存在することがあらかじめ予想されていた人間。言い方を変えれば、存在する理由があった人間。実際、ハツミさんには存在する理由が与えられていた。それは民宿『夏休み』を経営して、僕たちが餓死したり暑さで干乾びたりしないようにするため。

そして存在する理由が与えられていない人間は存在しなかった。木こりも、漁師も、街の住民も、初めから存在すらしていなかったんだ。それは存在する理由がなかったから。

 ハツミさんには存在する理由があった。けれどハツミさんは消えた。つまり民宿『夏休み』の機能は、もうこの夏の街には、僕たち二人にはいらなくなった要素だということだ。

 これがどういうことを意味するかというと、

「もうそろそろ、この夏の街から出ていかなければいけません」

 カモメはそう言った。

「民宿『夏休み』か……」

 夏休みにはいつか終わりが訪れる。この夏の街にも、明確な終わりが見えてきた。ハツミさんが消えたこと。もうそろそろ、僕たちの束の間の逃避行も終わってしまう。

 民宿『夏休み』だなんて、いいセンスだと思う。本当に。

「君には本当に悪いことをした」

「なんですか、突然」

「僕が連れ出しておいて、僕だけが一人で死んだ」

「なんだ、そんなことですか」

 カモメは呆れ顔で笑った。窓から風が少し吹いて、部屋の空気が揺れた。

「山で転げ落ちてちゃっかり助かったときは、じゃああのときも助かってくださいよバカって思いましたけどね」

「まったくその通りだ」

「いい加減にしてくださいよ、ほんとに」

「実はあのバイク事故で偶然一命を取り留めていたってことない? 僕って本当に死んだの?」

「死にましたよ。だってその瞬間はわたしが見たんですもん。ユウトさんは気づいていないでしょうけど、もう足とか手とかぐちゃぐちゃで、そりゃあ酷い有り様でしたよ。あ、死ぬんだなって、もう絶対に助からないんだって本能的に分かっちゃうくらいの有り様でした。喋らなくていいって言っているのに喋ろうとするし、でも口からは血しかでなくて全然喋れていないし。そうしたら急に微笑みながら目を閉じたんです。まあ、その前から目なんて、もう焦点が合ってなかったんですけど。でもわたし必死に覗き込んでたんですよ、まあどうせ気づいてないですよね? ほんとに……で、目を閉じたら、心臓が止まりました。心臓が止まったら呼吸が止まりました。そこから先はよく覚えていないです。気がついたら山の中を歩いてました。夏の街に来たんだって、そう思いました。隣にはピンピンしているユウトさんがいて、缶コーヒーを飲んでて、それでわたしの手にはクリームパン。あのときと同じだなあって思いました。夜の公園が、まだずっとずっと続いているんだなって。だから、夏の街というほんのちょっとの夏休みを、精一杯楽しんでやろうと思ったんです」

 自分の死に際の状況を説明されるっていうのは、なんとも不思議な感覚だ。自分自身のことなのにまるで実感が湧かない。

「で、どうして僕には記憶がなかったんだろう?」

「さあ、ヘルメットしてなくて頭打ったからじゃないですか?」

「実際そうかもしれない。でもそれなら、教えてくれればよかったのに」

「ユウトさんは実はバイク事故で死んでるんですよ、なんて私が言って信じますか?」

「信じないね」

 今日は随分と質の悪い冗談を言うな、としか思わなかっただろう。

「だから、ユウトさん自身で気づくしかなかったんです。随分と遅くなりましたけどね」

 ウミとソラが消えて、やっと僕はこの夏の街と自分自身と、そうしてカモメという女の子について思い出すことができた。ほんと、随分と遅くなってしまったけれど。

「あとどれくらいこの夏の街は持つのだろう」

「分かりませんが、ハツミさんが消えたということは、そんなに長くは持ってくれないということです」

「それまで僕らはなにをしていようか、カモメ」

「それ、やめてください」

「それ?」

「クリームって呼んでほしいです」

 そう言うとカモメ……えっと、クリームは僕の背中に手を回しごく自然に僕に抱きついてくる。そんなもんだから、僕もごく自然にカモ……クリームの背中に手を回しそれに応える。頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

「わたしの名前はカモメですけど、今だけはクリームって呼んでほしいです。なんだかそっちに慣れてしまって、カモメは違和感があります」

「本当の名前なのに?」

「本当の名前なのに、です」

 まあ、本人がそっちで呼んでくれってお願いしているんだから、僕はそっちで呼ぶだけだ。

「あっついですねえ」

「くっついてるから」

「ひっついてますから」

「くっつきひっついてる」

「ひっつきくっついてます」

「くっつきくっついてる」

「ひっつきひっついてます」

 ひっつきくっつき。

 クリームは僕の胸の中に顔を埋めた。シャツ越しに息が僕の肌を撫でる。僕の心臓のペースとクリームの心臓のペースは違う速さで動いているはずなのに、今この瞬間だけはそれがピッタリと合っているような気がする。何時間でもこうしていたいと思ったし、何時間でもこうすることが正しいとも思える。

僕がクリームに対して抱いていたわずかな不信感、気がついたらふっと消えてしまうような危うさ、質量の感じられなかった言葉。それらは全部なくなってしまっていた。今まで一緒にここで暮らしてきたクリームという人間と、夜の公園で出会いバイクで夏の街へと連れ出そうとしたカモメという人間の二人が混ざり合い溶け合い一つになり、今僕の胸の中にいるクリームという存在になったような気がする。

僕は今頃になってやっと、クリームと本当の意味で打ち解けられたのだと思う。

両手に力を込めて抱き寄せる。クリームはなにも言わなかった。クリームの息が周期的に僕の肌を撫でる。

一人ぼっちの人間二人が、二人ぼっちの人間一つになった。

「依存しているのかもしれませんね、お互いに」

「そうかな」

「きっとそうですよ」

「じゃ、そうなのかもね」

「はい」

「でも、それでいいと思うよ」

「そうでしょうか?」

「その方が一人でいるよりも、何十倍何百倍、何億倍もマシだ」

 クリームはけらけらと笑った。

「本当に、その通りですね」

 この夏の街を去ったときのことを僕は考えてみる。僕は死んで、クリームは生きる。そこに希望や幸せは果たしてあるのだろうか。

 けれど、僕がそうだったからクリームもそうだとは限らない。クリームは僕と違いその両手でなにかをちゃんと掴めるかもしれない。僕のことなんて簡単に忘れ去ってしまうのかもしれない。

 きっとその方が幸せなのだろう。夜の公園のことも、夏の街のことも、そうして僕のことも、古い思い出として胸に仕舞うことができたら、それが一番幸せなことなのだと思う。


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