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スマイル  作者: レミィ
8/12

夏の街の少女 1/4

「そんな苦いものを平気で飲めるなんてどうかしていますね」とそいつは言ったので、僕は「そんな甘いものを飲みものもなしに食べられる方がどうかしている」と答えた。

 きっとどちらも等しくどうかしているんだと思う。味覚も、そうして人間としても。



 夜中のベッドタウンの公園に人なんていない。だから僕はいつもそこに行く。夜食のパンと缶コーヒーと、そうして憂鬱を一トンくらい持ち込んで。

 パンにこだわりはない。カレーパンも好きだし、くるみのパンも好きだし、塩で味つけをしたやつも好きだ。ソーセージなんかが挟まっていた日には少しにやけてしまう。

 パンにこだわりはないとは言ったけれど、それには一つだけ条件がある。『甘くない』パンにならこだわりはない、ということだ。

 これは単純な僕の好みの問題なのだが、例えばクリームがべったりと塗られたパンを美味しく食べることが僕にはできない。最初の一口目なら美味しいと言うだろうが、きっと二口目には甘さに舌が不快感を覚え、そうして三口目にはその不快感が脳にまで達する。そうなってしまうともうそのクリームまみれのパンにかじりつくことはできなくなってしまう。

 だから今日の僕の夜食はカレーパンだった。それをかじり、缶コーヒーで流し込み、風で揺れる木々を見つめる。さっきまで降っていた雨が葉っぱの表面を伝って地面へと落ちていくのが見える。永遠に続く梅雨はこの街だけではなく、僕の心にも雨を降らせる。

 なんて、センチメンタリズムを唱えてみる。

 七月になったというのに梅雨が明ける気配はない。このままの調子でいったら八月になっても梅雨は明けないんじゃないかと思ったけれど、きっとそれまでには明けるのだろう。八月じゃなくても、きっと明日でも明後日でも、いつだって梅雨は明けるんだ。ただ今は梅雨で、さっきまで雨が降っていた。そういう事実があるというだけで。

 少しだけ残った缶コーヒーを喉に流し込んで、物足りなかったなと考える。もう一本コーヒーを買っていてもよかった気がする。カフェイン中毒患者には一本は厳しい。

 考えごとをするフリをしながらボーっとしていると、誰かの足音が聞こえてきた。この公園は山の上にあって、ここへ来るにはろくに整備もされていない急こう配の階段を登ってこなければいけない。足音は、その階段を一段一段登っている音だった。

 こういうことは何度かある。来るのは決まって僕みたいな人間だ。そうして僕の顔を見るとみんなすぐに階段を下りて下に行ってしまう。誰だってベンチに座っている素性も知らない男と一緒に公園になんていたくはない。しかも夜中で、二人きりでなんて。

 階段を登り終えて、足音が僕のところに近づいてきた。今までとは違ったパターンだったので、僕はその足音の主が一体どんな人間なのか気になった。もしかしたら絡まれるかもしれない。そうじゃなくても、僕と二人っきりでも文句のない、そういう奇特な人かもしれない。

 そう思って振り返って、

「え」

 と、声が漏れる。

 そこにいたのは、どこからどうみても女の子で、小学生で、こんな夜中の公園に来ちゃいけない、そういう種類の人間だった。

「こんにちは」

「え、あ、こ、こんにちは……?」

 挨拶をされる。見ず知らずの小学生の女の子に挨拶をされる。僕が動揺していると、女の子は先ほどまで降っていた雨でできた水たまりの方に行き、その中を覗き込んでいた。アスファルトの上に貯まったそれならまだしも、土の上に貯まった水たまりなんて覗き込んだところで濁っているからなにも見えないだろうと思ったけれど、その女の子は熱心に覗き込み続けた。

 気まずい思いをしていたのはほんの数十秒だけで、女の子は「お邪魔しました」とだけ言い残すとすぐに階段を下りて下に行ってしまった。

「……どこかに迷い込んだのかな」

 そう思ったけれど、その日僕はちゃんと家に帰ることができた。途中で化け狐に遭遇なんてしなかったし、猫又が僕を襲ったりもしなかった。そうして女の子が覗いた水たまりを僕も覗いてみたけれど、やっぱり濁っていてなにも見えはしなかった。



 次の日も僕は公園にいて、女の子はやってきた。そうしてすぐに帰った。

 その次の日も僕は公園にいて、そうして女の子はまたやってきた。けれどまたすぐに帰った。

 そうしてそうしてその次の日もやっぱりそうだった。「こんにちは」なんていう他人行儀な挨拶を交わして、数十秒だけ女の子はその空間に存在する。水たまりの次は大木の根っこ、その次はブランコの下、その次はまた止んだばかりの雨が作り出した、濁った水たまり。

 パンと缶コーヒー。僕は今まで買ったこともないクリームパンを買った。買った後で恐ろしく後悔をした。一体お前はなにをやっているんだ、とよく分からん人間の声が聞こえた気がした。気がしただけだった。

 ベンチに座る。くるみパンを食べる。くるみがほのかに甘い。ほのかな甘みは好きだ。ビニールの袋の中にはクリームパンが入っている。そうして、足音が聞こえる。

 足音が大きくなっていき、僕の耳にはその音以外のあらゆる音が入ってこなくなる。階段を登り終わり、僕の元へと近づいてくる。いつも通りだ。昨日も、一昨日も、女の子はそうしていた。

「こんにちは」

 そうしてまたいつものように女の子は僕に挨拶をする。小学生の女の子、こんな場所に、こんな時間に来ちゃいけない女の子。本当なら僕は、それをちゃんと注意しなくちゃいけない人間なんだ。僕だってまだ高校生だけれど、高校生なんて四捨五入すれば大人だ。四捨五入すれば大人の人間として、夜の公園になんて来るべきではないということを、ちゃんと言わなきゃいけない。子どもが、ましてや女の子が。

 けれど僕の口から出てきたのは、

「よかったら、いる?」

 なんていう、そんな言葉だった。

 女の子はこちらを向くと、僕が手に持っているそれをまじまじと見る。その後で、

「……じゃあ、ご馳走になります」

 と、答えた。


 木製のベンチには苔が生えている。だからそんなところに座らせるなんて気が引けたけれど、女の子は「気にしませんよ、そんなの」と言ってぽふりとベンチに腰掛けた。

 もちゃもちゃとクリームパンにかじりついている様を、僕は横目で見る。ハムスター、あるいはもっと……もっとなにか、その様子とピッタリ重なるような食事をする動物を知っているような気がしたけれど、結局は思い出せなかった。動物園で見たのかもしれないし、テレビのそういった動物特集番組で見たのかもしれない。それすら覚えていない。

「今さらだけど、飲み物もなにもなかったね」

「いえ、大丈夫ですよ。美味しかったです」

「ならよかった」

 小学生の女の子なら甘いものが好きだろうという短絡的な思考だったけれど、お気に召してくれたようでよかった。僕の百数十円は無駄にはならなかった。

「こんな夜中に出歩いたら危ないよ」

 なんてことを、僕は今になって口にした。それは最初のときに言うべき言葉だったし、ならお前のこのクリームパンは一体なんなんだよ、と自分で自分に突っ込みを入れる。

 そいつはぽかんとした顔をしたかと思うと、その後で少しだけ微笑む。

「その通りですね」

「……その通りでしょ」

「はい、その通りです」

 と口では言ったけれど、女の子がベンチから動くことはない。きっと僕が声を掛けなかったらまた数十秒後にはいなくなっていたのだろう。そうしていつの日かここに来ることはなくなっていて、僕も彼女の存在を忘れていたのだと思う。

 けれど僕は声を掛けた。だから女の子はここにいる。

 今になって、後悔の念が僕を襲っていた。

「じゃあお兄さんは、どうしてここにいるんですか?」

 お兄さん、という響きが耳元をくすぐる。なんだか変な感触だ。気持ちが悪いとも言える。

別に彼女からしたら高校生の僕は『お兄さん』なんだろうけど、けれどその呼称には違和感がある。地球の地軸が少しだけ傾いたような違和感。

「ここにいる理由と言ったら、ここには人がいないから」

「じゃあわたしはご迷惑ですかね」

「そう思っていたらクリームパンをあげてない」

 ハッキリと言うと気になったのだ。クリームパンはそれを知るために餌だったのだ。

 女の子は少し僕に近寄る。その後で自らの両手をその細い首へと持っていって、親指で喉を絞めるような動作をする。なにをしているんだと言う前に、

「息ができないんです」

 と言って、女の子は悲しそうに笑った。

 悲しそうに笑った。

 そのジェスチャーの意味も、笑顔の意味も、僕にはまったくの意味不明で理解不能で解析不可能な代物に思えた。そもそも意味なんてないのかもしれない。ただ僕をからかいたくてそんなことをしているだけで、真面目に取り合うべきではないのかもしれない。

 そう思って口を開きかけたとき、女の子の顔からはふっと笑顔が消え、悲しさだけが宿る。

「息が、できないんです」

 そうしてなにかを確かめるように、もう一度だけその言葉を呟いた。

 本当に、どこかに迷い込んだんだと思う。

 頭から触手が生えてくるんだ。脳みそを破って頭蓋骨を割って、粘液と腐臭に包まれた触手が何十本も出てきて、そうしてその触手で僕の心臓を一突きにする。身体中の血液を吸いつくされ肉を食べ尽くされ、骨だけになった僕はその辺に打ち捨てられる。きっとそういう感じなんだ。

 けれど。

 笑顔の消えた女の子の表情には孤独が映る。手には力が込められる。浮き出ている手のひらの筋肉と骨と青白い血管がなにかを伝えるように蠢く。ただでさえ白い首はさらに白くなっていく。

「けほっ、けほっ!」

 喉に掛かる圧力に対する反射で、女の子は空気の束を口から吐き出した。

 そのまま宙ぶらりんになった両手を今度は耳元に持っていく。そうしてそのまま耳を塞いでしまうと、僕だけにしか聞こえないような声で呟いた。

「……明日も、来ますから」

 それだけを言い残すと、女の子は立ち上がり階段を下っていった。まるでなにかから逃げ出すように。

 僕でもなく、この公園でもなく、もっと不鮮明で理不尽な大きな黒い塊から逃げ出すように。

 僕はため息をついて、女の子がしていたように自分の首を絞めてみた。そうするとやっぱり、ある程度の力を込めた段階で反射的にむせ込んでしまう。

 息をすることが決められてしまっているんだ、と思った。



 またクリームパンを買ってしまった。別に種類なんてなんだっていいし、そもそもパンにこだわらなくてもいいんだろうけど、コンビニに入って目の前にある様々な種類のパンをじっと観察していたらなぜかこのクリームパン以外が一切目に入らなくなってしまっていた。だから僕は諦めて自分の分のコロッケパンと缶コーヒーと、今日も来るはずの女の子のためにクリームパンを買い込んで公園に来ていた。

 どこかに迷い込んだのかもしれない。そう思ってすぐに否定したけれど、よくよく考えたらそれは正しいのかもしれない。僕はすでにどこかに迷い込んでしまっていて、そこから抜け出す方法を見失ってしまったんだ。もうこのまま迷い続けるしか道は残されていない。缶コーヒー片手に迷い続けるんだ、永遠に。

 そんなことを考えていると、女の子が階段を登ってくるのが分かった。この頃になるともう足音の響きだけで女の子かどうか分かるようになっていた。「じゃり、じゃり、じゃり」という靴底で砂を蹴る音が周期的に鳴る。一段一段踏みしめるように登っている。

 僕は努めて冷静にしていた。『首絞め』のことは頭の中に三十パーセントくらいだけ置いておいて、残りの七十パーセントはとりあえずどこかに捨てておく。缶コーヒーで喉を潤そうと思ったら余計に喉が渇くことに今さらになって気がついた。

 階段を登り終えた。そうして僕の元へと近づく。女の子はベンチに、僕の隣に座ると、

「こんにちは」

 と、いつもの挨拶。

「こんにちは」

 と、僕も返す。

「こんにちは」なんて随分と他人行儀な挨拶だ。「やあ」とか「よう」とか「うい」とか、そういう二文字だけで済む挨拶の文句が世の中にはあるのに、あえて僕らは「こんにちは」を使う。それが僕らの距離感で、僕らに許された挨拶で、そうして僕らの危ない綱渡りの象徴でもあるような気がした。

「食べる?」

 そう言ってクリームパンを差し出す。

「いただきます」

 そう言って僕の手から受け取る。

 ビニールの包装を開けて、もちゃもちゃと食べ進める。女の子のもちゃもちゃ音だけが夜の公園にゆっくりと響き渡る。眠くなるようなもちゃもちゃ音。このもちゃもちゃ音にはヒーリング効果のある周波数が出ているのかもしれない。

 やたらと丸い月を眺めていると、雨が僕の額を打った。しまった、と思う。傘もなにも持ってきていない。そう思って女の子の方を見たけれど、女の子はクリームパンにかじりついたままで頭上から降る雨なんて気にしてもいない。気づいていないだけかと思ったけれど、次第に強まっていく雨の中でもそうしていたので気づいていないわけではないらしい。

「家に、居辛いんですよね」

 クリームパンを食べ終わった女の子は、ぽつりとそう漏らす。

 それはきっと、『息ができない』ことの続きの話。

「まずなにから話せばいいか分かりませんし、そもそもこんなこと、お兄さんに話すのもおかしいですし。えっと、でもですね、話したいんです。えっと、まずは、なんでしょう。お母さんとお父さんが喧嘩をしているんですね。どうして喧嘩をしているのかっていうと、それがすごく難しい話なんです。色んなことが地層みたいに重なっちゃって、もうなにが発端だったのか、そうしてなぜ今も続いているのか、そんなものはもう、わたしには分からないんです。それでですね、お父さんとお母さんはいつも喧嘩しているんです。えっと、家にはテープがはられているんです。養生テープがです。緑色のです。はられているって、壁にペタペタ貼ってあるってことじゃなくて、テープで線が、家の中に張られているってことなんです。ここからはお父さんのスペース、ここからはお母さんのスペースって、そんな感じです。お父さんがお母さんのスペースに行くと、お母さんは怒るんです。怒鳴るんですよ。でも、逆だとお父さんはなにも言わない。舌打ちをするだけです。片方が見ていないときに、テープをこっそりずらして、自分のスペースが広くなるようにしたりもします。どっちも同じようなことをするんですね。でも、どちらも相手が同じようにそうしているって気づいていない。気づいているのはわたしだけなんです。『あいつ』には内緒だよって、二人ともそう言うんです。わたしはなにも知らない子どもで、わたしはなんでも親の言うことを聞く可愛い娘ですから。えっと、それでですね、そんなことを続けていたら、お父さんが家に帰らなくなりました。まあ当たり前ですよね。お母さんは喜びます。『あいつ』が寄りつかなくなってよかったねって。わたしはそうだねって答えます。お母さんが寝静まった深夜、お父さんはこっそりと家に帰ってきて、わたしの寝室をノックしてドライブに誘います。そうしてこう言います。『あいつ』のこと押しつけて悪かったねって。わたしはそんなことないよって答えます。いつもです。いつもいつもいつもいつもいつもいつも、わたしはそう答えます。大人は大人の喧嘩をするものだと思っていたけど、大人も子どもの喧嘩をするんですね。しかも、子どもよりも質が悪い。わたしは養生テープでバラバラに引き裂かれた家の中で、ある日こう思いました。息ができないなあって」

 女の子が言い終わる頃には、雨は本降りになっていた。髪の毛が濡れて頬に張りつき、体温は急速に奪われていく。重力を思う存分享受してストンと地面に向かう女の子の真っ黒な髪の毛は、雨を吸い込んで悲しく光っていた。

「ごめんなさい」

「どうして謝るのさ」

「突然こんな話して」

「まあ、急だったから僕もびっくりしたよ。でも謝ることじゃない」

 靴下に染み込んだ雨がたまらなく気持ち悪い。今すぐ温かい湯船の中に飛び込んでしまいたいと思う。

「今頃君は、君のお父さんとドライブの時間帯じゃないの?」

「お父さんは多分、なにかおかしいって気づいています。でもそれをお母さんに言うことはできない。だからわたしは、ここに何日も来れているんです」

 まあ、そう長くは持たないと思う。こんな夜中に一人で出歩いている小学生の娘のことは、きっと家庭内不和より何百倍も気にしているはずだ。娘が夜に出歩いていることにも気がついていないあいつになんて任せておけない。俺がなんとかしなくては。そう思うだろう。

 それなら、ちゃんと父親に見つけてもらった方が絶対に健全だし正しい。小学生の女の子が夜中に一人で出歩くなんてどう考えても間違っているし、それと家庭内不和はまた別の問題だ。

 そう思うし、それが正しいと考える。

 でも、そうなってほしくないとも思う。

「どうして話してくれたの?」

「えっ?」

「そんな話を」

「それは……」

 僕らの間の沈黙の時間は、降り続く雨が無意味に埋めてくれる。

「……どうしてでしょうね」

「僕じゃなくても、誰でもよかった」

「きっとそうなのかもしれません」

 そう言った後で女の子は、

「けれど、あのときあそこにいたのはお兄さんだった。そうして次の日も、その次の日もあそこにいたのはお兄さんだった。そうしてわたしにクリームパンをくれたのも、やっぱりお兄さんだった。そういうこと……なんだと思いますよ。誰でもよかったんだと思います。でも、あの日あそこにいた、ちょっとむすっとした顔の、わたしと同じく人づき合いがあまり得意ではなさそうな、どうやらわたしに興味があるらしい、でもそれを表情や言動には出さずクリームパンという方法でわたしに示した、そういう男の人は、お兄さんだったんです」

「なんかちょっとバカにしてない?」

「まさか。そんなことはありませんよ」

「ならいいけどさ」

 うれしいと思う。僕ではなく誰でもよかったとしても、あの日あの場所にいて、クリームパンという行動を取ったのは紛れもなく僕だから。

 僕は少し考える。その後で、

「僕の名前は、ユヅキユウト」

「え、あ、名前ですか」

「うん。ユヅキ、ユウト」

「ユヅキ、ユウト……ユヅキさん」

「ユウトでいいよ」

「じゃあお言葉に甘えて……ユウトさん」

 女の子は確かめるように呟く。

「君の名前も教えてほしい」

「わたしの、名前……」

「うん」

 このまま永遠に雨が降り続いて地球が水没してしまうんじゃないかと思った。むしろ、水没してくれたほうがいいような気もする。そんな土砂降りの世界の中で、女の子は目を細め、口元を緩ませて笑う。

「わたしの名前は――」

 叩きつける雨の音に混じって、その名前は僕の耳にだけ届く。座っているベンチにも、小さな池くらいの大きさになっている濁った水たまりにも、新緑の葉をつけている大木にも、そうしてこの夜の公園にも届かなかった。僕の耳にだけ届いた名前。

 きれいな名前だ、と僕は思った。梅雨が明け、太陽の光が地面に燦々と降り注ぐ季節になったとき、僕はその名前を口にして彼女を呼んでみたいと思った。

「これで僕たちは、お互いがお互いについて知っていることが、たったの一つだけ、また増えた」

「……ふふ、その通りですね。たったの一つだけ、ですね」

 本当に、たったの一つだけだ。



 傘を差しながら階段を登って気づくことは、周りの木々の枝によくぶつかるということだけだった。

 梅雨が明けない。そうして今日一日規則的な雨の音が止むことは、ついに夜になってもなかった。靴を泥まみれにしながら僕は歩いて、公園のベンチの前に立ってレジ袋からメンチカツパンを取り出し食べる。油とソースを吸い込んでふにゃふにゃになったメンチカツパンは、メンチカツとしての価値もパンとしての価値もすでに失ってしまっていた。けれど不思議なことに、メンチカツパンとしての価値はあるのだ。ふにゃふにゃの、メンチカツの価値もパンの価値も失われたメンチカツパンが、なぜか一番美味しい。

 そうしてやっぱり缶コーヒー。

「わたしの分はありますか?」

「平気で人にたかるようになったね」

「信頼しているんですよ」

「物は言いようで――」

 振り返って、僕は呆れた。雨が降っているのに傘も持たずに女の子は公園に来た。

「傘って知ってる?」

「知ってますよ。雨から濡れるのを防ぐために使う道具です」

「ならぜひ傘を持ってきて、そうやって使ってほしかったんだけど」

「そういう気分だったんですよ。雨に濡れたい気分」

 風邪を引いても知らないぞ、と思った。けれど僕にだって人の心というものが一応は備わっている。いくら濡れたいからと本人が言っていても、はいそうですかと了解してそのまま雨に打たらせておくことはできなかった。僕は傘の中に女の子を入れてあげる。そうすると女の子は少し笑っただけで、別になにも言いはしなかった。

 クリームパンを渡して、また飲み物を買いそびれた、と思った。

「僕の飲みかけの缶コーヒーでよければ」

「コーヒー好きじゃないんですよ。というか、よくそんな苦いもの飲めますね」

 そう言って女の子は、僕の買ってきたクリームパンにもふもふとかじりつく。

「僕から言わせてもらえれば、そんな甘いものを飲みものもなしでバクバク食べられる方がどうかしてると思うけどね」

「わたしたちどっちも、ある意味ではどうかしてるのかもしれませんね」

 そうかもしれないと思った。

 ベンチに座る。尻が濡れる。けれどそれは十秒で慣れた。女の子は初めから気にもしていないようだった。そりゃそうだ。さっきまで全身ずぶ濡れだったんだから。

 傘は小さくて、女の子と僕がその下に収まるには肩を寄せ合うほかなかった。七月の、梅雨の、夜中の、公園の、ベンチで、小学生と高校生が一つの傘の下で肩を寄せ合って、パンを食らっている。そういう状況が発生していた。なんとも形容しがたい状況だと思う。

「ふーふぉふぁん」

「ユウトさん」

「ふぉふぉふぁふぁ」

「ここから」

「ふぃふぇふぁふぉー」

「逃げましょー」

「んくっ……当たりです」

「食べ終わってから喋りなさい」

「食べ終わってから喋ってますけど」

「さっきまでの話だよ」

「それで、返事は?」

「返事?」

「はい。返事ですよ」

 なんのことだ?

 そう思って、僕は先ほど翻訳した女の子の未知言語を、もう一度頭からなぞってみた。

 ユウトさん、ここから、逃げましょー。

 もう一度、今度は声に出してみる。

「ユウトさん、ここから、逃げましょー……」

「ここから逃げませんか、ユウトさん」

 僕の言葉に被せるように、女の子はそう言った。

 言葉を言葉として、脳が上手く処理をしてくれない。区切られた言葉が頭を彷徨っているけれど、それが一つに繋がって、そうして意味を持ったものになってくれない。ユウトさん、ここから、逃げましょー。その意味がなぜか理解できない。言葉と言葉の繋がりがぐちゃぐちゃに撹拌されてしまっている。逃げる、ここから、ユウトさん、僕の名前、ここから、逃げる……。

 しばらくその言葉を反芻する。そうしていると、意味が明瞭になってくる。

 ここから、逃げる。

 この公園から逃げる?

 違う、そうじゃなくて……。

 ……この現状から、逃げる。

 そういう意味だ。

「ここから逃げませんか、ユウトさん」

 ごく自然に、「今日のお昼ご飯はハンバーガーを食べませんか」くらいの温度で女の子はそんなことを言ってくる。僕は二、三度大きくまばたきをしてから、深く息を吸う。

 けれどその息が吐かれることはなかった。

『逃げよう』

 脳内で作り出したそんな言葉は、確かな形になることなく霧になって消えていった。僕は真剣な、けれど少しとぼけている、そんな女の子の顔を、肩と肩がぶつかっている至近距離で見つめ続けていた。

雨が降っていた。逃げ出すにはうってつけの天気だと思った。雨の音が僕らを隠して、誤魔化してくれるから。

「ダメだよ」

 僕は言う。

「そんなの、ダメだ」

「どうしてでしょうか」

「誰も許してくれない」

「誰が許してくれないんでしょうか」

「君の両親とか、学校の先生とか、警察とか、司法とか、常識とか、倫理とか、そういったものが」

「どうして許しを得なくてはいけないんでしょうか」

「それは……この世界が、そういう仕組みで、そういう了承のもと動いていて、社会というものが形成されているから」

「なら、そんなもの壊しますよ」

 女の子は言う。

「壊して逃げます」

「できない」

「できますよ」

「できるわけがない」

「できるんです」

 みんなそうなんだ。自分にはできると、この理不尽を、この束縛を粉々に破壊し尽くすことができると思い込むんだ。かつての僕だってそうだった。けれどそれは、単なる妄想に過ぎない。理不尽は理不尽のまま僕たちを締め上げ続け、僕たちはいつかその痛みや苦しさに慣れてしまう。理不尽はルールになるんだ。父親と母親の両方にいい顔をすることに慣れて、いつしかそうすることがルールになる。

 女の子の理不尽も、そうして束縛も、いつかは慣れて、それが当たり前になる。ルールになる。

「そんなことをしたら、君は一生後悔する。そうして絶望するはずなんだ。理不尽からは、束縛からは逃れることができないという現実に、きっと絶望する。なら、慣れてしまえばいい。慣れればいいんだ。それを当たり前にすればいい」

「逃げることはできます。もううんざりなんです。一生かかっても慣れることなんてできません」

「逃げることはできない。慣れることはできる」

「机上の空論ばかり振りかざさないでください」

「君もすぐに分かる。僕の言いたいことが」

「……もういいです、もういいですよ!」

 女の子は立ち上がった。そうして走り去る。僕はため息をついた。

「……後悔するだけだよ、本当に」

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