東の飛行場の少女 3/3
夏の街の西側には海が広がっていて、東側には山がある。山の上には打ち捨てられた飛行場があって、そこには表情に乏しい、夏なのに肌をすっぽり隠している、とろとろとした喋り方をする、そういう女の子がいる。そうして僕らはその女の子に用がある。なぜかというと、その女の子ははぐれた猫たちを探していて、僕らはその捜索を手伝っているからだ。奇妙奇天烈な名前のついた猫たちの捜索の手伝い。僕がいない間にすでに五匹、マッカートニーとシロとピカソと富嶽とジョージはクリームとソラの二人で見つけたらしい。ちなみに僕が虫取り網で捕まえた猫も、網に絡まったままだったところを二人が見つけてくれたという。その子の名前はシロ。当たりだった。
というわけで、僕らは東側に用がある。西側には用なんて一つもありはしない。
わけなのだが。
「ねえ、クリームさん」
クリームという名前の人間なのか機械なのかクラゲなのかUMAなのか定かではない物体と僕は歩いていたわけなのだが、その物体が民宿『夏休み』を出て歩いた方角はなんと西。まあ小学生だから西と東を間違えることだってあるだろう。僕だって小学生のときに東は右、西は左という覚え方をしていたせいで理科の実験のとき方位磁針が右を西と指し示して混乱したことがある。だからまあ仕方ない。クリームは飄々として落ち着いているから時折忘れそうになるが、まだ小学生(恐らくだけど)なのだ。西と東を間違えることだってあるはずだ。
「そっちは西。僕たちの目的は東」
「そうですね、確かにわたしたちの目的は東です」
なんだ、ちゃんと分かってるじゃないか。
「そういうこと。それじゃあこっちに来ようか」
「クリームパ――」
「なんのことだかよく分からないな」
残念ながら僕はクリームパなるものを存じ上げない。そんなもの知らない。
「ソラちゃんの好きな食べ物はくるみパンらしいですね」
「へえ、そうなんだ」
「いいですよね、くるみパン。わたしも好きですよ。美味しいですよね。クリームパンとはまた違った、くるみのほのかな甘みがいいですよね」
「そうだね、僕も美味しいと思うよ」
「ソラちゃん言ってたじゃないですか。ユウトさんが買ってくれるんだってワクワクしてたじゃないですか」
「覚えてないね」
「意地悪ですね、ユウトさんは」
「覚えてないものは覚えてない」
「もう、ユウトさんは――」
そう言いかけて、クリームはふらつきその場に倒れ込んだ。
「え、ちょ、ちょっと!」
慌てて駆けつける。夏の日差しにやられたのかもしれない。地面は熱を吸って暑くなっているから早く身体を起こして、そうしたらまずは水分補給――。
なんてこと考えていたけれど、いざ駆けつけてみるとクリームはうずくまりながら必死に笑いをこらえていた。
つまり、そういうこと。
「はい、負け」
「それは卑怯だよ」
「あはは、ごめんなさい。でもユウトさんが強情なんですもん。ほんとは買ってあげるって、そう決めてたくせに」
「そういうこと言うから強情になるんだよ」
「天邪鬼ですね」
「勝手に言ってろ」
相変わらず可愛げのないやつだ。
クリームはむくりと起き上がって、うんたら商店に向かって駆けていった。僕もその後を追う。
ほにゃらら商店の中は今日も時間が止まっていた。無人で音一つなかった。クッキーの空き缶がレジの代わりで、中には「お金はここに」という紙が置いてあった。そうして百円玉が十一枚すでに入っていた。数日ぶりに来たのにも関わらず、以前僕が入れたと思われる百円玉八枚と、それ以前からあった三枚の百円玉はそのままだった。やっぱりこの商店には来客もなければ店主なんて人もいないのかもしれない。
そう思ったけれど、僕が買った缶コーヒーの分はちゃんと補充してあるし、クリームが食べた分のクリームパンもウミが食べた分のカレーパンも補充してあった。パンの消費期限をいくつか手に取って確かめてみたけれど、どれも期限が切れてはいない。
誰もいない、ということではないらしい。いつかここの店主に会ってみたいものだ。しかし一体どうやったら会えるのだろう。なにか裏技があるのかもしれない。
例えばクリームパンを百個買う、とか。
想像しただけで鳥肌が立ってしまった。
「恐ろしい恐ろしい」
「なにがですか?」
「こっちの話」
「そうですか」
数日ぶりの来店とはいえ、買うものに大きな変化はない。僕が飲む缶コーヒー、クリームが食べるクリームパン、そうしてソラにあげるくるみパン。
カレーパンの次はくるみパン。
全部僕のポケットマネー。
クッキーの空き缶の中に百円玉を三枚入れる。チャリンと音が鳴る。これで缶の中には合計十四枚の百円玉が入っている。きっと明日もそのままだ。そうして僕はまたそこに百円玉を入れる。きっとそうなる。
「ふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁ」
「え、なんだって?」
「ふぇふぇふぇふぇふぇふぇふぇふぇ」
「だから、なんだって?」
「ふぉふふぉふふぉふふぉふふぉふふぉ」
「……分からん」
クリームの使用するクリーム語を完全に理解し翻訳できると自負していたけれど、今回ばかりはできなかった。ついに僕もクリーム語の翻訳業を廃業するときなのかもしれない。
「んくっ……今日は不調ですね」
「日が空いたからかもしれない」
「多分そうじゃないですよ」
クリームは東側、飛行場がある方向へと歩みを進めながらこう言う。
「だってわたし、今日は適当言ってましたから」
「……そういうところだよ」
「どういうところですか、おにーたん」
「だからそういうところだ!」
相変わらず、本当に、まったく、どう考えても、可愛げのないやつだ!
先に行ったクリームを追いかける。そうするとすぐに追いつく。クリームは楽しそうにけらけらと笑う。それを見て怒ってやろうと思っていた内側の僕はすぐに鳴りをひそめる。ため息だけが口から出る。
本当に仕方のないやつだ。
傾斜を歩き石段を登る。ずっと外に出ずに部屋の中で横になって過ごしていたからか、いつも以上に疲れが身体を襲う。先に行って僕を煽り散らかすかと思っていたクリームは、僕のスピードに合わせてゆっくりと登ってくれていた。辛辣で煽ってばかりかと思ったら、こういうところでは少し優しさを見せる。一体なにを考えているのかさっぱり分からない。
飛行場へのけもの道を進み、コンクリートの畑に出る。そこにはソラがいた。ソラが空に手をかざしていた。
神秘的な光景だと思った。このまま背中から真っ白な翼が生えてきて、そうしてそのまま、どこまでも青い空に溶けるように飛んでいっても僕は多分驚かないと思う。
むしろ、コンクリートに足をつけて空を見上げている、その姿の方が僕には歪に見えた。
「空を見ていたんですか、ソラちゃん」
クリームがそう言うと、ソラはこちらに振り向く。もちろん真顔。
「ぼくはそらをみていたよ」
「空、きれいですもんね」
「うん。そらはきれい」
「おはようございます、ソラちゃん」
「おはよ、くりーむ。ゆーとも、おはよ」
「おはよう」
ゆったりとしたおはようの連鎖。
「ソラ、これあげるよ」
「わ……」
僕は買ってきたくるみパンをソラに差し出す。ソラの好物。
「ありがと。たべていい?」
「どうぞ」
「いただきます」
ビニールの包装を開けて、ソラはくるみパンにむふっと噛みついた。そうしてそのまま口だけを動かしてむふむふ食べ進める。なんだか、そうやって餌を食べる動物の映像をどこかで見たような気がする。一体どこで見たのか、そうしてどんな動物だったのか、なにも覚えてはない。気がするってだけの話だ。
ソラがくるみパンに噛みついてむふむふ言っている間、僕は飛行場を改めて見渡してみた。どこまでも続くコンクリートの畑。まあ畑と言ってもなにも植えられないし、なにも生えてこない。滑走路に等間隔で引かれた白線はその意味を成さず、奥にある二階建てのターミナルにも錆色が浮き出ている。なんとか空港、なんて名前がついていたのだろうけど、それを示すものはどこにも見当たらない。看板とか、そうでなくとも普通はターミナルの正面にでかでかと○○空港と書いてありそうなものだけれど、そういったものは一切なかった。空港が廃止される際に一緒に撤去されたのかもしれない。なぜわざわざそんなことをするのか見当もつかなかったけれど、きっと色々と事情があるのだ。僕らは与り知らぬことが。
「けっぷ」
僕の百円もといくるみパンは、僕が廃止された空港について思いをはせている間にソラの体内へと吸収されていった。さよならくるみパン、君のことは忘れない。
「ふゃ」
ふゃ。
不思議な声がした。
その声のする方、足元へと目を向ける。
猫がいた。
そいつの名前は……シロ。
僕が虫取り網でぐるぐる巻きにした、あの猫。
「ふゃ」
ふゃ。
不思議な鳴き声を発しながら僕の足元に身体を擦りつける。あのときは全力で逃げようとしていたくせに、今はもう完全に人に慣れてしまっているようだ。というかソラが探しているって言っているのだから、元々飼い猫だったのかもしれない。なら慣れているのも頷ける。
「おーよしよし――」
そう言いながら撫でようとしたら、上手い具合に身体をそらされて避けられる。もう一度試みるもまた避けられる。けれど僕の足には擦り寄ってくる。もう一度。避けられる。もう一度。避けられる。もう一、避け――
「この……誰が捕まえてやったと……」
恩義もなにもないのかこの畜生は。そう思ったけれど、畜生だからこそ恩義もなにもないのだと思う。
「動物って、人間の本性を見抜くって言われていますよね」
捕まえたという五匹のうち四匹、富嶽とピカソと……あと、えっと、あと他二匹。その四匹は、クリームとソラの足元でグルグルと回りながら身体を擦りつけている。二人が手を伸ばしてあごを撫でても僕のときのように避けられるなんてことはなく、猫たちは素直にその手で撫でられていた。
「ソラは元々猫と面識があるからいいとして、クリームだって僕が動けない間猫たちに会っていたんだ。そりゃあ僕よりも懐くのは当たり前だよ」
「負け惜しみですか」
「客観的事実だ」
今に見てろ。この遅れは数日で取り戻す。
そう思いもう一度シロに手を伸ばしたけれど、やっぱり避けられた。道のりは険しいのかもしれない。
僕が一匹、クリームが一匹、そうしてソラが二匹だった。
なにがって言うと、今日の新着猫捕獲情報。
名前はリンゴとミケと……他二匹。
そう、リンゴとミケと他二匹。
「今日はこの辺りにしておこう」
本当は僕の体力がもう持たないから止めにしようと言いたいけれど、僕にだってプライドはある。ソラはうんと頷いたけれど、クリームは僕の隣でにやにや笑っていた。すべてお見通しらしい。
「残りは……ごめんソラ、残りは?」
「あとはくろとちょこ。どっちもくろいけなみ」
「残すところ後二匹か……」
まあ僕が見つけたのは二匹だけだけれど。ほとんどはクリームとソラの二人に任せっきりだった。
後二匹。どうなるかは分からないけれど、早く見つかってくれればいい。
……それと同時に、僕があえて頭の中で考えないようにしていたとある事柄が、徐々に芽を出し始めていることにも気がついていた。
けれどそのときまで、その最後の瞬間までは知らないふりをしたい、と思う。
『それらはすべて、一つの線で繋がっている』
皿洗いと掃除を終えて夜、僕の部屋にはクリームがいた。クリームは今日も昨日と同じく、なぜか一時間近くも僕の部屋に居座っている。「なにかあるんでしょ」と訊くと、「あると言えばユウトさんが面白い顔をするのは知っていますが、残念ながらなにもないんです」と答えた。
意味が分からない。別に面白い会話なんてしないし、僕は部屋にあるテレビを見て、クリームだって一緒になってそれを見ているだけ。そうしてたまにテレビの内容について、例えば美味しそうな食べ物だったり、景色がきれいな観光名所だったり、かわいらしい動物の映像だったり、そういうことについて一言二言会話を交わしたり、あるいはいつもみたいにクリームが軽口を言って僕がそれに答えたり。それだけだ。
もしかしたらクリームはただ、僕と一緒にいたいだけなのかもしれない。
……なんて考えて、すぐに思考を追い出す。
んなわけあるか、こいつが。
チョメチョメ商店のクッキーの空き缶の中は百円玉が合計で十四枚になった。元からあったのが三枚、僕が入れたのが十一枚。もうそんなに使ったのかと思ってため息をついた。クリームパンは後九十五個。長い道のり。
「ゆーと、くりーむ」
いつもの飛行場、いつものソラ。昨日も今日も変わらない。
けれど、明日も明後日も変わらないとは限らない。
今日も今日とて猫捜索。怪我が完治したばかりで山の中に分け入るのには少し抵抗があったが、すぐに慣れた。人は慣れる生き物なんだ。
クロとチョコを探しながら、僕は何気なくズボンのポケットに手を入れてみた。なにも入れていないはずだったのに、手にはなにかが触れる。
「あれ、なんだろ……」
取り出して見てみる。
バラバラに砕け散った、緑色のシーグラス。
お守りだって言って、ウミが僕とクリームに手渡してきたもの。
「……助かったよ、ウミ」
これがなければ、僕の命はなかったかもしれない。
僕はどこかにいるはずのウミに感謝をした。
三時間ほど捜索をしたけれど、僕は猫たちを見つけることができなかった。けれどソラが一匹、毛並みの黒い猫を見つけた。名前はチョコ。というわけで、あと残っているのはクロだけになる。
まあ、すぐに見つかるだろうな、という考えがいけなかった。
クッキーの空き缶の中には百円玉が二十六枚になった。クリームにお供えするクリームパンの残りは九十一個になった。
つまりあれから、四日の月日が流れた。
「元から猫は九匹だったってことはない?」
僕がそう訊くと、ソラは首を横に振る。
「ちゃんと十匹」
あるいは、もうすでにどこかで――。
そう考えたけれど、口には出せなかった。その可能性をずっと否定しながら、僕らはクロの捜索を続ける。
けれどその日も、クロを見つけることはできなかった。
そんな四日目の夜。
最近クリームはよく僕の部屋にいる。ずっと、何時間も。なにが楽しいのか分からないし、なにが目的かも分からない。
テレビでは有名な観光名所特集をしていた。最近よく見る、勢いだけが取り柄の面白くない芸人がもみじ饅頭を食べてオーバーリアクションをしていた。それを見て「美味しそうですね」とクリームは言う。「あんこも食べるの?」と僕が訊く。「もちろんですよ」とクリームは返す。
そういう種類の、昨日もしたような会話をしていると、
「クロ発見、いますぐ来て」
と、クリームが突然言う。
テレビのことかと思った。『クロ』というなにかを探すドキュメンタリー番組が始まっていて、それを見つけたアマゾン奥地に住む原住民が番組クルーに対して現地語で言うのだ。「クロ発見、今すぐ来て」って。
そう思ってテレビを見るけれど、相変わらず観光名所特集をしていたし、今度は芸人に代わって名前も知らない女優さんがたどたどしくもみじ饅頭の食レポをしていた。ドキュメンタリー番組なんて始まっていないし、アマゾン奥地に住む原住民も映っていない。
「一体なんの――」
そう言いかけて、クリームが折り目のついた紙を手にしているのが見えた。折り目から推測するに、元は紙飛行機になっていたのだと思う。きっと窓から入り込んできたんだ。
そうしてその紙には、こう書いてある。
「くろはっけん、いますぐきて」
ソラだ、とすぐに気がつく。
「だ、そうですよ」
「こんな夜中にまで探してるのかあいつは……」
窓から乗り出して夜の中に顔を出す。花火をしたときと同じように、そこにはソラがいた。普段の真顔は少し崩れ、顔には焦りと緊張と安堵が混じったような表情が浮かんでいる。僕の顔を確認すると、山の上を指差して走って先に行ってしまった。
「行こう、クリーム」
「はい」
僕らは飛行場を目指して、夜の夏の街の中を駆けた。
連日の猫捜索のおかげか、それとも民宿『夏休み』での仕事の成果か。真相は分からないけれど、いつもなら石段を登り切る頃には上がっている僕の息は、今日は途切れることはなかった。けもの道を抜けて飛行場へとやってくる。月の光を吸収して薄く発光しているだけの滑走路、僕らを見つけて駆け寄ってくる数匹の猫たち、そうして奥の方でしゃがみ込んでいるソラの姿。
僕らはソラに近寄る。そうすると猫たちは僕らの進行を邪魔するように足元にじゃれついてくる。猫たちを蹴っ飛ばさないように注意しながら、しゃがみ込んでいるソラの元へとやってくる。
「ソラ」
黒い毛並みの子猫。コンクリートの上に寝転がってお腹を丸出しにしている。ソラが撫でてあげるとゴロゴロと喉を鳴らしていた。十匹の中で一番身体が小さい。まだ子猫だ。
「くろだよ」
ソラは十匹の猫を探していた。普通の名前と変な名前が半々の猫たち。この飛行場で、ソラはその猫たちを探していたんだ。
そうして今、最後の一匹が見つかった。
……そこから先は?
猫は見つかった。
じゃあ、そこから先は?
猫を見つけたら、ソラは一体どうするって言ってたっけ。そもそもソラはどうしてここにいたんだっけ。この飛行場に、この山に、この夏の街に、一体どうしていたんだっけ。
身体中に悪寒が走る。気づかないようにしていたことに気がつく。
トリガーが今、引かれた。
「ソラ」
ソラはクロのお腹を撫で続ける。クロはうれしそうに身をよじっている。どこからどう見たってそれは微笑ましい光景のはずなのに、ずっと探していた猫たちが揃った瞬間だっていうのに、僕たちにはまるで温度の低いヘドロのようなものが張りついているようだった。
「ゆーと」
ソラはクロを撫でていた手を止めると立ち上がり、僕の方に向き直った。相変わらずの真顔で、でもちょっとだけうれしさが頬に宿っていて、けどいつもならじっと前だけを見る目は泳いでいて、もうそれだけで、僕はこれからソラが一体どうなるのかということが嫌でも分かってしまう。
「ダメだ、そんなの」
僕がそう言うと、ソラはゆっくりと首を横に振った。
「『きまり』だから」
『決まり』なんだ。
全部、なにもかも、どうしようもなく、『決まって』しまっている。
ウミが死ぬこと。
そうして、ソラが死ぬこと。
お友達のお葬式。十匹の猫。
トリガー。
「おかしい、絶対におかしい。意味が分からない。本当に意味が分からない。どうしてなんだよ。ねえ、どうしてなんだよっ!」
死ぬことが『決まって』しまっている人なんて、この世に存在していいはずがない。ましてや死ぬべき人でも、死にたい人でもない、シーグラスを拾って、猫を探して、昨日まで普通に過ごしていた、そういう普通の女の子の死が『決まって』しまっている?
意味が分からない。あまりにも理不尽だ。
「たのしかった」
「違う、ソラが言うべきセリフはそんなんじゃない……」
「じゃあ、なに?」
「それは――」
「――しにたくないって、いえばいいの?」
呼吸が止まる。
「そう、いえば……たすけてくれるの?」
「僕は、ただ――」
「たすけてくれる?」
「僕、は――」
「たすけて、ゆーと」
なにも言えない。
言葉が分からない。僕はこの場でなにを言えばいいのか分からない。張り裂けそうな心臓の音だけが夜の闇の中で響き渡る。
ソラは僕に詰め寄った。僕は反射的に一歩後ろの下がりそうになったけれど、ソラがそれを許さない。僕の背中に手を回すと、そのまま僕の身体を抱き寄せた。ちょうど僕の胸の辺りにソラの頭が来る。
「……ううん、うそだよ」
ウソなんかじゃない。
「ねえゆーと、ぼくたのしかった」
その言葉もウソじゃない。そうして、死にたくないって言葉も、ウソじゃない。
ご主人様を取られたクロは不機嫌になって僕の靴に噛みついていて、他の九匹も僕とソラの足元だったり、クリームの足元だったりに思い思いに集まっていた。にゃあにゃあと忙しなく鳴き続け、構ってほしいとアピールを続ける。
けれど僕ら三人はそれを無視し続ける。僕は同じようにソラの背中に手を回して、ほんの少しだけ、本当に少しだけ力を込めた。暑苦しいだけの夏の温度とは違った、心地のよい温かさが全身を包み込む。
「たのしかった」
「……うん」
「うそじゃない」
「知ってるよ」
「たのしかった」
「分かってるって」
「ほんとうなの。ほんとうにたのしかった」
「……」
まるで自分に言い聞かせるように、ソラはそう言い続ける。
「うみちゃんとおなじところにいくよ」
「――! ウミのこと、知ってるの?」
「うん、しってる」
二人に面識なんてなかったはずだ。いや、僕が知らなかっただけなのかもしれない。この夏の街は結構狭いし、二人が顔見知りでもなんらおかしい話ではない。
けれどそう思ってすぐに、
「同じ、ところ……」
同じところ。それは恐らく、天国。
ウミが消えてから数日が経った。その間、僕の耳に女の子の失踪事件の話が入ったことなんてあっただろうか。山の上にあるくぼみにシーグラスにまみれた人骨があったなんて話を、僕はあれから一度でも聞いただろうか。
聞いてないんだ。そうして、そういった話を聞く機会すら僕にはなかったように思う。
この街に来て何日が経っただろう。その間、ウミと、ソラと、そうしてハツミさん以外の街の人間に、僕が会ったことって何回あっただろう。なんとか商店の中に入って、店主の人がちゃんと店番をしていたことは? 午前中外を出歩いて街の人とすれ違ったことは? 民宿『夏休み』に昼ご飯を食べに来る木こりや漁師の姿を見たことは? 声を聞いたことは?
一度たりともなかった。
一度ですらないんだ。街には民家がいくらでも建っている。建っているんだから人間が暮らしている。そのはずなんだ。全部が全部空き家なんてことはない。この街にウミとソラとハツミさん以外の人間以外いないなんてことは絶対にありえない。
でも僕は、そのいるはずの人間の気配ですら感じ取ったことがなかった。
「じゃあね、ゆーと」
ソラはそう言うと、僕の目を見て笑った。
そうして気がついたときには、ソラの姿も、そうして十匹の猫の姿もなくなっていた。跡形もなく、まるで初めからそこにいなかったかのように消えてしまった。僕が感じていた心地のよい温かさもすぐに消えた。
コンクリートの上には僕と、そうしてクリームだけがいる。僕がクリームの方を向くと、クリームも僕の方を向いた。そのまま数十秒間無言で見つめ合う。涼しい夜風が僕らの間を流れていき、さっきまでは聞こえなかったはずの虫たちの鳴き声の波が一斉に押し寄せる。
「クリームも…………死ぬの?」
「……」
クリームは答えない。俯いて、口を一文字に結んでいる。
「答えてほしい。クリームが死ぬことも、決められているの?」
「……」
クリームは答えない。僕はもう一度、
「クリームが死ぬことも――」
「違います」
僕の言葉を遮るようにして、クリームは言葉を被せた。その後でまた数十秒間僕らの間には沈黙が横たわった。どうしようもなく時間が過ぎていって、どうしようもない息苦しさだけが降り積もる。
「ユウトさん、です」
「えっ?」
「死ぬことが『決まって』いるのは、ユウトさんの方です」