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スマイル  作者: レミィ
5/12

東の飛行場の少女 1/3

 夢を見ていた。

 悲しい夢。けれど悲しいだけじゃない、楽しくもあった。

 すごく不自由で、そうしてすごく自由でもあった。

 涙が溢れ、けれど笑ってもいた。

 そんな夢を見ていた。

誰かが僕の隣にいる。笑っている、泣いている、悲しんでいる、楽しんでいる。そんな人が僕の隣にいた。どうしようもなく存在していた。確かに生きていた。

 その人は、ずっと折り畳んでいた小さな羽を存分に伸ばす。薄汚れてしまったそんな羽を……。



「新聞?」

 ハツミさんは疑わしそうに僕の目を見た。

「はい、新聞です」

「なにに使うんだい?」

「そりゃ新聞なんだからもちろん読むんですけど」

「……ほら」

 今日の朝刊を渡される。

「あ、ありがとうございます」

「……あいよ」

 それだけ言うと、本日十四本目のタバコを吹かしながら二階へと上がっていく。まだ朝の八時だっていうのに、あの人の肺の中はもうすでに煙で充満しているらしい。あれが健康で長生きをする秘訣なのだろうか。世の中分からないことだらけだ。

 もらった新聞を部屋に持っていって広げ、地方欄を隅から隅まで読み込む。最高気温が五十何年ぶりに更新されただとか、どこそこの小学生が側溝にはまったおじいさんを助けて表彰されただとか、とあるゴールデン番組で地元の特産品が紹介されただとか、そんなニュースが書いてある。

 けれどどこを見渡しても、こんがりと日焼けをした少女の行方不明事件についても、死亡事件についても、東の山にシーグラスまみれの人骨が落ちていたという話も、一文字たりとも書かれてはいなかった。

 僕は新聞を部屋の隅に投げ捨てて頭を抱えた。分かっていたことだけど、改めてこうして目の当たりにすると苦しい。ウミが死んだということは恐らく、僕とクリームしかまだ知らないんだ。ウミの両親もまだ知らない。警察が動いているのかどうかは分からないけれど、それだって時間の問題だと思う。

 けれどいくら捜索をしたところでウミが見つかることはない。ウミは消えたから。パッと、まるでスイッチを操作して照明をオフにするように、一瞬で消えた。

「やっぱり、納得はいかない。それだけはどうしても」

 クリームが隠していること。

 それを知ると、ウミが消えたわけ……『決まり』についてなにか分かることがあるのだろう。

 けれど、今は頭の片隅に置いておくだけにする。あまり言いたくはないようだったので、無理に訊き出すつもりはない。きっと後になればすべて分かること。今は天国に行ったウミの幸せを願うだけだ。

 朝食を済ませ、今日も紛れもなく今日で暑くてセミでアスファルトで、そんな世界に僕らは降り立つ。なんとか商店とは反対、東の方角を目指して進んでいく。

「今日も暑いですねー」

 と、クリームが言う。

「暑い」

 と、僕が言う。

 雨の一滴も降らなければ、雲の一つだって僕らを覆わない。今日も青。いやになるくらいに青。どうしようもないほどの青、青、青。昨日も今日も、そうして恐らく明日も。

 段々と傾斜がきつくなっていく坂を歩き、石段を登る。そうすると昨日のように拓けた場所に出た。

「確か、こっちでしたね」

 クリームの言うまま脇道に入り右に左に進んでいく。そういえば、と思い左腕を見ると、昨日この道で枝に引っかかれてついた傷はもうすでにかさぶたになっていた。

 何度右に曲がったか分からないし、何度左に曲がったか分からない。けれど何度目か右に曲がったとき、僕たちはその場所に辿り着いた。

 樹木に隠された場所。太陽の光が届かない場所。くぼみに人骨があった場所。今はシーグラスまみれの人骨があるべき場所。そしてウミが消えた場所。

 くぼみにはシーグラスがあった。人骨は見えない。けれどこの下に埋まっているはずだ。

 そうして、ウミはいない。当たり前だ。だって死んだんだから。

 僕は手を合わせる。ウミの友達の分と、そうしてウミの分も。セミの鳴き声どころか、その瞬間だけはなに一つとして音が生まれなかった。怖いくらいの静寂。

「……じゃ、どうか幸せに」

「案外すぐ、新しく生まれ変わるかもしれないですけどね」

「輪廻転生ってやつ?」

「そういうやつです」

 まあ確かに、ウミが大人しく天国で悠々自適に暮らしている様は想像できない。我先にと地上に降りてきそうだ。

「じゃあ、また地上で会ったらよろしく」

「会えるでしょうかね」

「まあ、多分無理だと思うけどね」

 何十億人と人間が暮らしている世界で、僕とウミが偶然にも出会うことなんてきっとないと思う。それこそ奇跡ってものでも起こらない限りは。

「じゃあ、そろそろ行きますか」

「そうだね」

 いつまでもここにいたってしょうがない。しんみりしてしまうし、ウミだって僕らのそんな姿はきっと望んじゃいない。

 立ち上がる。どうかこの場所が一秒でも長く誰にも見つからないようにと願いを込めながら、来た道を戻る。といっても、完全に道案内はクリーム任せだ。記憶力に関しても僕よりもクリームの方に分があるらしい。肉体だけでもなく頭脳でも負けている。やっぱりクリームパン九十六個恵むことになりそうだ。

 もう一度拓けた場所に来た。

 拓けた場所に、来た。

 ……まただった。

 また、そうだった。

 女の子。

 女の子が、ウミじゃない別の女の子が、かつてウミが僕たちの前に現れたときのように、その女の子もまた、僕たちの前に現れた。

 夏だっていうのに、両腕はオーバーサイズのブラウスの中に収まって、スカートから伸びる足はストッキングに包まれている。僕らの方をじっと見つめたまま固まっている。僕とそんなに年は変わらないように見える。セミがうるさい。この空間では音は響くようだ。あの空間だけが特別だったんだ。

 また、またこんな出会い方をする。

 因果。

そう思う。

きっと繋がっているんだ。僕も、クリームも、ウミも、そうしてその女の子も。もしかしたら、この夏の街も。全部繋がっているんだ。それらはすべて一つの線で繋がっている。決して単体で浮遊しているわけではなくて、お互いがお互いに緩く干渉し合い波を起こしている。

「あ」

 あ。

 女の子がこぼした声。

 どうしようもない。どうしようもなくなって、僕は女の子がわずかに開いた口の形を見ている。

「そら」

 そら。

 女の子の口から紡がれた二文字は、不思議な引力を持って僕の意識を引きつける。

「そら」

「……ソラ」

 僕もその二文字を呟く。

「そら。ぼくのなまえ。あなたは?」

 ウミと、ソラ。

 偶然だとは思えない。

「僕は……」

 僕の名前は?

「僕は……ユヅキユウト」

「ゆーと」

「うん」

「あなたは?」

 ソラと名乗った少女は今度、クリームに訊く。

「クリームですよ」

「くりーむ」

「はい、クリームです」

「ゆーと、くりーむ」

 無表情。

「ゆーと。くりーむ」

 なにかを確かめるように、もう一度。

「なにしてるの?」

「えっと……」

 この山にはシーグラスにまみれた人骨があって、僕たちはそこにいってその骨の主と、そうして霧のように消えた日焼けが似合う尻尾がぴょこぴょこしてるカレーパンが大好きななんとかっすなんとかっすてのが口癖の女の子の二人に手を合わせていたんだよ。どうか天国でも幸せに、って。

 なんて、言えるわけがなかった。

「探検してたんですよ。この山にはなにがあるのかなって」

 クリームの助け舟。ソラに見えないところで僕の腕をつねる。しっかりしてくださいよ、ユウトさん。

「たんけん」

「はい、探検です」

「そうなんだ」

 ソラの声はまるで音声読み上げ機能で話しているように聞こえる。抑揚がなく平坦で、短文で、そうして話す速度が遅い。

「たんけんしてたんだ」

「う、うん」

「じゃ、おもしろいものあるよ」

「えっ?」

 すたすたとどこかへと行くソラ。僕は呆気に取られてポカンと口を開ける。

「ついていかないんですか?」

「え、あ、そうだね」

 クリームの言葉で我に返った。なんだか不思議な気分だ。ソラという人間に僕が飲み込まれているような気がする。

 先に行ったソラを追いかける。喋る速度も遅ければ歩く速度も遅い。一瞬で追いついた。ソラは舗装もされていないけもの道をぐんぐんと登っていく。一体この山になにがあるのだろうか。

 結構登ったと思う。ふと後ろを振り返ってみると、夏の街と砂浜、そうしてその奥に延々続く海が見えた。砂浜の上をよく観察してみたけれど、やっぱりウミの姿は見えなかった。

「ねえ、どれだけ登るの?」

「もうすぐ」

「ほんとに?」

「うん。ほら」

 ソラがそう言うと、けもの道が拓けた。

 そうして目の前には、一面のコンクリート。一定間隔で白線が引かれている。奥には少し色がくすんだ建物が建っていた。

 飛行場。

 この街にも飛行場があったのだということに感心した。けれどすぐに、

「無断で入ったらまずくないかな」

「なんで?」

「だって飛行機が飛んでくる可能性があるでしょ? こんなところにいたら巻き込まれる」

「だいじょうぶ」

 ソラは空に手をかざす。

「もうとんでない」

「飛んでない?」

「ひこーき、はいしになった」

「あ、そうなんだ」

 確かに言われてみれば常駐している人もいないし、配備されている他の飛行機の姿だって見当たらない。僕らが勝手に侵入しようがなんら問題はないということだ。

「こんな場所があったなんて知らなかった」

 てっきり、この街にアクセスするには船を使うか山を越えるかしかないと思っていた。もう廃止になったとはいえ、空路までかつてあったとは驚きだ。今は人っ子一人出歩いていないけれど、昔はかなり賑わっていたのかもしれない。

「……」

「え、な、なに?」

 ソラは突然僕の目を見る。

いや、見たんじゃない、見つめた。いや、もっと正確に言うなら覗き込んだ。いや、もっともっと正確に言うなら、入り込んだ。

 僕の顔を急にがっしり掴んで、自分の顔の高さまで持ってくる。そのせいで僕は中腰になる。腰が痛い、手が温かい、やわらかい。

 眼の奥に、入り込まれる。

「な、な、な、な、なに?」

 動揺。きっとその手を伝ってソラに届いているはずだ。

 一体なにがどうなっているのか分からない。

 ほんとに、分からない。

「ゆーと」

「な、な、なにっ?」

 なにがしたいんだ。

 そう思うと、なぜか急に手は離される。そうして今度はクリームが標的になる。

「わ、わたしも? え、あっ」

 ぐい。

 と、今度は自分の顔をクリームの顔の高さまで持ってくる。

まただ。僕より一回り低くて、クリームより一回り高い。ウミとほとんど同じ身長。

『それらはすべて、一つの線で繋がっている』

「くりーむ」

「なんで、しょうかっ?」

 平静を装っているんだろうけど、語尾が上ずっている。クリームが動揺しているところなんて初めて見たかもしれない。貴重な光景だ。

 覗き込む。クリームの目を覗き込む。クリームの目に入り込む。じっと、ぐっと、ずっと、見つめ続ける。永遠にそうしているんじゃないかとすら思える。永遠にそうしていても違和感なんて一つもない。そう思う。

「あの、ソラ……さん?」

「むぅ」

 膨らんだ。どうやらご不満らしい。

「そらちゃんだよ」

「えっと……」

「そらちゃん」

「ソラ……ちゃん」

ウミはウミちゃん、って感じだったけれど、ソラはソラちゃん、って感じじゃない。クリームがそう呼んだように、ソラさんの方がしっくりくる。けれどそれじゃご不満なんだ。風船になってしまう。だからちゃんとソラちゃんと呼ばなきゃいけない。頑張れクリームちゃん。

「……………………うん、そらちゃん」

「ソラ、ちゃん……」

「……ふふん」

 上機嫌。

 パッと顔から手を離す。クリームはすすすすすっと音も立てずにソラから離れて、僕のそばへとやってくる。どうやら僕という人間は、身を隠す盾として活用してもらえるくらいには信頼されているらしい。ありがたい限りだ。

「ふふんっ」

 ソラは上機嫌。

 なぜそんなに上機嫌なのかは分からない。けれどソラはゆらゆらと身体を動かし、口角を少し、ほんの少し、ほんのほんの少しだけ上げて、けれど開かれた目はそのままに、そこにいた。

「おともだち」

「へっ?」

 間抜けな声が出る。

「おともだちっ」

 やっぱり上機嫌だ。ゆらゆらの周期が早くなる。口角はほんのほんの少しまた上がる。けれど目元に一切の変化はない。そうして、そこに立っている。

「ふふんっ」

「あの、えっと、ソラさ……ソラちゃん?」

「なに? くりーむ」

「えっと……」

 ペースが完全に飲まれた。夏の街は人間ではなく自然が支配をしていると思っていたが、それはまったくの見当違いだった。本当のところは、ソラという一人の……一匹の人間が支配していたんだ。ソラの前では自然すら振り回される。

 そんな気がした。

「おともだち、ちがうの?」

「あ、違わないですけど……」

「じゃ、おともだちっ」

「まあ、はい、あの、ええ、そうですね……」

 飛行場の上で僕らは一体なにをしているんだろう? そんなことを思う。

「……えっと、ソラ?」

「なに?」

「ここでなにしてるの?」

 人を食っているだとか、空飛ぶクラゲを探しているだとか、七億五千万光年離れた第九惑星と電波のやり取りをしているのだとか、そんなことを平気な顔で言われた方がまだよかったような気がする。そんなことを平気な顔で言われても、こちらも平気な顔で返答する準備ができていたから。

 けれどソラは、

「ねこさがし」

 と、普通の回答。

 僕はまたペースを乱す。

「猫?」

「ねこ」

「猫って、あの猫? あの哺乳類の? あの尻尾のある? あのにゃーって鳴く? その猫?」

「むぅ」

 膨らむ。風船になる。

「なんでうたがってるの?」

「ああいや、別にそういうわけじゃ……」

「ねこはねこ。ねこ、あのねこ」

 本当にその猫は僕が想像するような猫なのだろうか。足が八本あって、目も四つあり、背中に速射砲が装備されていて、ぐぎゃららるると鳴く猫のことを言っているんじゃないのだろうか。

 そう思ったけれど、言ったらまた膨らんでしまう。これ以上ソラの顔を風船にしてもいいことなんて一つもない。

「ねこちゃん、いなくなっちゃったんですか?」

「うん」

「それは大変ですね」

 と、僕を見るクリーム。偶然にも僕もクリームを見ていた。いつもこうだ。

 僕はげっ、という顔をする。向こうは面白いものを見た、という顔をする。

「じゃあわたしたちがお手伝いしましょうか?」

「あのさ――」

「いいの?」

「いいですよ。ここで会ったのもなにかの縁です。それにわたしたちも暇をしていますから。まあ午前中だけですけどね」

「あのさ――」

「うん、いっしょにさがそ?」

「はい、見つかるといいですね」

「あの――」

「うん! ぜったいみつける!」

「あの――」

「あ、ユウトさんももちろんいいですよね?」

「……もちろん、喜んで」

 理不尽という言葉が世の中にはある。どういう意味かというと、今この状況のことを正に指す。

 まあ別にいいんだけれど、ねこの一匹を探すくらいは。

「ねこはじゅっぴきいるの」

「え? ごめんもう一回言って?」

「ねこはじゅっぴきいるの」

「ごめんごめん、もう一回だけ言ってほしいな」

「……ねこはじゅっぴきいるの」

「ごめん。本当に申し訳ないんだけどさ、もう一回だけいいかな」

「むぅ」

 膨れた。風船になった。

「意地悪しないであげてくださいよユウトさん。ソラちゃん風船になっちゃったじゃないですか」

「……君は一体どっちの味方なんだ」

「ユウトさんが面白い顔をしてくれる方です」

 僕は一つ大きなため息をついた。


「みけ、しろ、くろ、じょーじ、りんご、まっかーとにー、じょん、ふがくさんじゅうろっけい、おっちょこちょいのちょこなめた、ぱぶろ・でぃえご・ほせ・ふらんしすこ・で・ぱうら・ほあん・ねぽむせーの・ちぷ――」

「ちょっと待って」

「なに?」

「僕はその十匹の猫の名前を言ってほしいって言っただけで、別に黒魔法を使うための呪文を訊いたわけじゃないんだけど」

「むぅ」

 またやってしまった。また僕だ。また僕が風船にした。僕が悪いのか? 僕の責任なのか?

「だからなまえ。みけ、しろ、くろ、じょーじ、りんご、まっかーとにー、じょん、ふがくさんじゅうろっけい、おっちょこちょいのちょこなめた、ぱぶろ・でぃえご・ほせ・ふらんしすこ・で・ぱう――」

「あーあー分かった。うん分かった」

「ほんとに?」

「ほんとに分かった」

「じゃ、いってみて」

「……えっと」

 ……最初はなんだっけ。そう最初は簡単なんだ。ミケ、シロ、クロ、最初は簡単。次の四つも簡単。ジョージ、リンゴ、マッカートニー、ジョン。有名なロックバンドのメンバーの名前。まだ覚えやすい。

鬼門は残りの三つだ。富嶽三十六景、おっちょこちょいのチョコ舐めた、パブロ・ディエゴ・ホセ……ダメだ。そこだけが分からない。

「もしかして、おぼえてないの?」

「お、覚えてる……」

「じゃ、いって」

「……ミケ、シロ、クロ、ジョージ、リンゴ、マッカートニー、ジョン、富嶽三十六景、おっちょこちょいのチョコ舐めた、パブロ・ディエゴ・ホセ……えっと、ホセ、ホセ、ホセ……」

「ふだんはぴかそってよんでる」

「最初からそう言ってよ……」

「あと、ふがく、ちょこ。ふだんはそうよんでる」

「それも最初から言ってほしい……」

 ウミの相手をする百倍は疲れる。いかにあの子が気さくで接しやすくて話しやすく、そうしてしっかりした人間だったかを思い知る。

「どこに行ったのかは分かるんですか?」

 クリームがそう訊くと、ソラは手を広げ、

「このあたり」

 と言う。

 この辺り。飛行場付近という意味らしい。

「でも、山を下っているかもしれない」

「それはない」

 どうして?

 と、訊く前に、

「それはない」

 と、もう一度言われる。

 ……僕はまた、あの感覚に陥る。

『決まり』だとウミは言った。自らの死は『決まっている』と。

 ならばこれも『決まり』なのだろうか。

 ウミの死が『決まり』だったように、猫たちが山を下らないのも『決まっている』のだろうか。

「それは『決まり』なの?」

 僕は意を決しそう尋ねる。ソラはごく普通の表情で、ごく普通に、その問いに答えた。

「そうだよ」

『決まり』

 ウミの死は『決まり』だった。猫たちが山を下らないのも『決まり』だ。

 どうしてそう『決まって』いるんだ? 理由は? 根拠は? なにもかも不透明。理由がない、根拠がない、意味が分からない。糸と糸が絡まり合っている。そもそも誰がそんなことを『決めた』んだ?

 疑問は尽きない。その疑問を解決する糸口は、クリームが僕に隠しているあることだっていうのも分かっている。それを知れば僕の疑問は解決される。点と点が線で繋がる。どうして『決まって』いるのかが分かる。

 早急に、その疑問は解消した方がいいのかもしれない。これをそのままにしておくのは気分が悪いし、なにより間違っているような気がする。なぜか分からないけど、それを放っておくと今の僕という存在は、どうしようもなく不完全であり続けるように思えて仕方がない。

 クリームの方を見る。クリームもまた僕の方を見ていた。いつでもそうだ。まるで『決められていた』ように、そうなる。

「……そのときが来たら、ちゃんと言います」

 僕は頷く。

「……じゃ、探すそうなら早速探そう。早い方がいいでしょ」

「うん」

 面倒なことはまたいつかの僕に任せて、今は猫の捜索に専念しよう。そう思った。

 手分けをして探した方が効率もいいだろう、というクリームの提案に僕らは賛成する。山の奥に入って逆に僕らが迷子になっては元も子もないので、あまり奥には入って行かないように注意をしながら、行方不明になった十匹の猫たちの捜索を開始した。

 右手にはソラからもらったカリカリと、そうして虫取り網を持つ。見つけたらカリカリでおびき寄せて、虫取り網でひょいっと捕まえるという算段らしい。うまくいくかは分からない。僕の腕と猫の気分次第だ。

 飛行場より上の山の中に整備された道なんてものは存在しない。そもそも道という概念すらない。ひたすらに木と土だけの空間。後ろを振り返ると飛行場が見える。ちゃんと定期的に確認しないと本当に迷子になってしまう。

 辺りを見回すが、四足歩行の哺乳類の気配は感じないような気がする。

 人っ子一人いない。猫っ子一猫いない。ため息。

 は、つけなかった。

 口を開けたまま固まる。息を忘れる。時間が止まる。セミは相変わらずいつでも、どこでも、いつまでも、ずっとうるさい。

 猫。

 白猫。

 が、いた。

 こんなに早く見つかるものなのか?

 けれど見つかったんだ。確かに僕の数メートル先では白猫が疑わしそうに僕を睨んでいる。紛れもない事実だ。幻覚なんかじゃない。

一つでも音を立てたらゲームオーバーだ。全部が台無しになる。だからそれだけはやってはいけない。

 オーケー、まずは落ち着けユヅキユウト。僕は聡明な人間だ。ああその通り、僕は聡明な人間なんだ。聡明な人間なら音一つ立てずにカリカリを取り出して地面に置くくらい造作もない。その通り、造作もない。簡単にやれる。

 いいか? ゆっくり、まずは虫取り網を左手に移す。大丈夫音は立ててない。猫はそこにいる。まだダイナマイトに火はついていない。大丈夫だ。いいか僕は爆弾処理班だ。爆弾処理班は的確に爆弾の解除をする。僕は的確にカリカリを地面に置く。同じことだ。

 左手で虫取り網を持ったまま、右手にあるカリカリを取り出す。袋が鬼門だ。少し触れただけで大きな音が立ってしまう。なるべく袋には触れないようにカリカリだけをつまみだす。そうすれば心配ない。ほらまだ白猫は僕を睨んでいる。大丈夫だ、臆するな。

 取り出す。カリカリを一粒。

 オーケー、後は置くだけだ。さあやれ、君ならやれる。聡明な君にならこのミッションはクリアできる。さあいけユヅキユウト。お前にならやれる。

 屈む。ゆっくりと。白猫に目線は合わせたまま、ゆっくりと、ゆっくりと、そうしてゆっくりと。

 地面にカリカリを一粒、置いた。

 ミッションコンプリートだ。

 猫を見る。疑わしそうに僕を見ている。けれどカリカリも気になる。その二つの間で揺れ動いている。

 しばらく見つめ合う。

 そうして、猫が動く。

 心の中でガッツポーズをするが、あくまで心の中だけだ。身体はもちろん顔にだって出しはしない。クリームの隣にいると霞んでしまうけれど、僕は元々ポーカーフェイスが得意なんだ。

 一歩一歩、のしりのしりと猫はカリカリを目指して進む。けれど僕に睨みを利かせてけん制することだって忘れない。大丈夫だよ僕は君に悪いことなんて一つもしない。ほらごらんこのカリカリを。これは僕が君にあげたものなんだ。ねえカリカリを恵む人間が悪い人間のはずないでしょ? だからそんなに警戒しなくていい。カリカリだけを目指して進んでいい。大丈夫大丈夫、なにも怖くないから。君はなにも考えなくていいんだ。ただ一直線にこのカリカリを目指すだけでいいんだ。ほら美味しいよ、とっても美味しいカリカリだよ。まあ僕カリカリなんて食べたことなんてないから美味しいかどうかは知らないけど。

 そうやって念を送り続ける。

 念が届いたのかどうかは知らないけれど、白猫は僕を睨みながらも一歩一歩、歩みを進める。木の葉が踏まれる音が静かに響く。一人と一匹の間に緊張が流れる。

 一歩。

 また一歩。

 また一歩。

 僕を見たまま、白猫はカリカリの前にまで来て僕を見上げる。睨む。毛並みがぼさぼさでずんぐりむっくりしている。この子の名前はなんだろうか。シロ、だと思うけれど。

 睨まれる。

 カリカリに目を落とす。

 食え。

 念を送る。

 けれどまた僕を睨む。

 焦るな、ここで焦ってしまったらすべてがパーだ。僕は平気な顔をしていればいい。どうぞ召し上がってくださいませお客様。

 白猫がまたカリカリに目を落とす。

 そうして、口を近づけた。

 ――今だ!

 猫めがけて左手に持った虫取り網を力いっぱい振り落とす。猫が気づく。目を見開く。逃げようとする。虫取り網を両手で持ち速度を上げる。猫が両足に力を込める。猫の両足が地面を蹴る……よりも早く、僕の振り下ろした虫取り網が猫を捕らえた。

「よっしゃあっ!」

 柄にもなく大きな声を出してしまった。猫は虫取り網の中で陸に打ち上げられた魚みたいにバタバタと跳ねまわっていた。僕は逃がすもんかと手に力を込める。

「さあもう観念するんだ……もうお前はまな板の上の猫だ……」

 気を抜いたのが悪かったんだ。

 もう僕の任務は終わったと思ったのが、全部悪かったんだ。

 猫は観念して大人しくなった。僕は虫取り網を持ってそれを顔に近づけた。

 それが、悪かった。

 顔に近づけた途端、猫はまた暴れ出す。

「ちょ、まず――」

 それがいけなかった。

 急に暴れるもんだから、僕は態勢を崩してしまう。今僕はどこにいるんだっけ? そう僕は今、山にいる。ソラが探しているという十匹の猫を見つけようとして山の中に入って行ったんだ。山は傾斜になっている。ああそうだ、山なんだからそうなっているな。で、僕は今うっかり態勢を崩してしまった。そう、態勢を崩した。

 脳みそがフルスピードで回転する。黄色を飛び越して赤色のランプが点灯するし警報が鳴る。緊急事態、エマージェンシー、明らかにまずい。だってそうだろ?

 このままじゃ、山を転げ落ちてしまう。

 どうなる?

 そう考えて真っ先に、『死』というイメージが脳みそだけじゃなく身体全体をその鋭い刃で刺し貫いた。

 山には木が生えている。だからうまく木にぶつかって止まればいい。そうすれば軽い打撲だけで済むだろう。けれどそうじゃない場合は? 僕の身体の落下が止まらない場合は? 下まで転げ落ちる。そうなる。そうなった場合は?

『死』

 関節がありえない方向に折れ曲がった自分自身の姿を想像してしまう。

「くそっ!」

 持っていた虫取り網を放り投げる。猫の捕獲よりも僕の命の方がどう考えたって大切だ。そうしてカリカリもいらない。放り投げる。

 身体が後ろに吸い込まれるのが分かる。僕は首を捻って、僕がこれから落下する場所を確認してみた。左側にすぐ大きな木がある。けれど届かない。手を伸ばせば届くかもしれないけれど、弾かれて軌道がずれ大変なことになる可能性がある。最悪の事態だけは避けなければならない。

 ならば右は? 右には、左よりも数メートル後ろ側に木が生えていた。けれどあちらも届かない。この際手を伸ばして掴まるべきだろうか。ダメだ、思考が追いつかない。身体は傾いていく。どうすればいい?

 そのとき、ちょうど僕が転がるその先に、一つの大木が生えているのが見えた。右の木よりもさらに数メートル下だ。このままの落下速度でまともに直撃すれば、下手したら骨折するかもしれない。

 けれど死ぬよりはマシだ。骨折の方がマシ。あそこにぶつかって止まろう。そうすれば助かる。僕は死なない。なんとかなる。

 ちょうどそう決心したとき、僕の肩が地面に触れるのが分かった。

 左右に振れてはいけない。真っ直ぐに落ちていって、ちゃんとあの木にぶつかって止まらなきゃいけない。

 なんて考えは、その衝撃で全部吹き飛んだ。

 身体の内側でグレネードが爆発したかと思った。視界がメチャクチャになる。声にならない声が出る。心臓が小さくなり身体中の血が固まる。音が消える。身体の痛みだけが脳を支配する。

「――っ!」

 ドン、と一度大きくなにかにぶつかり、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。溺れているような気分になる。もしかしたら本当に溺れているのかもしれない。じゃあ早く水面に顔を出して息をしなくちゃいけない。あれ、水面ってどっちだ? 方向が分からない。上が上じゃない。下が下じゃない。息、早く息をしなくちゃ。ああそういえば、息が上手くできない。どうしてだろう。溺れているからかもしれない。あれ、そもそも僕は溺れていないような気がする。僕は確か山にいて、猫を探していて、それでどうなったんだっけ。

 思考ができない。意識が消える。

 セミの声がやけにうるさい。

 そのとき、なぜか泣いているクリームの姿が、僕の目には映ったような気がした。



 夢を見ていた。

 悲しい夢。けれど悲しいだけじゃない、楽しくもあった。

 すごく不自由で、そうしてすごく自由でもあった。

 涙が溢れ、けれど笑ってもいた。

 そんな夢を見ていた。

 誰かが僕の隣にいる。笑っている、泣いている、悲しんでいる、楽しんでいる。そんな人が僕の隣にいた。どうしようもなく存在していた。確かに生きていた。

 その人は、ずっと折り畳んでいた小さな羽を存分に伸ばす。薄汚れてしまったそんな羽を。

 自由なカモメ。

 時速は百キロを超えた。このままその羽を使って飛べる。どこまでも飛べるんだ。その人は気づいていないかもしれないけれど、僕は気づいていた。羽の広げ方は分かったんだ。じゃあ飛び方だって分かるはずだ。ただ力を込めて両翼を動かし、風を読んでそれに乗ればいい。そうすれば飛ぶことができる。どこへだって行くことができる。隣の街だって、岬にだって、海の向こうへだってきっと飛んでいける。

 そう、例えば、山に囲まれていて、海がきれいで、セミがうるさくて、溶けそうなくらいの殺人日差しが連日襲うような。けれどどこか、のどかで快適で幻想的で、まるで僕らのためだけに用意されたような。

 そんな夏の街にだって、きっと行けるんだ……。


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