西のガラスの少女 2/3
「ユウトさん」
「なに?」
「クリームパ――」
「クリームパンが食べたいんですけど。そう言ってから君はこのチョメチョメ商店を指差す」
「よく分かりましたね。百点です」
今日も今日とて、夏の街は夏の街だった。そうして僕は僕で、クリームはクリームだった。風が吹いて、日差しは容赦なくて、アスファルトの上にすべてが立っていて、うんたら商店は相変わらず文字がかすれて読めない。空は青くて、雲は白くて、汗が流れて、セミがうるさい。大通りとは名ばかりの道からは蛇が這ったような細道がいくつも枝分かれしている。
そうしてやっぱり、夏の街は夏の街だった。
「ウミちゃんに持って行ってあげるんでしょう? カレーパン」
「まあそうだけどさ」
「なら、わたしにもクリームパンの一つくらい買ってくださいよ。ねえねえ、だってほらご覧ください」
クリームはそう言って、右足を軸にしてその場でくるくると回ってみせた。くるくると、自然に、まるでそうし続けていることが当たり前みたいに回る。三回半回ったところで、ふらついて回転を止めた。
「おっとっと」
と、わざとらしく、本当にわざとらしく口に出して言って、その場でふらふらと揺れる。僕がなにも言わずにそれを見つめていると、クリームはつまらなそうに息を吐く。
「なんですか」
「こっちのセリフだよ」
「かわいいでしょう、わたし。自慢じゃないんですが、かわいいと思うんですよ。だから、ねえ、クリームパン」
「そういうところだよ」
「どういうところですか」
だから、そういうところだ。
ほにゃらら商店に入る。外の日差しが殺人的だからか、中に入ると恐ろしいほどに暗いと感じた。けれど数秒待って目を慣らすと、その暗さにも段々と慣れてくる。
今日も今日とて、なんとか商店の中には人っ子一人いなくて、音一つもなかった。レジカウンターにはクッキーの空き缶が置いてあり、「お金はここに」と書かれた紙が敷いてあり、百円玉が五枚置いてあった。もしかして昨日僕が二枚入れてからそのままなのだろうか。
「ここ、人いるときあるのかな」
「きっと午前中だけいないとかじゃないですか。午後からは普通にいて」
「そういうものかな」
クリームは早速クリームパンを手に取り、速攻で包装を破いて中身にぐもっふぐもっふと食らいつく。買ってあげるなんて一言も言ってないし、というかまた代金払ってないし。この小娘は年上に対する遠慮の気持ちとか、そういう感情は持っていないのだろうか。
まあなんだかんだ言いたいことはあるけど、別にクリームパンを一つ買ってあげるくらいはいい。百円だし、それで喜んでくれるなら僕だって気分がいいし。
僕も僕で今日も保冷庫の中で寝ていた缶コーヒーを一つ起こして、そうしてウミの分のカレーパンも手に取り百円玉を三枚、空き缶の中に入れる。商品はどれも百円。だから三つ合わせて三百円。なんとも計算がしやすい。百円玉を入れると、先に入っていた百円玉にぶつかってチャリンと音がした。これが「ありがとうごさいましたー」の代わりということなのかもしれない。
外に出ると、日差しは僕たちを狙いすましたように集中砲火してきた。止まっていたはずの汗もすぐに流れてくる。僕は早速缶コーヒーのプルを下げて、黒くて苦い液体を喉に流し込んだ。
「ふぉふふぉんふぁふぉふぉふぇふぁふふぇ」
「よくそんなの飲めますね」
「んくっ……さすがの翻訳力です」
「あれ、もしかしてコーヒー飲めないの?」
「あ、今マウント取ろうとしましたね。コーヒーマウント。そういうのダサいですよ」
「僕は別にそんなこと考えてないけど。ただ単純に、君はコーヒーが飲めないのかい? って質問しただけだよ」
「コーヒーなら飲めません。というかよくそんな苦くてまずい液体を平然と口にできますね。味覚死んでないですか? どうかしていますよ」
「僕から言わせれば、飲み物もなしにそんな甘いクリームパンを平然と口にできる君の味覚のほうがどうかしてるけどね」
「今日は随分と好戦的ですね、ユウトさん」
「別に、いつも通りだけど」
この調子でやっていたら永遠に続きそうだ。クリームはレシーブがうまい。一般的なクリームくらいの年齢の子なら返してこないような球も平気で返してくる。しかもいやらしいカーブをつけてきたりして。
「大人になるって悲しいことですよね。美味しい美味しいクリームパンの魅力を知る権利を失ってしまうことになるなんて。ユウトさんは悲しい人間なんですね。ほろろ、涙がほろろ」
「確かにそうかもしれないが、それと引き換えにコーヒーの魅力を知ることができる。君だって数年もしたらわざわざお金を出してこの黒い汁を買っているだろうね」
「まさか、ぜったいそんなことには――」
クリームが足を止める。
「どうしたの?」
「……いや、多分気のせいです」
「?」
「今、人がいたような気がしたんですけど、気のせいでした」
「そう?」
クリームの視線の先を見てみるが、そこには電信柱の下で優雅に咲いている草花以外にはなにもなかった。一瞬猫の鳴き声が聞こえたような気もしたが、まあ気のせいだろう。
それよりも気になったことがある。
海だ。海にやってきた。砂浜だ。
それはいいんだ。
ただ、海になにか突き刺さっている。
「ねえクリーム。あれ、まずくないかな」
「まずいかまずくないかで言ったら、まずいですね」
「だよね」
海にはなにかが突き刺さっている。
正確には、海には人が突き刺さっている。
さらに正確に言えば、小麦色の肌をした少女の足が、海には突き刺さっている。
身体情報、そうして近くの砂浜に一人ぼっちで座っているバスケット、中にはシーグラス。それらから推定するに、あの海に突き刺さっている人はウミだ。ウミが海に突き刺さっている。
「いや、まずいだろ!」
足はバタバタと揺れているが、頭は一向に水面から出てくる気配はない。溺れているんだ。そう思った。
僕は駆け出した。砂浜を突き進み、海に入る。濡れてしまうけれどそんなことを躊躇している暇なんてない。だって人が溺れているんだ。服が濡れたくらいが一体なんだ。
水の抵抗を受けながらも、海に突き刺さっているそれを目指して進む。大体腰の辺りまで水が来ていた。
そこまで着く。足を掴む。そうして勢いよく抜く。
「あっ」
抜けた。いとも簡単に。そうしてそこには、
「あ、どうもっす」
やっぱりウミがいた。全身に海藻が絡まり、手にはなんの種類かよく分からない貝が握られていて、陸にいるときと一切変わらない表情で、
「お兄ちゃん服濡れてるけどいいんすか?」
「お前までお兄ちゃん言うか!」
「ふぎゃっ!」
僕が手の力を緩めてしまったせいで、ウミの身体は重力に従って海の中に吸い寄せられてしまう。
そうしてまた、突き刺さった。
「ひどいっすよ! なんでこんなことするんすかっ!」
そもそもはた目から見たら溺れているようにしか見えないあの状況を作り出したウミにだってちょっとは責任があるんじゃないのか? 実際にはただ潜っていただけで溺れてなくてもさ。
と思ったけれど、口には出さなかった。
「ごめんって」
「まあ許すっすけど」
簡単に許してくれた。
「でも、まったく失礼な話っす! ウミが海で溺れるわけないじゃないっすか! ウミにとって海は故郷なんすから!」
「そうは言っても、水の中で呼吸なんてできないんだから気をつけるに越したことはないでしょ」
「それはそうっすけど」
ウミはフグのようにほっぺたを膨らませる。
「ほら、これで機嫌直してよ」
カレーパン。一個百円。ビニールに包装されたそれを手渡すと、ウミは一瞬それがなんなのか分からないようだった。けれどすぐに、
「か、か、か、か……」
「か?」
「カレーパンじゃないっすかっ!」
「カレーパンだね」
「カレーパン! じゃ! ない! すかっ!」
「だからカレーパンだよ」
「カレーパンだ! カレーパンだっ! 本物のカレーパンっす! 正真正銘のカレーパンっす! どこからどう見てもカレーパンっす! 上から読んでも下から読んでもカレーパンっす! パンの中にカレーを入れ油で揚げた料理カレーパンっす!」
上へ下へ、右へ左へ、ひっくり返してまた上へ下へ、またひっくり返す、右へ左へ、そうして成分表示を食い入るように見つめる。そこまでカレーパンが珍しいのだろうか。いやしかし好物に挙げるくらいだから少なくとも一度は食べたことはあるのだろう。
「ウミの世界でいちばんっ! いや金星でいちばんっ! いや太陽系でいちばんっ! いや銀河系でいちばんっ! いや全宇宙でいちばんの大好物、カレーパンじゃないっすかっ! どどどどどどどどどどうしてそれがここにっ⁉」
「買ってきたから」
「わ、わわわ! わざわざ覚えていてくれたなんてうれしいっすっ! しかも覚えていただけじゃなくて買って、買って、買ってきてくださるなんて……! このカレーパンは家に飾って一生大切にするっすっ!」
「いやちゃんと食べてほしいな。そんなことしたら絶対腐っちゃうし」
「そういうことなら食べるっす! いただきまぐもっ! ぐもっ!」
いただきますを言い終わる前にもうすでに口の中にはブツが詰め込まれていた。そうしてぐもぐも言いながら一個百円のカレーパンは少女の身体の中に吸い込まれていく。食事というよりは、捕食。
ウミがぐもぐも言わせている間、僕とクリームは二人してそれを眺めていた。夏の街、砂浜の上、小麦色に日焼けをした少女がカレーパンを捕食して、山を越えてこの街にやってきた僕ら二人はそれを眺める。不思議な光景だ。
「美味しそうですね」
「げっ」
「なんですか、そのカエルが潰れたような鳴き声は」
「クリームパン一個だけだよ」
「そんなことですか。別にそこまでわたしは食い意地が張っていませんよ。失礼ですね」
信用ならない。そう宣言しておいて、いざなんとか商店に入ったらクリームパンを二つ持ってこう言うんだ。「百円も二百円も変わらないと思いますけど」って。
「ぐもっ! ぐもっ!」
「ぐもぐも言ってますね」
「ぐもぐも言ってる」
どういう擬音だよと思うが、だって本当にウミはぐもぐも言いながらカレーパンを捕食しているんだ。
「けぷっ……ごちそうさまっすっ!」
「言い食べっぷりだ」
「そっすか? えへへ、よく言われるっす!」
こりゃ、ウミの祖父母とかはかわいくてたまらないだろうな。食べ物を美味しそうに食べられるというのも、また一つの才能だと思う。
「わざわざ買ってきてくれるなんて、本当ありがとうっすっ!」
「いいよそれくらい」
「お礼といってはなんですけど、これあげるっす!」
バスケットの中から取り出したのは、緑色と透明のシーグラス。緑を僕に、そうして透明をクリームに手渡した。
「お守りっす! ウミのおまじないパワーを封じ込めておいたっすから、いざというときに守ってくれるっす!」
「ありがと、ウミちゃん」
「いざというときのために、大切に持っておくよ」
人間いつ生命の危機に瀕するか分からない。僕が数分後海に突き刺さって死ぬ可能性だってあるし、民宿『夏休み』での皿洗い中に皿を割った衝撃で地球が滅亡する可能性だってある。そういうとき、ウミのお守りが守ってくれるかもしれない。人の死だとか、地球の滅亡だとかを。
僕はそれを、財布を入れているポケットとは逆側のポケットにしまった。そのポケットにはどこかから迷い込んできた葉っぱが一枚入っていた。しかもなぜか少し湿っている。
このまま入れていても仕方がないので、砂浜の上にはらりと落とした。
「んじゃ、早速シーグラス集めを開始するか」
「はいっすっ!」
「分かりました」
僕たちの目的はウミのお友達のお葬式のためのシーグラス集めだ。どれだけの量が必要になるのか分からないけれど、多いに越したことはないと思う。
シーグラスは小石や木くずなどのゴミが集まっている場所に多く落ちている、とはウミの談。
ということで、早速そのスポットへと案内してもらった。僕たちがさっきまでいた、細かい砂粒が敷き詰められた砂浜とは一転、ゴツゴツとした小石やへにゃへにゃに変形した木がひしめき合っている場所へとやって来る。ここにある石や木たちはすべて波に乗って浜へと運ばれ、そうしてこの砂浜に置いていかれる。シーグラスもそれらの石や木と同じようにして波に乗りこの場所へと運ばれて来るため、この場所では多くのシーグラスを発見できる……らしい。
「昨日も言ったっすけど、シーグラスは太陽に照らされるとキラキラと光るっす。だからよく目を凝らして、それを見つけるっす」
僕はウミに言われた通りよく目を凝らして観察した。そうすると確かに、光を反射してキラキラと光っているなにかを見つけることができた。それを拾ってみると、透明のシーグラス。
シーグラスにも色によって珍しさがあるらしい。元々はガラスなわけだから、そもそも製品にあまり使用されない色のシーグラスは貴重だし、反対に透明なガラスなんかはよく製品に使用されるため、今僕が拾ったような透明のシーグラスのレア度もそれに応じて低い部類になる。
他にも、緑、茶色もよく使用されるためレア度は低い。レア度の高いものだと、赤だったり黄色だったり、中にはピンクや紫、黒なんてものも存在するらしい。ぜひ一度お目にかかりたいものだ。
三人で海岸に座り込んでじーっとシーグラス捜査をする。海の方角からはあおーあおーと鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。反対に山側からは、セミのじりじりという大合唱が波になって押し寄せている。僕たちはその二つの音の狭間に存在していた。自然の音はうるさいくらいに響いているのに、人間の出す音は一切ここには届いてこない。ここでは人間ではなく、自然が街の支配者なのかもしれない。
「ねえウミ」
「ん? なんすかー?」
僕が声を掛けると、ウミは振り返った。額にはいくらか汗が浮かんでいる。
「シーグラスはどれくらい集める予定なの?」
僕がそう訊くと、ウミはあごに手をやって考えを巡らせた。
「そうっすねー。このペースでいくなら、今日と明日で十分かもしれないっす」
「あ、そんなもんでいいんだ」
「あんまり多いと、お友達も気が引けちゃうと思うっすから。ウミだって、自分がそうなったらって考えたとき、あんまり豪華にやってもらっちゃったら、なんだかちょっと恥ずかしいっすもん」
それはそうかもしれない。僕だって、自分の葬式なんかできるなら質素に済ませてほしいと思う。
「こういうことを言うのは失礼かもしれないですけれど、その亡くなったお友達は幸せですね」
「? どうしてっすか?」
「わたしだったら、こうやって自分のお葬式に、ウミちゃんが一生懸命シーグラスを集めてきてくれたら、とってもうれしいですから。きっとお友達も、とってもうれしいはずですよ」
クリームはそう言う。けれど、
「……そんなことないっす。きっとウミはまだ嫌われてるっすから」
ウミが初めて見せる表情。負の感情。
「きっと嫌われてるっす……迷惑だって、目障りだって、多分このシーグラスも、そう思われちゃうかなって、そう、思われちゃうかなって、なんだか、そんな気がするっす……」
そう言う。けれどすぐにハッとした表情で、
「あ……ウミ失礼なこと言ったっす……お二人にはお手伝いしてもらってるっすのに、今の言い方は、お二人にも失礼っす……」
顔を伏せる。小さく縮こまる。ウミの後ろに伸びる影が、ウミに襲い掛かろうとしているようだった。
僕はクリームの方を向いた。クリームも僕の方を向いた。なんだかそれがお互いの癖なのかもしれない。僕がクリームの方を向くときには、必ずクリームも僕の方を向く。そうしてお互いに言いたいことも、思っていることも、きっと全部分かってしまっている。その一瞬のアイコンタクトで、波長のようなものがピッタリと重なる。
お先にどうぞ、という意思を目に込めて送る。
いくじなし、という言葉を目に込めて返された。
「……ウミちゃん」
「なんすか……」
「じゃあどうして、シーグラスを集めるんですか?」
迷惑だと思われるなら集めなきゃいいんだ、シーグラスなんて。初めっから。
「どうして、集めるんですか?」
「それは……」
それでも集める理由がウミにはある。ちゃんとした、しっかりとした理由が。
「……それでも、大切なお友達っす。お友達がウミのことをどう思っていようとも、ウミにとってお友達は、大切なお友達っす。だから、嫌われても、目障りだと思われても、ウミはシーグラスをいっぱい集めて、ちゃんと天国に送ってあげたいっす」
「……なら、そうしなくちゃいけない。シーグラスを集めなくちゃ。ちゃんと天国に送ってあげるために」
「……そうっすね……うん、そうっす! 確かにその通りっす! まったくもってその通りっす! なんだか悩んでいたのがバカらしく思えてきたっすっ!」
さすが、立ち直りの早さはピカイチだ。それがウミのいいところ。
「お兄ちゃんの言う通りっすねっ!」
「だからお兄ちゃん言うな!」
きゅっきゅっ。
「わたしが死んだら、だれかにあんなに思ってもらえるんでしょうかね」
きゅっきゅっ。
「なにさ突然」
きゅっきゅっ。
「ちょっと考えただけですよ。そんなこと」
きゅっきゅっ。
「そんなのどうかは分からないよ」
きゅっきゅっ。
「まあ、そうですよね」
きゅっきゅっ。
「終わりましたよ」
「じゃ、掃除だ」
「はい」
雑巾とホウキとちりとりを持ちながら、僕もそれについて少し考えてみる。自分という人間の終わりについて。
けれど、どれだけ考えても思考は現実味を帯びない。だって僕はまだ若いし、これから死ぬ予定も特にない。僕にとって、僕という人間の終わりは、限りなく遠くにある事柄のように思えてならない。
「ま、死にたくはないよね」
「なんですか、突然」
「いいや、ちょっと考えただけ」
「そうですか」
死について考えると、身体に少しだけ寒気を感じる。一人で音もなく過ごす夜のような気分だ。生きている人間は、自分の死について考えるべきではないのかもしれない。
「……ほんとにその通りですよ。死は悲しいことです」
クリームはそう呟いた。
夕食を食べ終わり、お風呂を堪能し、ハツミさんに貸してもらっている六畳一間の和室に布団を敷く。仕事が終わったらあっという間に夜になる。午前中に比べ午後は一瞬だ。一時間が一瞬で流れる。
僕は電気を消して、もう寝てしまうことにする。現在時刻が何時かは確認していないけれど、そんなことはどうでもよかった。眠いから寝る、それだけだ。
横になって目を閉じる。いつもならすぐに眠りに落ちるのに、今日は不思議と意識がはっきりしていた。午前中ウミのお友達の話を聞いたからかもしれない。仕事中クリームの言葉がきっかけで普段考えないようなことを考えてしまったかもしれない。原因なんて分かりっこない。小さなほつれが後になって大きな裂け目になるなんてよくあることなんだ。だから分かりっこなんてない。けれど、今日は不思議と目が冴えている。それだけは確かなことだ。
「ユウトさん」
バカにしたような、からかうような、試すような、そんないつものクリームの声……ではなかった。いつになく真剣な、そんな声がふすまの向こうから聞こえてくる。
「なに?」
「起きてますか?」
「起きてるよ」
「入っていいですか?」
「いいよ」
「……なんだか、やけに普通の返答ですね」
クリームはそう言うと、部屋の中に入ってくる。電気をつけたほうがいいかなと思ったけれど、布団から出るのが面倒くさかった。横になっていると、僕の枕元にクリームがちょこんと座る。
「そっちだって、昼間はあるトゲが抜けてるけど」
「バレましたか」
くすくすと笑う。その後で、
「ちょっとだけ、ここにいてもいいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます」
それから会話は一切なかった。外からはよく分からない虫たちのすすり泣く声が響いているだけだ。昼も夜も、ここでは自然が街を支配している。
何分経ったのかは分からない。
五分以上、十分未満だったとは思う。でももしかしたら一瞬だったかもしれない。もしかしたら永遠だったかもしれない。そんなことは分かりっこない。時間なんて概念はどこかの誰かがどっかに持っていってしまった。クリームはただ黙って僕の枕元に座って、僕はただ黙って横になっていた。
「……お邪魔しました。おやすみなさい」
「おやすみ」
「はい」
そうして出ていく。その後で、僕は自然と眠りに落ちた。夢は見なかったと思う。本当のところはどうか分からないけれど。