西のガラスの少女 1/3
飯が食えなきゃ生きてはいけない。睡眠をしなくちゃ生きてはいけない。
どうやら人間の身体はそういう構造になっているらしく、そうしてその二つの問題をまとめて解決してくれるのが宿という存在なわけだが、生憎僕の財布には何泊も何泊も宿に泊まれるほどの経済的な余裕なんてなかった。
「働けばいいじゃないですか」
無機質なアスファルトの上で財布を眺めため息をついていた僕の隣で、クリームは細い両足をバタバタと忙しなく、まるでダンスを踊るように動かしながら他人事のように言う。まあ、至極真っ当なご意見だ。
というわけで僕はクリームの提案を採用することにした。『夏休み』という名の民宿にしばらく籍を置き、お手伝いをする代わりにご飯と屋根を恵んでもらうことになった。なにもないアスファルトの道を歩いているときに、一番初めに目に入ってきた民宿。なんとも面白い名前だと思う。民宿『夏休み』。
今は夏だからいいけど、季節が春だったり秋だったり、それこそ冬だったりしたら一体どうなるのだろうか。民宿『春休み』になったり民宿『秋休み』になったり、はたまた民宿『冬休み』になったりするのだろか。真相は分からない。
『夏休み』を経営していたのは腰の曲がった八十代のおばあさん一人で、なんでも数年前に夫に先立たれてから一人でこの民宿を切り盛りしているらしい。名前はハツミさんと言う。漢字は分からない。
正直、これはまずったなと思った。
いくら今まで宿を切り盛りしていたとはいえ、腰の曲がったおばあさんなんて宿で出す食事に使う食材にキノコが生えていても気がつかなそうだし、酔っ払いが布団にゲロをぶちまけてもそのままにしていそうだし、掃除なんて腰が痛いから止め止めと言ってまともにしていなさそうだ。それに最悪の場合、ちょっと転んだ拍子にぽっくり逝ってしまうかもしれない。そんなことを思った。
実情は、もうまったくの真逆だった。
料理は醤油の量一グラムずれただけですべてが崩れ去るような完璧な均衡を保っていたし、布団は皺どころか繊維のよれ一つなかったし、絶対にハツミさんの手が届かない棚の上段のへりを指でなぞってもほこりはつかなかった。どう見ても、ちょっと転んだ拍子にぽっくり逝ってしまいそうなタマではない。
「年と皺だけ増えてるわけじゃないよ」
そう言ってハツミさんは本日二十九本目のタバコを優雅に吹かした。
「ユウキユウトだっけか?」
「ユヅキユウトです」
「まあどうでもいい。大体見てもらったと思うけど、こんなところに泊まりに来る客なんてほとんどいない。地元の人間は家で寝るし、こんな辺鄙で大した名物も名所もない田舎に来る観光客なんて一年通して片手で収まる。だから基本的には近所の漁師だったり木こりだったりが飯を食いに来るから、そいつらの飯の準備が主になる。まあ、アンタらには皿洗いでもしてもらうよ。後は掃除だね。それで飯も出すし泊まらせてやるってんだから安いもんだろ」
じゃあ十二時になったら来い、それまで好きにしてなと言い残し、ハツミさんは空になったタバコのパッケージを握りつぶしながら民宿の二階へとすたすたと上って行ってしまった。
「……なんだかすごい人だ」
「でも、好待遇ですね」
と、クリーム。
「まあね。ありがたい限りだ」
時計を見る。時刻はまだ午前の九時だった。約束の十二時までは三時間近く空きがある。
民宿『夏休み』でだらだらしているのもよさそうな気がしたが、どうせこの街に来たのだから、少し街を散策してみるのもいいだろう。もしかしたら、僕がどうしてこの街を訪れたのか、その理由が分かるかもしれないし。
この街の地理を大まかに説明すると、街の西側には海が広がっていて、それ以外の方角はすべて山であり、この街はそれらに取り囲まれるように位置している。陸の孤島、という表現がピッタリとハマるような地形だ。街から抜けるには山を越えるか海を渡るかしか方法がない。
「どこか行きたいところとかある?」
「海とかどうですか?」
「まあそのくらいしか選択肢がないしね」
山を登ったって迷子になるだけだ。なら大人しく、西に広がるターコイズの海に行ってみるというのがいいだろう。
勝手に流れ続ける汗をそのままに、僕らは誰もいないアスファルトの上を無感動に歩いた。
本当に、誰もいない。僕はこの街に来てから、ハツミさん以外の人間と出会っていないのだ。この街にはハツミさんしか住んでいないのか?
けれど決してそんなことはない。なぜなら右にも左にも、民家という民家が乱立しているからだ。だからハツミさん以外の人間だってちゃんと生きているはずだ。それに、漁師だか木こりだかが民宿『夏休み』に食べに来るって言っていたし。
「ね、ユウトさん」
「なに?」
「ちょっとお腹空いたんですけど」
そう言いながら、クリームは右にあるなんとか商店を指差した。そのなんとかという文字はかすれて読めない。
「クリームパン」
クリームパン。
そういや、あのときも食べていたな、クリームパン。
足を止める。肯定の静止じゃなくて、呆れの静止。否定的静止。
「あのさ、」
お金が。
そう言いかけて思いとどまる。クリームを見る。
僕よりも一回りも二回りも小さい背丈。重力を思う存分享受してストンと地面に向かう真っ黒な髪の毛。細い手足。僕を見上げる視線。
単なる少女。単なる女の子。
それが、クリームという存在だった。
「お腹、空いたんですけど。クリームパンが食べたいです」
「……午後からの皿洗い、ちゃんと手伝ってよ」
「そんなの、もちろんですよ。ほら、行きましょう」
すたすたとうんたら商店の中に入って行く。僕もそれに続く。
しかしもって、そのほにゃらら商店の中には誰一人としていなかった。店主すらいなかった、奥に引っ込んでいるのかと思い、二、三度「御免下さい」と言ったが、誰かがひょいと出てくる気配はない。
どうしたものかと思っていると、レジカウンターの上にクッキーの空き缶が蓋の空いた状態で置いてあるのを見つけた。「お金はここに」という紙が敷いてある。その上には百円玉が三枚すでに置いてあった。
「おー、こういうの田舎っぽいですね」
「盗まれたりしないのかな」
「なんですか、まさかユウトさん盗む気なんですか」
「するわけないでしょ……」
別に盗んだってバレやしないだろう。
だからといって、そんなことをする気なんて更々ない。気分が悪いし、それにそんなことしたら後ろからずっと誰かに監視されているような気分になる。
「ほら、好きなの選んでよ」
「何個までいいですか」
「一個」
台の上できれいに整列している総菜パンだったりメロンパンだったりコーヒーパン(趣味が悪い)だったりピザパンだったり納豆パン(もっと趣味が悪い!)だったり、そうしてクリームパンだったりを指差す。クリームパンだけでも二種類あった。一個一個が小さくて三つ入りのやつと、大きいのが一つの。どちらも百円。
クリームは大きいのが一つのクリームパンを取ると、早速包装を破いてもっちゃもちゃと食べ始めた。まだ代金払ってないのに。
ついでなので僕も保冷庫の中に横たわっていた缶コーヒーを頂戴することにした。クリームパンと合わせて百円プラス百円で二百円。良心的だ。百円玉二枚をクッキーの空き缶の中に入れる。先に入っていた百円玉にぶつかってチャリンと音がした。
クリームはクリームパンをもふもふ食べながら、僕は缶コーヒーをちびちびすすりながら、また誰もいない夏の街を、誰もいないアスファルトの上を歩いて行く。風が少しだけ吹いて、山にいるセミたちの合唱が響いて、汗が垂れていった。
「ふぁんふぁふぃーふぇふふぇ」
「なんかいいですね」
「ふぉーふーふぉ」
「こういうの」
「ふぁふっふぇふぁんふぃふぁふぃふぇ」
「夏って感じがして」
「んくっ……ナイス翻訳です」
「食べたままお喋りするのはやめなさい」
「食べたまま喋ってないですが」
「さっきまでの話だよ」
まあ、確かにこういうの、いいものだ。
今まで夏という季節をあまり意識したことはなかった気がする。四つある季節の内の一つで、尋常じゃないくらい暑くてだるくて、早く終われとばっかり思っていた季節。でも冬になると、今度は冬が終わって早く夏になれと思ってしまう。それの繰り返しだ。
「お、海ですよ」
その言葉に、少し下げていた顔を上げる。
海だった。海があった。
どこまでも青い水が続いていて、それがゆらゆらと揺らめいている。空では鳥たちがゆったりと飛行を続け、厚い雲が呑気に流れ、そうして砂浜には一人の女の子がいた。
女の子がいた。
女の子、だ。
この街にも、ハツミさん以外の人間がちゃんと存在していた。なんだかそれに、僕はちょっとほっとする。バカみたいな話だけど、道端で誰ともすれ違わずに、チョメチョメ商店の中も無人ときたらこの街にハツミさん以外の人間は住んでないのではないか、なんていう疑問も本気で信じてしまいそうになるんだ。
「ちゃんと生きているんだね」
「なにがですか?」
「この街にもちゃんと、人間が生きているんだね」
「なに言っているんだか。そんなの当たり前じゃないですか」
クリームはバカにしたようにそう言う。
当たり前だ。
そう、当たり前。
でも、クリームのそのバカにしたような、当たり前のことを当たり前だと諭すその言い方が、今はありがたかった。
砂浜を歩く。この辺りは流木が流れ着いているようだった。中には芸術的な曲がり方をした流木もあって、物好きにでも見せれば結構な値段で買い取ってくれそうだ。
そうして僕らの目の前には、こちらもまた流木とは違った、芸術的な日焼けをした女の子。海の向こうを見渡して、手にはバスケットを持っている。短い髪の毛を後ろでまとめているため尻尾がちょこんと飛び出していて、それが風に吹かれ生き物みたいにゆらゆら揺れていた。
この街で出会った、二人目の人間だ。
「こんにちは」
僕よりも先に、クリームが声を掛ける。
少女はその言葉に振り返る。やっぱり女の子だった。そうして人間だった。安心する。不思議そうに僕たちを見つめている。
「やあ」
初めて会った人間になんて声を掛けるのが正解なのか、僕にはそれが分からなかった。「やあ」なんて、なんだか馴れ馴れしい感じになってしまった。
「お」
と、女の子。
「おっ」
と、また女の子。
「おっ!」
と、さらに女の子。
「旅の人だっ!」
と、極めつけに女の子。
「旅の人っすよねっ!」
「あ、うん、まあ、そうなるのかな……」
旅をしているという実感はないが、確かに僕たちを客観的に見ればそう捉えることもできるだろう。
「うわ、旅の人だっ! 本物っす! ねえどこから来たんすかっ!」
ぐいっと迫られる。言葉的にも、そうして物理的にも。近い近い。
「どこ……まあ山の向こうから……」
「山って越えられるんすね! すごいっす!」
どういう教育を受けたんだ。
僕よりも一回り小さい、クリームよりは一回り大きい女の子は、またぐいぐいと迫りくる。
「山の向こうにはなにがあるんすかっ!」
「山の向こうにはまた街があるよ」
「その街から来たんすかっ!」
「いや、えっと、またその向こうにも山があるんだよ」
「その向こうにも山があるんすかっ!」
ぐいっ。
近い。
「じゃあその山も越えて来たんすかっ!」
「うん、まあ、そうなるね……」
「その山を越えた先にも街があるんすかっ!」
「まあそうだね……」
「その先にも山っ!」
「あるね……」
「その先には街っ!」
「あるね……」
「そのそのその先は山っ!」
「うんある、あるある、そんで街もある……」
疲れてきた。小学校の教師をやっているような気分だ。「センセー分数ってなんすかっ!」、「センセー電気ってなんすかっ!」、「センセーシューショクゴってなんすかっ!」みたいな。
「じゃ、旅の人はその街から来たんすね!」
そういうわけじゃない。もっと山を越えて、もっと街を越えて来たんだ。もっともっとたくさんの、数えきれないくらいの。
「ま、そうだね……」
けれど、これ以上やったらまた山を越え街を越えの反復運動になるのは目に見えていたので、僕は早々に切り上げることにした。
「あ、そういえば自己紹介してなかったっすね! ウミはウミっす! 海のウミっすっ!」
自己紹介で自分の名前を四回も発音する人間がどこにいるのだろう。ここにいた。
「……僕はユヅキユウト」
「クリームですよ」
「クリーム? 変わった名前っすね?」
「お兄ちゃんがつけてくれたんです」
そう言って、僕の左腕をかっしりと掴む。
「は?」
「おー! もしかしてお二人は兄妹だったんすかっ!」
「あのさ――」
「はい。そうですよ」
……なんでそうなるんだ?
意味が分からない。
「クリーム! ちょっと変わってるけどいい名前っす! 似合ってるっすっ!」
「えへへ、ありがとうございます」
「あのさ……」
いや、もう止そう。変に首を突っ込んで訂正したら、またおかしなことになるかもしれない。まだ兄妹であるだけいいのだろう。
クリーム……まだ短いつき合いだけど、どうやら単なる小さな普通の女の子と思ってはいけないみたいだ。
「……ウミはここでなにしてたの?」
僕は気を取り直してそう尋ねる。
「お、よくぞ訊いてくれました! これを見るっすっ!」
そう言って手に持っていたバスケットを突き出す。サンドイッチやフランスパンなんかを入れたら様になるだろうバスケットには、色とりどりの石のようなものが入っていた。
「これなに?」
「これは、シーグラスですか?」
「正解っす! よく分かったっすね!」
「シーグラスってなに?」
聞いたことがない。いや、あるのかもしれないけれど、名前を聞いてもいまいちピンとこない。
「ガラスの破片ですよ」
「これが?」
一つ取り出して見てみる。色は透明で、角がなく丸みを帯びている。本来なら透き通っていて向こう側を見通せたはずの透明は曇り、向こうの景色は薄く滲んでいた。
「川を流れてきた石は削られて、下流では小さく丸くなりますよね。それと同じで、ガラスの破片も波に揉まれ小さくなり曇るんです。それがシーグラス」
「よく知ってるっすね!」
「本で読んだことがあるんです」
なるほど。
しかし、これは説明されなければガラスの破片だとは到底気づかなかったかもしれない。一見するとただの色のついたきれいな石にしか見えない。
「それを集めて一体なにを?」
「ただ飾っても様になるし、ちょっとしたアクセサリーなんかも作れたりします。例えばこれに紐を通してペンダントにするとか。だから結構需要があるんですよ。数を集めると、いい値段になりますし」
「あ、いや、別にそういう目的じゃないっす」
ウミは笑い、言う。
「ウミ、お葬式をしなくちゃいけないっすから」
お葬式。
僕もクリームも、一瞬言葉に詰まる。ウミの口からいきなり飛び出してきた非現実的な言葉。けれど見方を変えればこれ以上ないほど現実的な言葉でもある。
少しだけの沈黙の後、
「……おばあちゃんか、おじいちゃんの?」
「ううん。そうじゃないっすよ」
元気溌剌な子だ。日焼けの跡が眩しい。いちいち声が大きい。尻尾がぴょこぴょこ跳ねたりふらふら揺れたりする。
「ウミのお友達のお葬式っす」
そんなウミのすべてが、今この瞬間だけは悪い冗談のように映る。
「……お友達、亡くなられたんですか」
「そうっす。それはとっても昔のことっす。ウミはこうやってずっとシーグラスを集めているっす。だってお友達のお葬式が寂しいのは嫌っすから。もう、ずっとずっと拾い続けているような気がするっす。それでも全然貯まってくれないっす。これじゃ、お葬式はできないっす」
ウミの顔に影が差す。
お友達の正体がなんなのかは分からない。けれど仮に人間だとしたら、葬式を何日もせずになんてことはできないだろう。恐らくだけど、ウミの言っているお友達っていうのは犬や猫のことだ。
「これだけじゃ、お友達が可哀想っす……」
手に持ったバスケットを揺する。中に入っている色とりどりのシーグラスがからからと揺れる。結構な量だけれど、確かに少ないと言われれば少ないのかもしれない。
じわり、となにかが僕の内側から溶け出しているような気分になる。
僕はどうしてこの街に来たのだろう?
それをもう一度考えてみる。
『僕はどうしてこの街に来たのだろう?』
けれど答えは見つからない。もしかしたら初めから答えなんてないのかもしれない。神様が雲の上で、頭を悩ませている僕を見てあざ笑っているのかもしれない。クリームはすべてを知っていて、僕について来ているのかもしれない。
でも、現状どうにもならないんだ。僕がここに来た理由は分からないし、クリームの存在も分からない。この夏の街だって僕は一ミリの理解もしていない。
けれど、こうして僕はこの街に来た。そうして今、目の前ではウミが悲しんでいる。
「……なら、僕らも少し手伝うよ。いいでしょ、クリーム」
「いい提案ですね、お兄ちゃん」
お兄ちゃんじゃないだろと素で答えそうになったけれど、そういえば僕らはウミの前では兄妹という設定になっていたんだった。なんて面倒くさいことをやってくれたんだ。
「え、でも、そんなの迷惑っすよ……」
「僕らは別に午前中なら暇だからさ。その間なら、手伝えるよ」
「で、でも……」
「そうですね。それがいいです」
「で、でもぉ……」
涙目になるウミ。なんでそこで泣くんだ。
「わたしたちはウミちゃんのお手伝いがしたいから、お手伝いをするだけですよ。ただそれだけです」
小さいくせに、やけに達観しているのがクリームだ。外見は小学生にしか見えないのに。
「それとも、わたしたちに手伝われるのは嫌ですか?」
「そ、そういうわけじゃないっす!」
「なら、決まりですね」
クリームはうんうんと頷く。ウミはおろおろと視線を泳がす。僕はそんな二人を見下ろす。
「ま、そういうことだよ」
「そういうことですよ、ウミちゃん」
「そういうこと……っすかあ……うん! そういうことっすねっ!」
涙目おろおろはどこへやら。決まって納得したら一直線。一秒後には一秒前を忘れ去り置いてきてしまう。どうやらそれが、ウミという女の子の性質みたいだ。
「ありがとうっす! うれしいっすっ!」
ぱっと花が咲く。僕はクリームの方を見ると、クリームもまた僕の方を見ていた。「面白そうなことになりましたね」とでも言いたげな表情だ。「そうだね」と僕も表情だけで返しておいた。
「すごいっすっ! 今日集めたシーグラスの量がいつもの三倍になったっすっ!」
そりゃ三人で集めたんだから三倍になるだろと思ったが、言わないことにした。言ったところでウミが僕の言葉を理解してくれるかも怪しい。
「二人とも、本当にありがとうっすっ!」
「お礼なんていいよ。好きでやっただけだし」
広大な砂浜の中から海の宝石を探し出すという作業は中々に楽しかった。子どもの頃に持っていた好奇心を取り戻したような気がする。
「僕たちは午後から予定があるから帰るよ。じゃあまた明日」
「はいっすっ!」
ブンブンと手を振るウミ。僕ら二人も遠慮がちに振る。そうして後ろを振り返って、民宿『夏休み』を目指して歩いて行く。きっとウミのことだ、僕らが背を向けてもまだ手をブンブンと振っているかもしれない。
「いい子ですね、ウミちゃん」
「純粋すぎるかもしれないけどね。あとちょっとおバカ」
「そういうこと言っちゃダメですよ、お兄ちゃん」
「それウミの前だけにしてくれないかな」
そんなことを言い合いながら歩いているとき、僕はふといいことを思いついた。後ろを振り返る。
すると、
「~~~~~~~~~っ!」
予想通りブンブンと振っていた。両方の手をブンブンと。
僕は大きく息を吸って、そうして叫ぶ。
「ウミっ! 好きな食べものなにっ!」
ウミはポカンと口を開け呆気に取られる。けれど一秒後に、
「カレーパンが一番好きっすーーーっ!」
清々しい声が夏の街に響いた。
僕は了解の意味を込めて親指を立てる。ウミも親指を立てる。
そうして、僕は後ろを振り返る。クリームは楽しそうにけらけらと笑っていた。
「わたしのときはちょっと渋ってたじゃないですか」
「ウミみたいに愛想がよくなれば、僕だって喜んで買ってあげるよ」
「愛想ならとってもいいじゃないですか。ひどいですね、お兄ちゃん」
「だから、そういうところだよ」
厨房の奥に引っ込んで、僕はただ無心に皿を洗い続けていた。一体いくつ洗っただろう? 下手したら千を超えたかもしれない。いや言い過ぎた。二百がせいぜいだ。
僕が一生懸命汚れを落とした皿を、隣でクリームがせっせと拭いてくれている。きゅっきゅっという規則的な音が響く。
「お葬式って、なんのことだと思いますか?」
きゅっきゅっ。
あまりにも突然そう尋ねられたので、僕は一瞬なんのことだか分からなかった。けれどすぐに、ウミのことだと気がつく。
「多分だけど、犬とか猫とか、ペットの葬式のことだと思うよ」
「やっぱりユウトさんもそう思いますか」
きゅっきゅっ。
いつの間にか呼び方がお兄ちゃんから戻っている。
「まあ、それ以外にないでしょ。ウミの言うお友達が人間のお友達だとしたら、葬式をやるのを待ってくれなんてできない。シーグラスを集めているうちに燃やされちゃう」
「もっともですね」
きゅっきゅっ。
最後の一つを洗い終わり、それをクリームに渡す。クリームはそれをきゅっきゅっと丁寧に拭くと、お皿の山の一角に置いた。何十種類ものお皿の収納場所は僕たちでは把握しきれないので、ここからはハツミさん任せだ。
「さて、皿洗いが終わったら掃除だ。行くよ」
「はい」
ホウキとちりとり、そうして雑巾を手に、僕らはほこりの一つも残さないように、民宿『夏休み』の隅という隅まで徹底的に磨き尽くした。すべてが終わる頃には、もう夕食の時間になっていた。