スマイル
夢を見ていた。
悲しい夢。けれど悲しいだけじゃない、楽しくもあった。
すごく不自由で、そうしてすごく自由でもあった。
涙が溢れ、けれど笑ってもいた。
そんな夢を見ていた。
気がついたら僕は夏の街にいた。
僕の手にはどこで買ったのかも忘れたブラックの缶コーヒーが握られていて、頭がおかしくなりそうなほど気温が高くて、太陽の直射日光は僕を本気で殺しにきていて、缶コーヒーはすでにぬるくなっていて、僕は背中に尋常じゃない量の汗をびっしょりと掻いていて、目の前の景色が陽炎のようにゆらゆらと揺れて、そしておまけに……夏の街にいた。
「……缶コーヒー、もう一個買っておけばよかった」
確実に足りなかった。この調子じゃ干物になってしまう。
ぬるい缶コーヒーを胃の中に流し込み、ため息をつく。
僕は眼前に広がる山と海に囲まれた、入り組んだ夏の街を目指して歩みを進めた。普通ならその景色を見ておーきれいだなーと思うところなのだろうが、残念ながらそう思っている余裕なんてない。身体が一秒でも早く水分を、出来得るならコーヒーを流し込めと僕に言う。
山を下り、夏の街に着いた。人っ子一人いない。自動販売機すらない。絶望する。
そう思っていると、少し先の方に人がいるのが見えた。僕は藁にもすがる思いでその人の元へと駆けていく。
「すいません、この辺りで自動販売機って……」
僕がそう尋ねると、小麦色に焼けた肌をした女の子と、その友人らしき人が僕を見る。二人ともお揃いの宝石のペンダントを首から下げていた。
「自動販売機っすか? この街にはないっすね!」
「ほ、ほんとに……?」
「飲み物が買いたいなら街にある商店に行ってみるといいっすよ! たくさん種類があるっす!」
小麦色の肌をした女の子は懇切丁寧にその商店までの道のりを僕に教えてくれると、友人を引き連れてどこかへと行ってしまった。
「商店か……遠くないといいんだけど」
その商店に辿り着くのが先か、それとも僕が干物になるのが先か。
女の子に教えてもらった道のりを進むと、大通りに出た。大通りといってもこの夏の街基準で大きいという意味で、大して大きいわけじゃない。むしろ小さい。
えっと確か、この大通りを進んでいくとあるって訊いたけど。大通りに出たら右に……あれまて、左だったっけ。
……まずいな、なんでちゃんと話を訊いていなかったんだ、僕。商店があるということに気を取られて右か左かを忘れてしまった。
がっくりとアスファルトに膝をついて絶望する。けれど地面が想像以上に灼熱ですぐに立ち上がる。何事も上手くいかない。干物になる確率がアップ。
「だいじょうぶ?」
不意に声を掛けられて顔を上げると、これまた女の子。しかもこんな真夏だっていうのに長袖を着てストッキングを履いている。見ているだけで暑くなってくる。
しかも極めつけは猫、猫、猫、さらに猫。女の子は猫を全身にまとっていた。
「どうしたの?」
「……この街に、商店があるって、訊いたんだけど……」
「それなら、あっひ」
女の子はそう言いながら左側を指差した。
あっち、と言おうとしたのだろうが、頭の上に乗っていた白い毛並みの猫がずり落ちて女の子の顔面をふさいでしまったため、ちがひになった。
「じゃあ、きをつけてね」
「あ、ありがと……」
ずり落ちた猫をそのままに、女の子は反対の右側へとすたすたと歩いて行った。ちゃんと前が見えるのか気になったけれど、歩いているんだから見えるのだろう。猫たちもぞろぞろと女の子の後に続く。それはあまりにも不思議すぎる光景だった。
……まあ、なにはともあれ僥倖。僕は心の中で二人の女の子に感謝をした。まだ干物にならずに済みそうだ。
うるさいセミの合唱を聞きながらさきほどの女の子の言う通りに道を進んでいくと、そこにはなんとか商店、と書いてある看板が掲げられた建物が目に入った。ちなみになんとかの部分は掠れていて読めない。
灼熱の夏の街の希望。そこはまさにオアシスだった。息が荒くなってしまう。飲み物に、コーヒーにありつける。そう思うと乾き切った身体の奥の方がうずうずしてくる。あるいはただのカフェイン中毒。
僕は意気揚々と中に入る。けれどカウンターには人がいない。
そうして、僕以外の来客が一人、そこにはいた。
「……これはこれは」
その人は僕を見つけるとうれしそうに笑う。僕は意味が分からずにしかめっ面をする。
僕よりも一回りほど小さい背丈。重力を思う存分享受してストンと地面に向かう真っ黒な髪の毛。細い手足、僕を見上げる視線。
恐らく、僕より年上の女の人。
「ユウトさんじゃないですか」
「なんで僕の名前を……?」
「わたし、ちゃんと約束守りましたよ。ちゃんと生きましたよ。でもなにも残りませんでしたね。幸せになれたかと考えると、うーんどうでしょう。なれなかったような気がします。だからまた来ちゃいました、夏の街に。ユウトさんはどうですか、ちゃんと約束守ってくれましたか?」
「約束?」
「ちゃんと、幸せに生きてますか?」
「さっきから一体なにを……」
意味が分からない。なにを言っているんだ? そもそもどうして僕の名前を知っている?
理解ができなかった。頭の奥になにかが突っかかっているような感覚がある。というか僕はコーヒーを買いに来たんだ。こんな意味不明なことを口走るおかしな女の人に会いに来たんじゃない。
クーラーボックスから缶コーヒーを取り出す。どうやら一つ百円らしい。良心的な値段設定だ。
店主がいないのにどうやってお金を払うのか、と思ったけれど、カウンターにはクッキーの空き缶が置いてあり、そこには他の買い物客が払った百円玉がいくつも入っていた。どうやらここに置いていくらしい。防犯対策が、と思ったけれど、この夏の街ではそんなことを気にすることもないのかもしれない。
僕は少し気になって、一体百円玉が何枚入っているのか一枚一枚数えてみた。そうすると、合計で二十八枚あった。百円玉が二十八枚。田舎の寂れた商店だと思ったけれど、意外と繁盛しているらしい。
「あ、これ買ってくださいよ」
意味不明女が横から僕にクリームパンを渡してくる。
「……」
こういうのは下手に構ったらつけ込まれる。後々になって壺とか絵画とか買わされるんだ。それか三万円を振り込んでくれたら百万円にして返しますよ、とか。
「ねえユウトさん、わたしはちゃんと約束守りましたから、そっちはどうなんですか?」
「……」
「ユウトさーん」
「……」
「さーんユウトユウトさーん」
「……」
無視だ。構っちゃいけない。
僕は缶コーヒーを手に、さっさと商店から出ていこうとする。
けれど意味不明女が行く手を阻む。
「……そういうところだよ」
そういうところが、君らの常套手段で、そうして僕が騙されないわけでもある。
「どういうところですか、おにーたん」
「だからそういうとこ……ろ……だ……?」
突然発せられた、本当に意味不明で理解不能で解読不可能な言葉。
けれどなぜか僕は、その言葉に聞き覚えがあった。
記憶を手繰る。忘れていたものを思い出そうとする。
言葉の切れ端ばかりが引っかかる。大きな間違いを犯しているような気分になる。
「クリームパン……」
「クリームパン。わたしの大好物です」
「ああそうだ、そうだった。君の大好きな食べ物はクリームパンで……ああなんでそんなこと知ってるんだ? 意味が分からない……」
どうなっているのか理解ができない。
記憶の残滓に潜り込む。夏の空気に閉じ込められた僕の不確かで曖昧なかけらを見つけ出そうとする。
「どうして君の名前はクリームなんだっけ……」
「単純ですよ、クリームパンが好きだからクリーム。本当の名前はカモメって言います」
「ああそうだった……忘れていた、そうだったんだ……」
脳みそに夏の空気が焼きつく。不鮮明だったものが徐々に鮮明になっていく。絡まっていた糸が解けていく。
僕がこの街に来た理由。
「……結局僕は幸せなんかになれなかった……気がする。もう一度僕は自分自身や、そうして僕を取り巻く環境について真剣に向き合ってきたけれど、やっぱり僕にはなにも残らなくて、なに一つとして残らなくて、だからこの街に、この夏の街に来たんだ。この夏の街に来たのは、きっとそういう理由で……」
「クリームパン、千個ですね」
「指切りげんまんしたからね……」
「ちゃんと覚えてるじゃないですか」
その言葉で時間が止まった。
覚えてる。
僕は覚えていた。
僕は覚えていたんだ。
記憶が溢れ出してくる。透明な膜が破け抑え込んでいたものが流れ出てくる。どうしようもないほどの速度で、どうしようもないほどの温度の、どうしようのないほどの量のそれが。僕がずっと閉じ込めて忘れ去ってしまっていたものたちが。僕の脳のキャパシティを完全に越えて、僕の意志なんか一切関係なく、体内を循環して僕の身体全体へと行き渡っていく。呼吸が乱れ、心臓が跳ね、汗が垂れ、喉は張りついて血の味がした。視界が滲んだり鮮明になったりをくり返し、脳内でひっきりなしに映し出される映像すべてを僕は感じ取る、そうして理解する。
僕が閉じ込めていた記憶が全部僕の中に流れ、そうして順応した。
「……僕より年上のクリームが見れるなんてね」
「わたしだっていつまでも小学生じゃないんですよ。ユウトさんがそうやって高校生になるまでの間、わたしだって成長してたんですから」
「じゃあ今は二十代後半ってとこ?」
「そういうデリカシーのないこと言う人でしたっけ」
「ごめんごめん」
「まあいいですよ、クリームパン千個買ってもらえますし」
「え、それ本気だったの?」
「本気ですよ、本気も本気。こればっかりはちゃんと買ってもらいますからね。今のうちに言っておきますけれど、これは、本当に本気ですからね。千個、本当に買ってもらいますから」
そう言って、その最初の一個を僕に渡してくる。僕は観念してその分の代金を払う。クッキーの空き缶の中には百円玉が合計で三十枚になった。キリがいい。
残り九百九十九個……危うく意識を失いそうになった。
「ユウトさん」
「あ、なに?」
失いかけた意識を気合で取り戻す。
「わたしにはなにも、なに一つとして残りませんでした。結局慣れてしまいました。そうしてやっぱり、幸せってなんなのか分かりませんでした」
クリームはそう言って、少し悲しそうに目を伏せた。
「……まあ僕も、結局一回死んでリセットしたのに、最初と同じような結末を辿ったよ。なにも残らず、そうして幸せがなんなのかも分からなかった」
「わたしたち、似た者同士ですね」
「まったくね。最悪な形の似た者同士」
「結局わたし、一人で夏の街に来ちゃいましたもん。ユウトさんが事故を起こしていなければ辿り着けた、こっちの世界の夏の街」
「僕も結局一人で夏の街に来た。バイクじゃなくて、今度は歩きで」
僕らに手のひらになにかが握られていて、そうして少しでも幸せの正体を知っていたのなら、きっとこの夏の街には訪れなかった。けれどまた二人とも、示し合わせたようにやってきて、そうして僕らはまた出会った。
「釣りと探検がまだですよ」
「そういやそうだった」
ただ、あのときの夏の街と違うのは、僕がまだ生きているということだった。つまりこの夏の街が終わることはないということ。
だからといって、一生ここで夏休みを謳歌できるというわけじゃない。僕には僕の終わりがきっとあって、そうしてクリームにはクリームの終わりがきっとある。そのときが訪れたら、僕らの逃避行もまた終わりを迎える。
けれどそれまでは自由なはずだ。僕らは空を飛べるはずだ。
自由なカモメは、夏にだってきっと飛べる。
「ユウトさん、行きましょ!」
なんとか商店を出ていって、クリームはこちらを振り返って僕を待つ。笑顔で。
なにも残らなかったし、幸せの正体も分からなかった。
けれど少しだけ。ほんの少しだけ、その幸せの正体ってものが分かったような気がする。
……気がするってだけ。本当に、それだけ。
僕は缶コーヒーとクリームパンを手に持ってうんたら商店の外に出た。太陽は殺人的で、すぐに背中から大量の汗が噴き出してきて、セミがうるさくて、おまけに……夏の街にいた。
「こりゃ、楽しくなりそうだ」
僕はそう言いながら、自然に、ごく自然に笑った。