夏の街の少女 4/4
足が筋肉痛になりそうだった。こんなに歩いたのは久しぶりな気がする。貧弱な僕の身体に長時間の負荷は応える。
クリームの提案でもう一度海に来るころには、もう空は夕焼けに染まってしまっていた。そうして来てみると、海なんてそこにはなかった。
砂浜から先が全部なくなっている。海は真っ白な空間に呑み込まれて認識ができない。
その光景を眺めながら、クリームは文句を言う。
「早すぎますよ」
本当に、そう思う。
クリームは砂浜に落ちていたシーグラスを拾うと、それを振りかぶって投げた。シーグラスは真っ白な空間に吸い込まれると、音もなく消えていった。
クリームは何度も何度もそうする。シーグラスを拾っては投げる。そうしてまた拾っては投げる。けれどいくら投げても、海の中に落ちるポチャンという音は響いてこなかった。
「バカ」
僕に対して言ったのかもしれない。もしかしたら海に対して言ったのかもしれない。
あるいはもっと、もっと抽象的で曖昧なものに対して言ったのかもしれない。
「ヤダなあ」
呟く。
「ヤダ」
呟く。
「バーカ」
声は段々と小さくなっていく。
「……あー、ほんとにヤダ」
敬語が崩れている。取り繕った仮面が剥がれている。
「幸せってなんなのかな?」
クリームはそう呟く。
幸せ。
それは一体なんだろう。
僕にはそんなこと分かりっこない。
死んでしまっても結局分からなかった。
きっと生まれ変わっても一生分からない。
。
ウミとソラは幸せだったのか、それは分からない。僕とクリームは幸せだったのか、それも分からない。楽しかった瞬間はたくさんあった。苦しい瞬間も悲しい瞬間もたくさんあった。
けれど幸せだったのか、そうして幸せじゃなかったのか、一体どちらだったのかは、やっぱり分からない。
そうして幸せというものの正体も分からない。
けれど今でも、ソラの『たすけて』という言葉が、僕の頭に焼きついて消えてはくれない。
「終わっちゃう」
「そうだね」
「悲しいな」
「でも、仕方のないことだよ。ここに来られただけでも十分に奇跡なんだから」
「……うん」
本当なら僕らはここにいなくて、僕もあの事故で死んで、そうしてすべて終わってしまっていたはずなんだ。
もしあのとき事故を起こさずに、僕らがあの世界で夏の街に到達できていたらどうなっていたのだろう?
けれど、そう考えるのは野暮なのかもしれない。バイクはひっくり返った。僕は事故を起こした。そうして死んだ。それだけだ。それが事実。
二人で呑み込まれていく海を眺める。青の割合は徐々に減っていき、白の境界が僕らに押し迫る。理不尽に、束縛するように、それは僕らの夏の街を蝕んでいた。
「お家に帰りましょう、ユウトさん」
「そうだね」
立ち上がって、海を後にする。もう一生訪れることのない海への別れは、案外あっさりしていた。波の音も、セミの合唱も、夏の街には響いてこなかった。そうして昼間はあれだけ猛威を振るっていた暑さも、もうすっかり和らいできていた。
その理由は夜になるから、だけではないような気がする。きっともうすぐ夏が終わるんだ。僕らの夏休みも終わる。
民宿『夏休み』に着いて、やっぱりハツミさんはいなかった。そこかしこにタバコのパッケージが置いてあって、なぜかどれも一本や二本、中に入ったままだった。なにかの儀式でもしていたのかもしれない。あのおばあさんならしていても別に驚かない。
お腹が空いたので晩ご飯を作ることにする。今までと違い仕事が終わり一息ついたらハツミさんが作ったご飯を食べる、なんてことができない。
「ちなみに、料理のご経験は?」
僕はクリームに尋ねる。
「学校の調理実習でお魚を焼きました。それ以外では記憶にないですね」
「奇遇だね。僕も調理実習以外でやった記憶がない」
さて、これは大変な作業になるぞ。
カレールウがあったので、カレーを作ることにする。幸いパッケージの裏に作り方が書いてあった。その通りに作ってみることにする。
えっとまずは、切ったニンジン、じゃがいも、玉ねぎ、そうしてお肉を炒める。
ふむ、野菜たちを切るところからか。まな板と包丁、それと食材を野菜室から取り出す。そうしてへたを取り、ニンジンを切ろうとしたとき、
「あれ、ニンジンって皮をむくんじゃなかったでしたっけ?」
「え、そうだっけ?」
皮をむくのか? でも見た感じ皮らしい皮なんてないような気がする。玉ねぎやじゃがいもの皮ならむくことは知っているけれど、果たしてニンジンはむくべきなのだろうか。
「あれ、ごめんなさい勘違いかもしれないですね」
「まあ、皮なんてない気がするからね」
ニンジンに皮なんてないから、そのまま切ってもいいだろう。どうやって切るのが正解なのか分からないから、僕は頭の中にカレーを思い浮かべて、そこに入っているニンジンの形を思い出していた。結構ゴロゴロしている。
そうなるように包丁を入れてみる。けれどどう頑張っても輪切りになったり、長方形になったりしてしまう。結局思うようにいかないうちにニンジンを切り終わり、まな板の上にはバラバラの形のニンジンたちができ上がってしまう。
「ヘタクソですね」
「そう言うならやってみてよ」
「望むところです」
クリームは玉ねぎを手に取って頭とおしりの部分を切り落とし、皮をむいた。そうして迷いなく縦にずどんと包丁を入れたかと思うと、そのまま固まってしまう。
「……分からない」
「えっ?」
「なんでもないです」
「今分からないって言ったよね?」
「幻聴です」
「確実に言ったと思うけど」
「言ってません」
「いや絶対に言ったね」
「刺しますよ」
さすがに刺されたくはないので黙ることにする。けれどそもそも死んでいるんだから刺されてもいいんじゃないかとも思う。けれど痛そうなのでやっぱりいやだ。
すぐに包丁を持ち直すが、さっきまでとは違いクリームの手には迷いがある。二つに分かれた玉ねぎを見つめると包丁の刃をまな板と平行にし、そうして横に切った。
なるほど横か。確かにそれは僕も考えていた。なにも縦に切るだけじゃない、横にだって切っていいはずなんだ。それに気がつくとはさすがクリーム、やはり侮れない小学生だ。
クリームはそのままぷるぷると手を震わせながらも横に切っていき、玉ねぎは細くスライスされた。
「……さ、次はユウトさんですよ」
「やるね。でも次で格の違いってものを見せてあげるよ」
次は僕で、食材はじゃがいもだ。
じゃがいも……まずは皮をむくところから始めなければいけない。僕はリンゴの皮むきよろしく左手にじゃがいも、そうして右手に包丁を持つと、ちまちまと皮をむいていった。これが正解かは分からないけれど、こうする以外の道はないような気がする。
何分格闘していたのかは分からないけれど、相当な時間がかかりやっと皮をむき終わる。その後でまた一口大の大きさに切り分けていく。けれどまた輪切りになったり長方形になったりする。失敗からなにも学んでいない。
「学習能力ゼロですね」
「まだ最初の工程が終わっただけだ。これから挽回できる……えっと、切り終わったらこれを炒めるんだな」
野菜たちと豚肉を鍋の中に入れて炒めていく。一体どれくらい炒めればいいのか分からないので感覚だ。とりあえずいい感じの匂いがすればよさそうな気がする。別に少し時間を間違ったって死にはしない。いやもう死んでるけどさ。
炒めたら水を入れて煮る。その後でルウを入れてとろみが出るまで煮込んだら完成。
恐らく炒め終わったので水を入れて食材を煮る。指示通りやっているのに不安しかない。
「UMAが誕生したらどうしましょう」
「食べるしかない」
「ですね」
もう分からん。そろそろルウを入れていいような気がする。けどルウ何個入れればいいんだ? えっと、水が二百ミリリットルに対して……ああもうめんどくさい、全部入れていいだろ。
ルウを入れると、鍋からは僕の知っているカレーの匂いが立ち込める。どうやらここまでは正しかったようだ。案外料理というものは感覚と勘だけでなんとかなるらしい。
「ユウトさんにしては中々上出来ですね」
「見直したでしょ」
「二ミリくらいは」
「その言葉は肯定的に受け取っておくよ」
そのままずっと煮続けていると、説明書に記載してあった通りにとろみが出てくる。ということは、もう完成ということだろう。
「あっ」
クリームがなにかを思い出したように呟く。
「どうしたの?」
「一つ重要なことを忘れています」
「一体なにを?」
全部手順通りにやったはずだ。野菜も切った、それと肉を炒めて煮た。そうしてカレールウを入れてとろみがつくまで煮続けた。どこでも間違っていないような気がする。
「ご飯が炊けていません」
「……ああ、なるほどね……」
確かに重要なことを忘れていたな。
ご飯がなくてカレーだけを食べても案外美味しいものだな。
と自分たちを騙しながらカレーを完食した。野菜にはちゃんと火が通っていなかったし、ルウを入れ過ぎたのか底の方で溶け切らずに残っていたし、そしてなによりご飯がなかった。やっぱりご飯は必要だった。
いつの間にか夜になり僕の部屋。カレーについての悪口と罪の擦りつけ合いが一通り終わり、僕らは互いにため息をついた。あらゆる感情を乗せたため息を。
窓から覗く夏の街は闇ではなく真っ白な空間に呑まれていた。海も砂浜も見えなくて、まるで僕らを追い詰めるようにじりじりとその境界線はこちらに迫ってくる。
もう分かっていた。今日がその日、この夏の街の終わりの日だってことは。
「もっといろんなことができたような気がするな」
「例えばなんですか?」
「釣りとか、探検とか」
「覚えててくれたんですね」
「まあね」
ほかにもいろいろと、きっと今この瞬間には考えつかない楽しいことがたくさんあったのだろう。けれどそれをする時間は残されていない。僕らは白に呑み込まれる。
二人で外を眺める。境界線は僕らに近づいてくる。タイムリミットは刻一刻とにじり寄ってくる。けれど僕に焦りや恐怖はなかった。落ち着いていて、爽やかな気分。
自分が死ぬ瞬間なんて想像もつかない、なんて昔に思ったような気がするけれど、今実際にその瞬間に直面してみると分かる。
死の瞬間は、どうしようもないくらいに穏やかだ。
「死なないでくださいよ」
ぽつりと、クリームがそう漏らした。
「ねえユウトさん、死んじゃダメですよ。釣り一緒にやってくれるんですよね? 探検もしてくれるんですよね? じゃあ、死んじゃダメじゃないですか。生きなきゃダメじゃないですか。ねえ、そうですよね。そうしなきゃ、ダメじゃないですか」
「ねえ、クリーム」
僕は目を閉じてみる。そうすると、境界線が迫ってくる音が聞こえるような気がした。
けれどそんなのはただの幻聴。聞こえてくるのは僕の呼吸の音と、クリームの呼吸の音だけ。虫の羽音も、小鳥のさえずりも、潮の満ち引きの音も聞こえはしない。この夏の街に存在しているのは僕らだけだ。僕ら以外の音は空気を揺らさない。夏の街は僕らが支配していた。
「僕の気持ちを踏みにじるのは、いい加減にしてほしいよ」
「――っ!」
「その願いはね、とってもワガママで、とっても身勝手で、そうしてとってもいい加減なんだ。どうかそれを分かってほしい。これ、君が僕に言ってくれた言葉」
「……そんなこと、確かに言いましたね」
「僕だってそりゃ生きたかった。今から生き返ってもいいよって言われたら、そりゃ喜んで生き返るよ。でも死んじゃったし、そうしてこの夏の街も消えてしまう。そう『決まって』しまっている」
「……そうですね、そう『決まって』しまっていましたね」
僕ら二人の物語は夜の公園から始まり、そうしてこの夏の街で続いていった。本当に思いがけない形で続いていった。ハツミさんに会い、ウミに会い、ソラに会った。この出会いを運命だとは言いたくない。僕は運命という言葉があまり好きではないんだ。きっと全部単なる偶然。偶然に偶然が重なっただけだ。僕とクリームが出会ったのも偶然。クリームの隣にいたのが僕じゃなくてもきっとよかった。僕以外の誰かでも、僕と同じ役割を果たしてくれていたはずだ。
だからこそ、僕は今この瞬間という偶然をとても大切にしたいと思っている。
僕の右手の小指に、クリームは自分の右手の小指を重ねる。そうして小さく力を込めてそれを持ち上げ、僕らの間へと持ってきた。
「指切りげんまんしましょう」
「ウソついたら針千本飲まされる?」
「クリームパン千個買わされます」
恐ろしい。身の毛がよだつ。
「で、なにを約束するのさ」
「わたし、あっちに行ったら死のうと思ってました」
その言葉に、僕の心臓は跳ねる。
「けれど、止めます。ちゃんと生きます。幸せってなんなのか、やっぱりよく分からないし、あの世界で生き続ける意味も今は見出せませんけれど、それでもちゃんと生きます。だから、その約束を破らないように、指切りげんまん」
「……うん」
生きていると、きっといいことがある。
僕にはそう言うことはできない。けれどだからといって、死んだほうがいいとも言えない。僕だってあの世界で高校生になるまで生きていたわけだから。
けれど、これは本当に僕の身勝手でワガママな願いだけれど、クリームには生き続けてほしい。本当に、身勝手でワガママな願い。
「これ一つじゃありません。もう一つだけ約束があります」
クリームはそう言うと、僕の目を見た。僕もクリームの目を見る。
「ユウトさんが次生まれ変わったら、どうか幸せに生きてください」
「……難しい願いだね」
「約束してください」
「破ったらクリームパン千個?」
「その通りです」
「いやな約束だ」
「約束してほしいです」
幸せがなんなのか分からないのに幸せに生きるとはこれいかに、と思ったけれど、次に生まれ変わる僕はそんな問いに対して簡単に答えを出すのかもしれない。けれど生まれ変わっても結局は僕だ。そう上手く答えが出せそうにもないけれど。
まあいいや。面白い約束だ。やってみてもいいかもしれない。次の僕に幸せの答えを出すことを押しつける、すごく無責任な約束。次の僕もきっと悩むことだろう。もしかしたら次の次の僕にまたそれを押しつけるかもしれない。
「いいよ、約束」
「……それじゃ」
クリームの小指に力がこもる。そうしてそれに引っ張られる。僕もその単純な動きに合わせて一緒に小指を動かすと、なんだか結婚式のケーキ入刀をしているみたいだなと思った。二人でクリームたっぷりのケーキを切る。その場面を想像すると、とても笑えた。
「指きりげんまん」
クリームはそう言うと、目で僕に訴えかけてくる。どうやら僕の番らしい。
「ウソついたらクリームパン」
そこで区切る。クリームは笑う。僕も笑う。
「千個」
さらに短くなる。
「かー」
僕がそこで区切ると、クリームは控えめに声を出して笑った。なんだかそれが微笑ましくて、僕まで同じように笑う。
「わー……あははっ!」
自分でそう区切っておいて自分で笑うクリーム。僕もつられて声を出して笑う。
「すー……はははっ! なんだこれ!」
意味が分からない。僕ら一体なにやってるんだろ。ただの指きりげんまんで笑ってるようじゃ、もうどうしようもない。
最後、僕らは笑い合いながらお互いに見つめ合った。笑いすぎて目の端には涙すら浮かんできてしまっていた。そうして小指に力を込める。ちゃんと生き続けるという約束。幸せになるという約束。その約束を、お互いに交わし合う。
そういえばウソついたらクリームパン千個って言ってるけど、それってクリームが約束を破った場合も僕が千個買うのだろうか。ああ、もしかしてまた一杯食わされたのか。相変わらずクリームには敵いそうにないな。
最後の言葉が僕の部屋に響くことはなく、海も、砂浜も、造船所も、飛行場も、シーグラスにまみれた人骨がある空間も、なんとか商店も、民宿『夏休み』も、僕も、クリームも、真っ白な空間に呑み込まれていく。どうしようもない速度で、どうしようもない温度で、どうしようもなく平等に、どうしようもなく無感動に、どうしようもなく平坦に。
そうしてどうしようもなく、温かく。
最後の最後、僕らの指切りがどうなったのか、それを知る手段は残されていない。白の境界線の端と端がぶつかりすべてが消えてなくなり、音も、姿も、なにもかも、夏の街に存在した形あるものはすべて白に呑み込まれ分解され、消えてなくなったから。
そうして、夏の街が終わった。
そうして、僕は死んだ。